合宿当日の朝はとても早い。スマートフォンのアラームに起こされ、みなこは無理やり身体をベッドから起こす。窓の外はまだ少しだけ薄暗い。
寝ぼけた自分の顔とにらめっこをして、無理やり自分を目覚めさせる。顔を洗っていると母が起きてきた。起こしてしまったものだと思い、みなこはとっさに「ごめん」と謝る。
「何言ってるの。私は毎朝この時間に起きてるの。あんたとお父さんのお弁当作らなくちゃいけないんだから」
みなこが部活を始めたせいで、母には夏休みもお弁当を作らせてしまっている。父の分を作るから手間は一緒だと母は言うけれど。それでも毎朝、五時頃から起きてお弁当を作るというのは自分には到底真似できない。
「今日から滋賀の方に行くんでしょ? 忘れ物はない?」
「昨日のうちにまとめてあるから大丈夫」
玄関には、三日分の着替えが詰まったバッグとギターケースが昨晩から置かれていた。赤いスポーツバッグは、中学の時に修学旅行で使ったものだ。
「でも、あんたがギターにこれだけ熱心になるなんてね。お父さんに似たのかしら」
母は不思議そうに頬に手を当てて首を傾けた。飽きっぽい性格というわけではないけど、これほど熱中したものは他に思いつかない。小さい頃からあまり関心が多い子どもではなかったのだ。与えられたもので適度に満足するタイプ。勉強も遊びもほどほど。それがみなこだった。
そんなみなこを心配していたのか、父には「好きなものを見つけなさい」とよく言われていた。どうして「勉強をしろ」ではなく「遊びなさい」と言われているのか、あの頃のみなこは分からなかったが、こうして熱中するものを見つけた今なら父の言いたかったことはなんとなく分かる。
「どうなんだろう」
父の趣味もギターだった。週末になると家の中にギターの音色が流れるのは当たり前の光景だった。だから、みなこがギターを好きになるのは必然だと母は言いたいらしい。
確かに、父の影響が全くなかったわけじゃない。七海にバンドをやろうと言われて、真っ先に思いついたのがギターだった。だけど、本当にそれだけだろうか。
家にはそれなりに値段のするギターが何本かある。以前はその価値なんて分からなかったが、今となってはむしろ触るのが怖いくらいだ。ギブソンのハミングバード。小さい頃に遊んでいて、倒してしまった記憶が今になって蘇り、冷や汗が流れてくる。
それなりの値段をするギターを買ってもらえたのだって、父がギターをしていたおかげだろう。いきなり娘がギターを始めたいからといって、十万円以上するギターなんて早々買ってはくれないはずだ。
娘が飽きてしまえば自分のものにしよう、などとは考えていなかったと信じよう。
「朝ごはんは食べる?」
「食べるぅー」
母の問いかけに、みなこは大きな欠伸混じりで答えた。まだ寝足りない。ワクワクして眠られないのは昔からの悪いくせだ。
*
合宿の集合場所はJR大阪駅だった。鶯の森駅で七海と。川西能勢口駅で佳奈、奏、めぐと合流して梅田へと向かう。「みなこはまだ寝足りんのちゃう?」と悪戯な口調で言う七海に、みなこは一瞬ムッとしたが事実なので反論できない。
「寝ても起こしてあげるよ」という奏の優しい言葉に、どうしようかと悩んでいるうちに、電車は梅田に着いた。
阪急梅田駅からJR大阪駅へ向かう鉄橋は、朝早いせいかお盆休み直前のためか、それほど混んでなかった。ここから目的地の彦根までは、さらに快速電車に乗って一時間半ほどかかる。席が空いているなら、やはり眠らせてもらおう。大きな欠伸をした顔を佳奈にじっと見つめられ、みなこは慌てて口元を手で隠した。
「みなこー」
七海に肩を揺すられて、みなこは目を覚ました。眩しい日差しがみなこの顔を照らす。しゃばしゃば、とする目を懸命に細めながら瞼を開けば、電車はすでにスピードを落としはじめていた。
「もうすぐ着くよ」
みなこが眠い目をこすっていると、奏がそう呟いた。彼女が着ているグリーンのワンピースの胸元には、可愛らしい白色のリボンがあしらわれている。
「そんなに寝られんかったん?」
「ちょっとは寝たよ」
「ちょっとはって、何時に寝たん?」
「記憶にあるのは二時が最後かな……」
はぁー、とめぐが呆れた声を出す。肘掛けに腕を掛けて、頬杖を突いている。ピンク色のパーカーの袖が、彼女のほんのりと赤い頬を侵していた。
「そりゃ、眠なるわな」
「でも、今眠れたからもう大丈夫」
そう言って、みなこは両手を握り込み気合が入っているフリをした。こうでもしないと出そうになった欠伸を飲み込めそうになかったのだ。
「そろそろ降りる準備しいや」
川上がそう告げたのと同時、車内に彦根駅に到着するという旨のアナウンスが流れた。
*
滋賀県彦根市は、琵琶湖の北東部に位置する市だ。駅の周辺は賑わっているが、少し外れれば長閑な自然が広がっている。田舎過ぎず都会過ぎず、みなこの暮らしている川西市とどこか似た空気感がある気がした。
駅からしばらく歩いたところには、ゆるキャラでも有名になった彦根城がある。この彦根城は江戸時代の初期に築城され、天守は国宝に指定されているらしい。そもそも城の天守が残っていること自体が珍しく、彦根城の物は特に貴重なんだとか。かの大老井伊直弼もこの城下町で暮らしていたんだ、云々。
改札を抜けるなり、航平にそんなことを説明された。彼は意外と日本史が好きらしい。特に興味なかったみなこは、ふーんと気のない返事をした。
「はい、広がらないように集まってください」
知子が手を鳴らすと、駅のロータリーに部員たちが集まった。迷惑にならないようになるだけ固まる。知子の隣では、つま先立ちをしたみちるが人数を数えていた。
「結構、遠いんかな?」
「十分くらいって言ってなかった?」
「そうやっけ?」
七海とめぐがそんな話をしている。近いならそれに越したことはない。三日分の着替えやらが詰まったバッグは意外と重たいのだ。みなこは、ギターも抱えているから尚更。楽器を運ばなくてもいいめぐと七海が羨ましい。「少しは持ってくれたっていいじゃないか」という視線を七海に送れば、コクリと不思議そうに首が傾いた。
「それではライブハウスに向かいます」
部員たちは知子の後に、二列になって着いていく。
江戸時代の風情ある町並みを再現した「夢京橋キャッスルロード」は、彦根城の城下町らしい観光スポットらしい。外堀の辺りから真っ直ぐ南西に続く通りに、和菓子屋や土産物屋などが軒を連ねている。
目的のライブハウスは、その通りを抜けてさらに進んだ先にあった。「四番街スクエア」と呼ばれるそのエリアは、大正ロマンをコンセプトにしているらしく、新しくも古めかしい洋風なデザインの家々が数多く並んでいる。先程の江戸の町並みとは、また一風変わったおしゃれな町並みに、まるでタイムマシンに乗っている感覚になった。
「着きました」
そのエリアの一角で知子が立ち止まった。大正の町並みの中にポツリと佇むお洒落なカフェの店先。珈琲の仄かな香りが鼻孔をかすめる。オープンテラスの入り口に置かれたブラックボードには、「CLOVER」という店名と湯気だった珈琲カップの絵が添えられていた。
知子の宣言に、一年部員は「どの辺りにライブハウスがあるのだろうか」と思わず周りを見渡した。近くにあるのは目の前の小洒落たカフェに、ケーキ屋とレストラン、それにお花屋さん。ライブハウスらしい建物はまったく見当たらない。
一番キョロキョロしていたらしいみなこに、「みなこちゃん、探さんでもライブハウスはここやよ」とみちるがニコッと笑みを浮かべた。
妙なことに、彼女が指差したのは紛れもなくカフェだった。
「ここってカフェじゃないんですか?」
「カフェもやってるけど、中はしっかりとライブハウスになってるんよ」
そう言って、みちるは店先のブラックボードをひっくり返した。「CLOVER HIKONE」少し派手なデザインで書かれた店名とクローバーの可愛らしい絵。それと共に書かれていた宣言は、先日、行われていたらしい対バンのライブイベントの告知だった。
「ほんまや! 配られたプリントに書かれてた店名と同じや!」
七海が驚いた声を出す。「迷惑やから大きい声出さない」とめぐがその頬を軽く引っ張った。
「カフェをやってるのはオーナーの趣味や。もちろん、経営的にもライブハウスだけじゃ辛いって大人な事情もあるやろうけど、」
川上はそう言いながら、みちるがひっくり返したブラックボードを元に戻した。ライブハウスは貸し切りと聞いていたが、カフェの方は通常通り営業しているらしい。店内には何人かお客さんがいた。
「カフェもライブハウスも、こっちはお客さん用。関係者の私らは裏口からや」
関係者という響きをみなこは舌の上で転がしてみる。心地の良い舌触りは、なんとなく甘いものに思えた。喫茶店から香ってくるケーキの匂いのせいかもしれないが。川上に手招きされ、みなこたちは裏口に向かった。
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