「いたいた! こんなところでどうしたんだ?」
「あ……奏汰さん」
エッジハルトによる神代神社襲撃から半日以上が過ぎた。
すでにとっぷりと日も暮れた夕食後。夜空に寝待月が煌々と輝く下。
吹き飛ばされた屋根の修理のために作られた梯子を登った奏汰は、拝殿の屋根の上で一人物思いに耽る新九郎を発見していた。
蒼い月の光に照らされ、傾斜の付いた屋根の上で自身の両膝を抱えて空を見上げる新九郎。淡い藍色の浴衣に身を包み、まっすぐに夜空を見上げる彼女の横顔はあまりにも美しく、儚かった――――。
「いえ……その、なんか色々と思い出しちゃって……。あ、良かったら奏汰さんも一緒にお月様見ませんか? とっても綺麗なんですっ」
「ん? あ……う、うん……?」
不意に自分へと向けられた少女の瞳に、奏汰は普段の新九郎とは違うものを感じた。違和感とも呼べるそれに若干の戸惑いを見せつつも、奏汰は差し伸べられた新九郎の白い手を取り、その身を屋根の上に乗せた。
この時代、江戸の町に高層建築と呼ばれるような物は殆ど存在していない。
江戸の中心たる江戸城ですら、見栄えよりも幕府の財政と政務上の実益を優先し、壮麗な天守閣や高層櫓を建築していなかったのだ。
一般的な平屋よりも相当に高く、さらには神田上水沿いのせり上がった丘の部分に立つ神代神社拝殿の屋根の上からは、ただ目を向けるだけで生い茂る木々の先にどこまでも続く江戸の町明かりを見ることが出来た。
「大丈夫か……? さっき思い出したって言ってたけど……あんまり良くないことだったのか?」
小さくその身を屈める新九郎の隣。寄り添うようにして座った奏汰の手を、彼女は握ったままだった。
奏汰はそんな新九郎の様子に、気遣うようにして彼女に目を向けた。
「――――母のことを、思い出していました。知らなかったんです――――凪さんのご家族が鬼に襲われた日と、僕の母が鬼に襲われて亡くなった日が同じだったってこと――――」
「新九郎のお母さんも、鬼に……?」
新九郎がぽつりと呟いたその言葉に、奏汰は驚き、言葉を失った。
新九郎の母が鬼によって殺されていると聞いたのは、この時が初めてだった。
奏汰が新九郎と寝食を共にするようになって一ヶ月以上が過ぎた。出会ってからならば三ヶ月も経とうとしている。
しかしその間、奏汰は一度たりとも新九郎の口から彼女の母について聞いたことがなかった。奏汰自身も新九郎の複雑な出生からの背景のみは察していたので、そこについて深く尋ねることもなかったのだ。
「そうだったのか……じゃあ、辛かったな……」
「いえ……実は僕、母については……あまり覚えていないんです。母が亡くなったのは、僕がまだ四歳くらいの頃で――――……だから……っ。もう悲しいとか、そういうのもなくて……っ。ぜんぜん、平気で――――」
抱えた自身の膝に半ばその顔を埋め、新九郎は深い緑色の髪をその横顔になびかせて言葉を続けた。
あまり覚えていない。だからそれほど悲しいとは思わない。新九郎自身が発したその言葉はしかし、すぐにそうではないと否定される。
「最後――――母が亡くなったあの日の夜、僕は母と確かにお話しして――――こっちに来ちゃ駄目だって言われて……っ! 僕……僕は……おばけが怖くて……っ。母の所にいけなくて……それで……っ! 起きたら、母はもうどこにも――――っ!」
「新九郎……」
いつしか、奏汰の手を握る新九郎の手は震えていた。
新九郎は母のことを忘れたわけではなかった。ただ、あまりにも辛い事実ゆえに、新九郎の心がその記憶に焦点を当てることを避けていただけだ。
「うぅ……っ! 母様あぁぁぁぁ――――……っ」
何もかもを押し出すように、止めどなく流れる涙を抑えもせず、その整った美貌を情けなく歪めて奏汰に縋り泣く新九郎。
感情の溢れるままに語られた新九郎の話は断片的に過ぎ、話を聞いただけの奏汰には正確にその時の様子を描くことが難しかった。
だが嗚咽混じりに悲しみを吐露し、やり場のない後悔を必死に伝えようとする新九郎の震える背に、奏汰は手を添えて自身の腕の中に引き寄せた。
「どうして……っ。どうしてなんですか奏汰さん……っ? さっきここに来たあの人は……凄く怖くて、強かったけど……っ! でも奏汰さんと同じ目をしてました……っ! 奏汰さんと同じ、優しい目です……っ!」
奏汰の腕の中で声を震わせ、少しでもそのぬくもりを感じようと身をすり寄せる新九郎は、半ば叫ぶようにして奏汰へと尋ねた。
その答えを奏汰が持ち合わせているわけがないと知りつつも、問わずにはいられなかったのだ。
「でも……でも僕の母を殺したのはあの人たちなんですよね……っ!? 理那さんは言ってました……! あの人は真皇に操られていないって……っ! 鬼を束ねている黒曜の四位冠は、自分の意志で真皇に従ってるんだって……っ!」
「……っ」
新九郎のその言葉に、奏汰もまたその表情を歪める。
すでに記憶を取り戻した理那の話から、彼ら黒曜の四位冠と呼ばれる者たちが六郎や理那とは違い、自らの自由意志で真皇に従っているという事実が明らかになっていたからだ。
つまり、六郎や理那の世界に住んでいた人々を鬼と化し、さらにその鬼に命じてこの世界に災厄を巻き起こし続けていたのも、真の勇者と名乗ったあの男の意志だったということだ。
そして新九郎は、その事実にこそ憤りと悲しみを深めていた。
「あの人たちは凪さんのご家族も殺して、城下の皆も、討鬼衆のみんなも殺してるんです……っ! 六郎さんや理那さんも鬼にして……っ! 大勢の人を傷つけて、不幸にして――――っ! それでもあんな風に堂々としてる……っ。どうしてそんな酷いことが出来るんですか……っ? 僕たちだって生きてるのに……っ! みんな同じように神様のせいで酷い目に遇ってる仲間じゃ駄目なんですか……!? みんなで仲良く、力を合わせてなんとかするんじゃ……っ。駄目……なんですかぁ――――……っ」
それは新九郎の心からの叫びだった。
かつて、鬼が人だと知った際にもその剣を振るえなくなった新九郎。彼女の優しさは凪や奏汰とは違う。より甘く、周囲の人々から愛されて育った故の優しさだった。
新九郎の父である家晴が危惧している通り、彼女のその優しさは余りにも剣を握る者として割り切れていない。あまりにも心が戦いに向いていない。
元より、新九郎は闘争から最もかけ離れた場所にいてこそ輝く心根を持っているのだ。こうして想いを通じ合った今、奏汰にもそれは痛いほどよくわかっていた。故に――――。
「新九郎……やっぱり新九郎は凄いよ。将軍様や四十万さんや、他の皆がなんで新九郎のことが心配で大好きなのか、凄くよくわかった……」
「え……?」
そして奏汰は新九郎の持つその優しさが、例え自らの母を殺し、悪逆非道の限りを尽くしてきた相手にすら向けられ続けていることに驚愕していた。自らの何を持ってしても、この目の前の少女の優しさを守らねばと感じていた。
「今はみんな大変で……あの人たちが酷いことをするって言うなら俺たちもただやられてるなんてことは出来ないし、戦うしかない。けど――――そういうのが全部片付いて、もう戦わなくてよくなったらさ――――」
奏汰は自身の着ていた甚兵衛までぐしゃぐしゃに濡らして泣きはらした新九郎を見つめ、支えるようにしてその肩に手を当てた。
「――――その時にはきっと、新九郎の優しさが皆のためになる。俺にはあの人たちがどうしてあんな酷いことをするのかとか、そういうのはまだわからないし、今はまだ戦うことしか出来ないかもしれないけど――――とにかく新九郎のことは俺が絶対に守る! なにがなんでもだっ!」
「かなた、さん……っ」
一度は泣き止んだ新九郎は再びその双眸に涙を浮かべると、再び奏汰の胸に顔を埋めた。
『どうして』
新九郎の背に手を添え、その小さな体を支える奏汰。奏汰はたった今新九郎が発したその問いをもう一度噛みしめるようにして自身の心に留め置いた。
彼女の優しさから出たその問いを、自分も決して忘れてはいけないのだと定めながら――――。
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