胸くらいの高さの棚に、桃菜は腕を伸ばしていた。華奢な身体がトロンボーンのケースを支え、空いているスペースへと押し込んでいる。夕焼けに伸びたみなこの影が、その足元に落ちた。影に気づいた桃菜がこちらを見遣る。
「お疲れ様です」
「おつかれ」
視線が合い声をかけると、桃菜は吐き捨てるように答えた。真っ白な腕が夕焼けのオレンジにほんのりと染まっている。
床に置かれた美帆のトランペットケースを抱えると、桃菜が反対側の棚に向きを変えた。
「何?」
二つ結びにした髪を揺らしながら、コクリと首を傾ける。可愛らしい仕草とは裏腹に、視線は冷たく、「あなたは準備室に用はないでしょ?」と言われている気がした。
「……いえ」
やっぱり桃菜とは喋りづらい。それは向こうがこちらと親しくしようという気が全くないからだろう。ハッキリと引かれた境界線は随分こちら側。入ってこないでと明確に書かれている。曖昧だった杏奈とは真逆だ。
「笠原先輩って美帆先輩と仲良いんですね」
「一年生の時からクラス一緒やから」
「そうなんですねー」
訊ねたいことは決まっている。杏奈との関係。もう少しだけ杏奈と桃菜の関係が良好になれば、杏奈が部活を辞める必要はなくなるかもしれない。だけど、それを聞くまでの組み立てがうまくいかない。想定もシミュレーションもしていないせいだ。
「笠原先輩って、高校からなんですよねー? トロンボーンはじめたの」
「うん」
なんでそんな質問するの? と言いたげに桃菜の眦が下がる。少しだけ面倒くさそうに、一つため息をこぼして桃菜は続けた。
「トロンボーンだけじゃなくて、音楽自体もはじめてやった」
「そうなんですか。それやのにあんなに上手なんですね」
知らないフリは、やけに嘘っぽいイントネーションで口から飛び出した。だけど、特に桃菜に反応はない。みなこの嘘は桃菜にバレなかったようだ。棚にトランペットケースを仕舞った桃菜がこちらを向く。
「頑張って練習したから」
真っ直ぐにこちらを見つめた双眸が細くなっていたのは、夕陽の眩しさのせいだろうか。みなこの背中をじわじわとやけ焦がすような強い陽射しが、準備室を明るく染める。背中はじんわりと汗ばみはじめていた。桃菜が立ち去らないように質問を続けるしかない。
「でも、どうしてジャズ研に入られたんですか?」
「美帆に誘われてん」
「美帆先輩は、昔からジャズが好きやったらしいですもんね」
「里帆と美帆の二人はジャズに詳しい。はじめの頃はよく教わってた」
二つ結びにした髪を撫でながら、桃菜は諦めたように淡々と答えた。暗く人見知りのイメージな彼女だが、質問攻めをしてくる後輩を無視するほどの冷たさは持ち合わせていないらしい。
「お二人は、よく一年生にも教えてくれます」
「お節介やからな」
棘の生えた言い回しだったが、桃菜の表情は穏やかだった。意外とコミュニケーションが取れている。無視されるかも、なんて覚悟していたみなこは少しだけホッとした。
「トロンボーンを選んだのはどうしてなんですか?」
純粋な興味から出た質問だった。トロンボーンは入部当初から杏奈が希望していたはずだ。欠員だったベースをはじめ、二年に担当がいない楽器は他にもある。楽器初心者だった桃菜なら、その楽器を嫌う理由がない限り、空いているセクションを希望する方が賢明に思えた。
「それは……」
桃菜の視線は窓の方へそれた。弱々しい声が、夕陽に跳ね返されてオレンジ色に染まったフローリングに落ちていく。みなこは直感的に何かある。そう思った。
「トロンボーンが好きだったんですか?」
「ううん。そういうわけじゃない」
「だったら、どうしてですか?」
あなたには関係ないでしょ? ぞんざいな返しをするのは容易だったはずだ。だけど、桃菜はそうしなかった。細い腕がじんわりと汗ばんだ首筋を撫でる。一瞬、視線を外して、それから真っ黒な双眸がみなこを見つめた。
「入部する前、鈴木さんが教室でとても楽しそうにトロンボーンの良さを話しているのを聞いてん」
「杏奈先輩がですか?」
「うん。とっても楽しそうに話してた。だから、きっと素敵な楽器なんだろうなって」
「それでトロンボーンを希望したんですか?」
「そう」
意識の外側にあった蝉の鳴き声が、急にみなこの鼓膜を激しく揺すった。同時に遠ざかっていく桃菜の声。それを逃さないようにみなこはぐっと唇を噛み締めた。
「あの子が話していた通り、素敵な楽器やった」
胸を撫でてくるのはなんという感情だろうか。やるせなさに似た歯がゆいもの。自分は一体、何を期待していたんだろうか。杏奈からポジションを奪ってやろう。桃菜にそんな悪意があればいいとでも思っていたのか。悪意があるなら、その態度を改めさせればわだかまりはなくなると、それが杏奈の退部の要因だと、心のどこかで願っていたのかもしれない。
桃菜の眉根が僅かにあがる。こちらを見つめる双眸が、キラリと夕焼けに輝いた。下がった瞼の縁に生えたまつげがその輝きをかすめさせる。
「なんで、こんなこと聞くん?」
「それは……」
「もしかして、里帆?」
「いや……。はい」
「そっか。別にええねんけどさ。里帆がしそうなことや。……言いたいことがあるなら、自分で言いに来ればええのに。傷つきたくないんかな」
「そういうわけじゃないと思います。……だって里帆先輩は」
桃菜の言いたいことは分かる。他人を使うことで自分の手は染めないタイプの人間、そういう人はいる。だけど、里帆はそうじゃないと思った。上手くは言えないけど。彼女にこの役回りを言い渡された時、そこに保身があるようには感じられなかったから。きっと、何か考えていることがある。みなこはそう感じていた。
みなこが言葉を詰まらせたのを見て、桃菜の眉間に寄っていたシワが少しだけ緩んだ。
「……そっか。そうかもな。ちょっと、うがった考えしてたかも。あの子はそういうタイプじゃない。でも、なら、なんであなたを使ったん?」
「私が話を聞いてしまったんです」
「話を?」
桃菜の頬の筋肉が僅かに下る。無表情な人だと思っていたが、ちょっとした表情の変化に気づくようになってきた。今のはきっと不思議そうな顔だ。
「はい。合宿の夜です。杏奈先輩と里帆先輩が話しているのを聞いて」
「二人がなんで私の話を?」
そこでみなこは桃菜が杏奈の件を知らないんだと気がついた。杏奈が退部することを知っているなら察するはずだ。もしかすると、自分のせいで杏奈が苦しんでいることすら彼女は気づいていないのかもしれない。
「笠原先輩は何も知らないんですか……」
弱々しくなった言葉は、ほんの少しだけ嫌味を含んでいた。杏奈の苦しみを理解している分、それが如実に感情となって表に出てしまったらしい。言葉の鋭さが口の中を傷つけたのか、血の味が上がってきた。
「何のこと?」
重たく生ぬるい風が、みなこの髪を揺らす。くどいくらいに夏らしい音が耳元で鳴り響く。じんわりと掻いた汗が耳の裏から項を通って制服の中へと流れていった。
「杏奈先輩が部活を辞める話です」
「鈴木さんが?」
「そうです」
「どうして?」
それは、「どうして杏奈が辞めるのか?」ではなく「どうしてその話を私に?」なんだろうと思った。やっぱり桃菜は、杏奈が辞める理由を知らないのだ。ただ、たとえどちらの意味だったとしてもみなこの回答は変わらない。
「杏奈先輩が部活を辞める原因は笠原先輩だからです。笠原先輩にトロンボーンを負けたことが悔しくて、杏奈先輩は退部を考えていて……」
「私が彼女のトロンボーンを奪ったって言いたいん?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
ここで初めて、桃菜の足先がこちらを向いた。一歩分だけ出されたそのつま先の上に、オレンジ色が落ちる。彼女にその意図があろうとなかろうと、みなこは目の前の先輩に少しだけ気圧されてしまった。
「里帆やあなたが言いたいことはなんとなく分かった。鈴木さんに辞めて欲しくないんやな」
「……はい」
「けど、やっぱりそれは私には関係のない話やんな?」
腕を組み、桃菜はため息をこぼした。まるで自分の感情を必死に抑え込んでいるようだったが、その唇は激しさを持って動き出す。
「トロンボーンで負けてプライドが傷ついたのは理解出来る。彼女は、入部した時から上手やったし。けど、私はそれよりも上手くなった。ただ、それだけのこと。コンボを出来るのは一人だけ、そのためにはうまくなるしかない。鈴木さんはそれを諦めてベースに移った。結果として、ベースでコンボを取れている。何が不服なん?」
まくしたてるように、桃菜はそれらを言い切った。だが、彼女の言う通りだ。実力主義はこの部活のルールなのだ。杏奈はその戦いから逃げ出した。それは本人も自覚している。そして、奏との勝負からも逃げだそうとしているのだ。
「杏奈先輩は、笠原先輩は天才だって。だから自分が戦っても勝てないから……」
「それが努力をしない言い訳ってこと?」
杏奈の言葉を代弁しているだけのみなこは反論出来ない。言葉はきついけれど、桃菜に非はないし間違ってもいないから。
「……もし、そうなら、私はそういう人嫌い」
吐き捨てられたあまりにも単純な言葉が、杏奈の人間性を強く否定する。
「美帆に誘われてはじめた音楽。自分の中にあるモヤモヤとしたものを音で表現できた。それが気持ちよくて、うまくなりたい、そう思って私は毎日練習をしてきた。その努力を天才っていう言葉で片付けるなら結構。私は私が天才かどうかなんて知らない。でも、それを自分が逃げ出す言い訳にされるのは迷惑」
今更になってこの問題が単純なものだと気がついた。桃菜や奏が絡んでいることで複雑になって見えるだけで、解決できる方法は一つしかなかったのだ。諦めた杏奈の気持ちを再熱させる。桃菜がどう思っているかなんて関係ない。
「里帆もあなたも一体、私に何を望んでるん? 私にどうして欲しん?」
「すみません」
「謝られても困る」
桃菜に悪意がなく、この件の根源でもない以上、桃菜に何かを望むことは出来ない。
「笠原先輩と杏奈先輩、お二人の問題だと思ってたんです」
「そう思ってしまうのは分かった。でも、どうして、あなたがそのことで口を出すん?」
「そのせいで一年生の一人が悩んでて……」
「それで私を説得すれば解決すると」
「はい」
「でも、私にはどうしようもないやろ。トロンボーンを譲るわけにもいかない。鈴木さんに謝ることが解決になるとも思えない」
「私もそう思います」
無駄足だったかもしれない。振り絞った勇気は空振りに終わった。けど、せっかくなら確認しておきたいことがあった。杏奈は自分が嫌われていると思っているけど、本当のところはどうなのか。「そういう人嫌い」と桃菜は言ったけど、あれは具体的に杏奈のことを指したわけじゃない。
「笠原先輩は、杏奈先輩のことどう思ってるんですか?」
「……別になんとも思ってない」
その言葉が彼女から出てくるのは当たり前だろう。特別だからと抱いていた嫌悪感は、杏奈の一方的なものだった。好きでもなければ嫌いでもない。桃菜にとって杏奈は距離感のある部員の一人に過ぎない。
「もういい? 私は帰るから。おつかれ」
「……お疲れ様です」
桃菜が去った準備室には蝉の鳴き声だけが響いていた。
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