横山の個人レッスンは三時間にも及んだ。序盤のオルタナティブピッキングから始まり、理論についての確認、実践的なテクニックまで。すっかり疲れたみなこの元へ、「セッションが始まるよー」とみちるが声をかけに来てくれて、ようやく開放された。
ステージの方へ戻ると、大樹に「お疲れ様」と声を掛けられた。みなこの疲れた顔に彼は苦笑いを浮かべる。
「去年もこんな感じだったんですね?」とみなこが訊ねると、「今年は清瀬のおかげで免れたけど」と彼ははにかんだ。
午後の練習は、バーベキューをするということで五時半ごろに切り上げられた。スーパーに買い出しに行く係と機材の準備をする係に別れる。
バーベキューの準備を任されたみなこは、買い出し組より一足早く琵琶湖近くの公園へと移動した。
準備を手際よく終え、買い出しに向かったチームの到着まで時間が出来てしまった。七海も奏も佳奈も買い出し組だ。めぐは知子に着いて、花火を買いに行っている。上級生たちがグループになって話し込んでしまったため、話に入っていく勇気もなく、みなこは一人琵琶湖の浜辺に散歩に出かけることにした。個人レッスンの時に、「夕焼けが綺麗だよ」と横山に教えて貰っていたのだ。
時刻は七時前、トボトボと歩きながら浜辺へと向かう。防風林の向こうから、波のざわめきが聞こえてきた。ジトッとした空気が、少しだけ涼しげなものに変わり、薄手のパーカーの袖口をそっと撫で上げる。
そのざわめきに力強いトランペットの音色が混ざった。伸びやかで優しいメロディと切なげでムーディーなサウンドが、オレンジに染まった空に溶けていく。聴こえてきた演奏はホーギー・カーマイケルの『Stardust』だ。のちに付けられた歌詞は切ないラブソングだったはず。クオリティ的に「美帆先輩かな?」とみなこは浜辺へと続くコンクリートの階段を降りていく。
打ち寄せる波のぎりぎりに立ち、遠い湖の向こう岸に向けて、息を吹き込んでいたのは航平だった。水面に反射した夕日の煌めきが、トランペットの金色のボディに反射して宝石のように輝く。半袖から見える腕はとても逞しく、指がピストンを押し込むたび、その腕に筋が浮かび上がっていた。
みなこは邪魔をしないようにゆっくりと近づき、少し離れた砂の上に座ってそっとその演奏に耳を傾けた。
いつの間にこんなに上手くなったんだろう。穏やかで優しい音色、目を瞑っても浮かび上がる夕焼けから星空へ変わっていく湖畔の景色。心の底にある柔らかい場所が、くすぐられるような気持ちになる。温もりと切なさが混じり合った不思議な感覚。この音が好きだ、みなこは不意にそう思う。
「上手くなったやん」
演奏が終わると同時にみなこは航平にそう声を掛けた。まさか、後ろに人がいると思わなかったのか、「びっくりした」と彼は肩を竦ませた。
「人をおばけみたいに言わんといてよ」
「急に話しかけられたら誰でもこうなるわ」
溜息を吐き、彼は額についた汗を拭った。その手に握られたトランペットはやけに真新しい。
「あれ? それって学校のやつ?」
「いや、違うで。合宿前に買ってもらってん」
「えっ、わざわざ」
「いうてもそんな高いやつちゃうで?」
「それでもそれなりにするやろ?」
「まぁそれなりやろなぁ」
マイ楽器が嬉しいのか、航平は金色のボディを優しく撫でた。その背中の向こうには、夕陽のオレンジと雲の灰色が空に美しいコントラストを描いていた。波音に包まれながら世界はじわじわと夜へと染まっていく。東の空はすっかり暗くなっていた。星たちは顔を出すタイミングをうかがっているに違いない。
「静かやな」
「そうやな」
みなこは自分の膝を抱き寄せた。組んだ腕に顔を半分埋める。穏やかに流れるこの瞬間が、不思議と愛おしいく、吸い込んだ夏の空気を肺に溜めて時間を止めてしまいたい。そう思うのは、意外と上手い彼の演奏を聴いたせいだろうか。
大人っぽくなった航平の顔をみなこはじっと見つめる。西日に照らされて影の落ちた顔が恥ずかしそうに赤らんだ。視線をそらし、頬を搔きながら航平がぼそっと呟く。
「そろそろ、戻るか」
「うん」
航平が差し出してきた手をみなこは掴む。力強く引っ張られ立ち上がった。お尻についた砂を払い、航平の後に着いていく。なんだか名残惜しい。それは、この静かなひと時を惜しんでいるのだろうか。それとも。少しだけ弾んだ鼓動の正体。それを自分の心に問いかけてみたけど、やけに穏やか気持ちに飲み込まれてしまった。
うっかり落としてしまったのだろうか。そう思いさっきまでいた浜辺を振り返れば、夜闇色に染まった空に一番星がキラリと顔を出していた。
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