秋の装いを纏った澄んだ空気に、遠い祭り囃子が混じり合う。この間までは暑かったくせに、とみなこは唇を尖らせて、襟元の隙間から入ってくる冷たい風に身体を震えさせた。沈んでいく夕陽の色も空に浮かぶうろこ雲も街の色合いも、世界は何もかもがすっかり秋めいている。それは、大会まであと一ヶ月、そしてそれに伴うオーディションが迫っていることをみなこに知らしめていた。
「あー、何食べようかなー」
「あんたホンマに食うことばっかやな」
「お祭りの楽しみってそれ以外にあんの?」
「あるやろ! 今日はないけど花火とかお神輿とか?」
「んー、でも花火はともかくお神輿は食べれんからな」
前を行くめぐと七海がそんな会話を繰り広げている。花火だって食べられないだろうに。そんなツッコミを胸の中に仕舞い、みなこはオレンジ色に染まった空を見上げた。鼓膜を揺する夏みたいな太鼓や鈴の音とうろこ雲が染まっている秋めいた空は、まるで履き違えた靴下みたいだ。カーブミラーには、子どもたちが運ぶお神輿が映り込んでいた。
「佳奈ちゃんは何食べるの?」
「私は焼きそばが食べたい」
ご機嫌に揺れるポニーテールのそばで奏が微笑みを浮かべている。奏の手には、巾着の形をしたバッグが握られていた。二人の視線がこちらを向く。
「みなこは?」
佳奈の言葉はきっと同意を求めている。本能的にそうだと分かり、「私も焼きそばが食べたいなー」とみなこはわざと平たい声を出した。焼きそばが食べたいのは、別に嘘じゃない。だけど、ちょっとだけ意地悪したくなった。
「本当は、たこ焼きって顔」
「そんなことないよ?」
「ホンマに?」
佳奈が眉根に作った皺を、奏は少しだけ心配そうに見つめている。それに気づいたのか、佳奈はクスクスと笑みをこぼした。どうして笑われたのだ、と奏は不思議そうに眉根を下げる。
「冗談やから」
「奏ちゃん、本当に心配そうにしてた」
他人の顔色を伺いすぎるのは、奏のいいところでもあるし悪いところでもある。きっと、奏じゃないと文化祭の杏奈との一件は問題にならなかったはずだ。だけど、同時に奏じゃなければ、杏奈と桃菜の問題も解決も出来なかったはずなのだ。
もー、と語気を強めた奏の肩を掴み、「うちはかき氷が食べたい!」と七海が顔を覗かせた。真っ白な氷の山を想像して、みなこは思わず両手で肘を抱える。
「流石に寒くない?」
「そうかな? めぐとはんぶんこしたらイケるやろ」
「なんで私も食べることになってんの?」
ケラケラ、と七海の楽しそうな声が、逆瀬川駅から伊和志津神社まで続く住宅街に響いた。人並みはまばらだが、みんなお祭りの会場へと向かっている。人の流れについていけば、神社への道に迷うことはなさそうだ。この辺りは五月にあった「花と音楽のフェスティバル」で訪れた末広公園に近い。つまりは、みなこの地元ではないのだ。じゃあ、どうしてわざわざこっち側のお祭りに来たかと言うと――
「あ、おった」
「こっちこっちー」
おそろいのタートルネックのセーターを来た沖田姉妹がこちらに手を振っていた。里帆の隣には杏奈も一緒だ。今日の双子の見分けポイントは、セーターの色らしい。赤が里帆で、緑が美帆。「お疲れさまでーす」と七海がはしゃいだ声を飛ばす。
「誘って頂いてありがとうございます」
「清瀬ちゃんは相変わらずかたいなー。谷川ちゃんですら、すっかりフレンドリーになってんのに」
「私は初めからフレンドリーでしたよ!」
頬を赤らめながら、奏が語気を強めた。その双眸は、憧れの色に彩られて杏奈を真っ直ぐに見つめている。確かに、奏は初めから杏奈と仲良くなろうとしていた。それは奏にとって杏奈が特別な存在だったからだ。
去年の文化祭で杏奈のベースを聴き、奏は宝塚南のジャズ研に入ることを決めた。理由は、杏奈のベースの音が奏の姉の音に似ていたからだ。ベースを初めたきっかけである姉の面影を杏奈に感じて奏はこの部活を選んだ。
そして、杏奈は奏のその思いに答える形で勝負から逃げないことを決めたらしい。どれだけ敗れ続けて惨めな思いをしても、たとえ特別になれなくても、挑戦を続ける覚悟を、だ。
「先輩たちからこうして遊びに誘って貰えるのは初めてなので嬉しいです」
「あー確かに初めてかぁ。うちらってわりと部活以外ではまとまりないもんなー」
「うーん、去年も先輩たちに誘われた記憶ないから、伝統的にこういう空気感なんかな? 活動以外はあまり顔を合わさないって、なんかプロっぽい?」
くるっと神社の方へと踵を返した里帆に、その場で指先を宙でくるくると回しながら美帆が明るく言葉を返す。二人は似ているが、ちょっとだけ里帆の方がせっかちだ。半年も見ているとセーターなんかなくても些細な違いに気づける。「おぉ、確かになんかプロっぽいですね!」と七海がはしゃぎながら美帆に同意して手を打った。
一同は、神社の方へ歩き出す。祭り囃子が徐々に近づいてきた。鳥居をくぐるタイミングで、めぐが里帆へと声をかけた。
「ここのお祭りは毎年来てはるんですか?」
「うん。この辺りは地元やから。夏祭りもあってな、そっちは本格的なだんじりがあったり。小さい頃から美帆とよく来てたで。太鼓なんかも叩けたりとか」
「おお太鼓! うちも叩きたいです!」
太鼓を叩く真似をした七海を見て、杏奈が「確かに大西ちゃんは上手かもなー」とケラケラ喉を鳴らす。
「はい! ゲーセンでよく叩いてますから」
杏奈が言っているのはそういうことじゃない。確かに『太鼓の達人』で七海に勝ったことはないけど。そんな心の中で毒づいていたみなこのそばに、ぐっと里帆が近づいて耳うちをしてきた。
「文化祭では清瀬ちゃんには迷惑かけたから。ちょっとくらいみんなに奢らせて」
「いえ、そんな迷惑だなんて。それに私がしゃしゃり出ただけで、頑張ったのは奏ですから」
里帆は、本当に真面目やな、と言いたげに肩をすくませる。短く息を吐き、肩に乗っていた髪がふっと持ち上がった。
「それじゃ言い方を変えよう。先輩っぽいことをしたいだけっていう私のワガママに付き合ってくれる?」
綻ばせた里帆の頬に、屋台の明かりが落ちる。ぼやけた赤い光は、彼女のタートルネックの赤と混じり合って、柔らかい表情に染み込んでいくようだった。
「そうですね……そう言われるとなんとなく受け入れやすいです」
「へへ、でしょー」
子どもみたいな笑みをこぼして、里帆は真っ白なスニーカーでトントンと石畳を弾いた。低めの鳥居をくぐり、左右に短い間隔でいくつも並んでいる背丈ほどの灯籠の間を抜けていく。
――――この先輩のようになりたい。
みなこはふいにそう思う。かつての上級生が里帆をこのポストに据えたのは、彼女にリーダーとしての素質を見出したからだろう。里帆は優しさだけじゃなく、しっかりと周りを見てバランスを取れるコミュニケーション能力がある。彼女は満足していないらしいけど、すでに知子にないものを持っていると、みなこは密かに思っていた。こうして、後輩を誘っているのだって、彼女が作りたい部活のビジョンが見えているからだろう。
だけど、里帆が部長に選ばれた理由がそうであるならば、自分が副部長へと昇進するポジションに置かれているのも同じ理由のはずだ。
自分は先輩たちに何を期待されているのだろう。自分の長所は自分ではよく分からない。里帆は、「この一年間は準備期間で向き合う時間だ」と言った。だから、今はどんな先輩になりたいか、それを思い描いておくしかない。
知子や里帆のような頼れる自分を想像してみる。だけど、神社の中に漂う厳かな雰囲気とざわめきに飲み込まれて、チンケな想像は口の中に入れた綿菓子みたいにぱっと消えてしまった。
「そういえば、美帆先輩も一緒なんですね」
「私が地元のお祭りに来たらあかんって言うんはこの口かー!」
美帆が七海の唇をつまみ上げる。ごもごもとした声で七海は必死に弁解を述べた。
「だって美帆先輩は、健太先輩と来てるのかと」
「だって向こうとは地元が別やし」
七海の唇をつまんだ手が緩んだ。プハッと七海が、水面から顔を出したみたいに大げさに息を吸う。「ほんとは一緒に来たかったくせに」と杏奈が悪戯なトーンで目を細めた。
「そりゃそうやけどさ」
否定しないところを見ると、付き合っていることを隠す気はないらしい。美帆と健太は堂々と一緒に帰ることもあるし、二人の関係性は周知の事実みたいだ。みなこはついこの間、みんなに言われるまで気づいていなかったけど。恋愛というものに疎くない者からすれば、気づかない方が異常らしい。
「私、気になってたんですけど!」
顔を真っ赤にした奏が、興奮気味に美帆に詰め寄る。秋らしいチェック柄のワンピースの裾からはバーガンディ色のブーツが覗いていた。
「いつから付き合ってるんですか!」
「きょ、去年の夏から……」
美帆が頬を搔きながら少し恥ずかしそうに答える。突然咲いた恋バナに興味を示したのは奏だけではなかった。今度は、佳奈が頬をほんのりと赤らめながら、ぐっと美帆の方に身体を寄せる。
「どっちが告白されたんですか!」
「告白してきたんは向こうから……って、恥ずかしいからあんまり質問してこんといて!」
迫る二人を拒むように美帆は左右に首を振る。残念そうに二人はしゅんと眦を下げた。いくら付き合っているのが自明なこととはいえ、大勢の前で馴れ初めを聞かれるのは恥ずかしいに違いない。
里帆が首元にまとわりつくセーターを持ち上げながら、美帆の方へ顔を覗き込ませた。
「美帆は、健太先輩が受験生やから遠慮してんねんな」
「そんなこと気にしてたら遊ばれんのちゃう?」
そう言って小首を傾げたのは杏奈だ。真っ白いシャツにアイボリーなベストを合わせている。襟元に彼女の頬がぶつかりシャツにシワが寄った。
「うーん……、でもやっぱり勉強の邪魔はしたくないし。それに今はまだ部活で会えるから」
「でも、来年は美帆が受験生やん? それに健太先輩は卒業するし、部活で会えてた時間もなくなるで」
「そうなんやけど……」
美帆の困り顔は、じわじわと下ろされる夜の帳の中へと消えていく。
「なんだか大人な話ですね」
しみじみと呟いた七海に、みなこは心の中で同意する。
盛り上がりの輪の中からすっと抜け出して、今度は佳奈がこちらに寄ってきた。みなこの腕を引いて、みんなに聞こえないように甘い声を出す。
「みなこは高橋と進展なし?」
「なんで私が航平と進展しなあかんの?」
「だって仲ええんやろ?」
「ま、悪くはないけど」
なら進展するだろう、と言いたげに佳奈の表情が怪訝なものに変わった。可愛らしい少女の眉間に出来た皺を見つめて、みなこはため息をこぼす。
「航平とは何もないから。私なんかよりも佳奈は? モテるんやろ? 彼氏、作ればええやん」
「今は好きな人とかおらんから。強いて言うなら音楽が恋人とか?」
真面目な顔してそんなことを言う佳奈に、みなこの口端は思わず緩む。「それは私もやって」と返して、少し先をいく先輩たちを追いかけた。
みなこにとって恋愛というのはどうも捉えきれないものだ。興味のある佳奈や奏は女の子らしいとは思うし、人が幸せそうにしているのは見ていて微笑ましい。けど、いざ自分の立場に置き換えると途端に観測不可能なものになる。
「あー、もうすぐ大会か……。そしたら三年生は引退やな」
寂しそうな里帆の言葉は、すぐに祭りのざわめきの中へ吸い込まれていった。この賑やかさをみなこは何度か経験したことがある。舞台の上から見下ろす客席の雰囲気とよく似ているのだ。みなこはそっと目を閉じて、まだ見ぬ大会のステージを想像してみた。
歓声のざわめき、降り注いで来る拍手、大きなステージの上で演奏する自分の姿。――瞼を開けた先にあったのは、いつの間にか買っていた唐揚げを頬張る七海の姿だった。
みなこにとって、長くあっと言う間の一ヶ月が始まった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!