「ほむほむっ! 今日も励んでおるな、新九郎よ」
「はい! おはようございますっ!」
ひんやりとした空気と早朝特有のひぐらしの鳴き声が響く境内。
まだ朝日も満足に昇らぬ薄明かりの下。日課となっている朝稽古に励む新九郎に、水汲みを終えた凪が声をかけていた。
「その様子では、また随分と早くから稽古をしておったんじゃろ? ――――ほれ、これを使うのじゃ」
「あ――――ありがとうございます。凪さん」
きっちりとたすき掛けされた小袖袴を纏い、元気よく凪に挨拶する新九郎の額からは幾筋もの汗が流れ落ちている。凪はそんな新九郎に持っていた手ぬぐいを渡すと、感心したように何度も頷いた。
「ここのところは毎朝じゃな。以前は一日おきとかじゃったろうに。何か心境の変化でもあったのかの?」
「たはは……心境の変化というか。そもそも僕、この前の決闘でも完全に力不足でしたし――――奏汰さんが僕に力を貸してくれてなかったら、絶対に死んでました」
「むむぅ……それを言うなら、あの場では私も同じく死ぬ寸前だったのじゃ。お気に入りの棒も折られてしまったしの!」
「あ――――いえ」
新九郎の言葉に、悔しげな表情を浮かべてぐぎぎと拳を握る凪。実は凪愛用の赤樫の棒は、あの決闘の最中に叩き折られて喪失していた。
確かに六郎や新九郎と比べれば健闘したといはいえ、凪もまた強大な大位の鬼を相手に、窮地に陥っていたことに変わりはなかった。しかし――――。
「やっぱり凪さんはとってもお強いです。六郎さんだって、僕なんかよりずっと強い覚悟と想いの強さがありました。 ――――あの場で僕だけが、強さも、心も足りていなかったんです」
どこか励ますように言う凪の言葉に、新九郎は自身の手のひらを見つめて首を横に振った。自身の力量不足は、新九郎自身が一番良くわかっていた。
「ほむ……新九郎も色々と考えておったんじゃのう」
「むしろ、凪さんはどうしてそんな風に平然としていられるんですか? 僕はあの理那さんのお話を聞いてから、ずっとそればかり考えてしまって――――」
新九郎は言うと、自身の手の平から視線を上げ、今は六郎と理那が二人で暮らす家のある方へと目を向けた。
二人が住む建てられたばかりの小さな家は、うっすらともやのかかった木々の向こう。新九郎と凪のいる神社の一角からでも見える場所にあった。
「理那の話というのはあれかの? 私らが今いるこの世界が大変なことになっておるとか、奏汰や影日向が元々おった世界の神々が色々と好き勝手しておるとか、そのあたりのことかの? それなら私もとんでもなく驚いておるのじゃっ!」
「ええっ!? お、驚いてたんですかっ!? 全然そんな風に見えませんでしたけどっ!?」
「にょーっ!? お主、私をなんだと思っておるのじゃ!? こう見えて私は繊細な乙女なのじゃ。あのような話を聞かされては飯もろくに喉を通らず、日ごとにやせ細るばかりなのじゃ……」
「昨日も一人で豆大福いっぱい食べてたじゃないですか……。三個も……」
「のじゃ!? 豆大福は美味いから良いのじゃ!」
理那の話を聞かされたその場こそ驚きを見せた凪だったが、その日の晩にはすっかり普段通りとなっていた。そんな凪が自分と同じように今も驚いていると知った新九郎はその事実に逆に驚かされる。
後半のやりとりも完全に嘘八百。寝食を共にする新九郎が見る限り、凪はむしろ以前にも増して飯に魚に野菜に大福にとその健啖ぶりを発揮していた。
そんなやりとりをするうち、当初は神妙かつ真剣だった新九郎もあっけらかんとした凪の様子に引きずられるようにして、普段の笑みがその顔に戻ってくる。
そして一通り明るい笑い声を早朝の境内に響かせると、凪はふと穏やかな笑みを新九郎に向けた。
「突然色々と言われても、わからんものはわからんのじゃ。私はこの場所で生まれ、ずっと江戸の町で皆と共に生きてきた。今さら他の世界がどうと言われても、私には想像もつかんしの――――」
凪は言うと、新九郎が自身の傍の木に立てかけてあった何本かの木刀を手に取り、ぶんぶんと振ってみせる。
「私も新九郎も、皆ここで生きているのじゃ。たとえよくわからん神や見たこともない者たちからどう扱われ、どのような危機に晒されていようと――――私の場所はここじゃ。それは、これからもずっと変わらぬ」
「みんなの場所――――」
それなりの重さを備えた稽古用の木刀を軽々と片手で振り回し、どこか全てを達観したかのような笑みで新九郎に語りかける凪。新九郎はその凪の姿と言葉に、凪の強さを見た気がしていた。
「それにの――――そんな何もかもが消えてしまうような危険がこの地に迫っておるというのなら、もっと自分のやりたいことを色々としておくべきかもしれんぞ? ――――私らはここで、今を懸命に生きておるのじゃからなっ!」
それは――――果たして誰に向かって放たれた言葉だったのか。
凪の言葉を聞いた新九郎は、その凪の言葉が新九郎に対しての言葉であると同時に、まるで凪自身を奮い立たせるような色を帯びていることに気付いた。
普段は凪に比べてそのような心の機微に気付くことの少ない新九郎だったが、なぜかこの時だけはそうではなかった。
凪の言葉の中に、今こうして目の前で話している新九郎以外の人物の姿が描かれていることを、彼女は無意識に感じていた。
「私も、今のうちにやるべきことは全てやっておくつもりじゃ。死んでから後悔したくないのでの――――」
借り受けていた木刀を元の場所に戻し、新九郎に背を向けて呟いた凪のその言葉に、どういうわけか新九郎はその胸の奥に抑え切れぬざわめきを感じていた――――。
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