花と音楽のフェスティバルの会場までは、去年と同様、阪急電車を使って移動する。会場である末広公園までは、逆瀬川の駅から徒歩で十分ほどだ。夏らしくなって来た気温と湿気を帯びた風が、衣装として羽織っているブレザーの下に汗を滲ませた。
舞台の上でゲネプロを行ったあとに、自由時間が設けられた。本番は夕方なので二時間ほど時間がある。その頃には、気温が落ち着いてくれていれば良いのだけど。仮設テントの指定された荷物置き場のスクールバッグの上に、脱いだブレザーを置きながら、みなこは近くにいた七海とめぐに声を掛けた。
どうしても、やっておきたいことがあったのだ。
「みんな空き時間は暇?」
「暇やで。すみれちゃんを誘おうと思ったら、一年生らでどっか行ってもうたから」
本番とあってかポニーテルにしているめぐが、額に掻いた汗をタオルで拭いながら顔を上げた。パステルカラーの派手なタオルは、めぐが好きな女性アイドルのライブグッズらしい。めぐにそういう趣味があることを知ったのはつい最近だ。
「去年みたいにみんなで回らへん?」
しゃーないなぁ、と七海が深く息を吐きながら立ち上がる。「始めからそのつもりやったやろ」とみなこが毒づけば、「私はつぐみたちと回っても良かったのよ」と七海は唇を尖らせる。
「あっそ。ならええよ。七海はそちらにどうぞ」
「嘘やんかぁ」
七海は、どうしてかめぐに泣き着き、「暑苦しい!」と煙たがられている。捲くりあげられためぐの袖から覗く細く白い腕が、七海の頬を押さえたせいで筋張っていた。
ちょうどそんなやり取りをしているところへ、佳奈と奏が談笑をしながら通り掛かる。
「二人もどう?」とみなこが訊ねれば、「暑いのに?」と佳奈に返された。すぐさま、めぐが「ひっつく話しちゃう!」と否定する。
「暑いのに勧んでひっついてるわけないやろ! これは、この子が勝手にくっついてきてんの!」
「七海ちゃんは、めぐちゃんが好きだねぇ」
「奏、呑気なこと言ってないで、この子を剥がすの手伝って!」
しまいに暴れることの方が熱を発すると諦めたのか、めぐはその場で大人しくなった。めぐの手の形にほんのりと赤くなった頬を、七海はめぐの二の腕の辺りにすりつけている。
「それで?」
「あー、そうそう。みんなで回ろうって」
佳奈がコクリと頷いた。嬉しそうな表情を隠しているのは明々白々だった。
「去年はさ、みんなで写真を取ってん。ラベンダーの大きな花壇の前で。でも、あの時は佳奈はおらんかったやろ? やから、今年はみんなで撮りたいなって」
みなこのやりたかったことはそれだった。
机の上に飾っている写真を、今年のものにアップデートする。それは思い出の更新だ。去年のものに上書きをして、今年の思い出に書き換えていく。だって、写真立てに収められるのは一枚だけだから。そこに罪悪感がないとはっきり言い切れない。だって、去年のあの瞬間だって、とても楽しくてかけがえのない時間だったから。
けれど、出来れば来年も。そして、卒業してからも毎年、この五人で写真を撮りたいと思っている。別にこの会場でなくてもいい、花の前であることへの拘りだって別にない、季節だっていつだっていい。大人になってから学生時代を超える思い出を写真に収められる自信はないけれど、それでもこの五人の写真なら何度だって更新していきたい。
それが繋がりだと思うから。アップデートしなくなった時に、アルバムの中に蓄積されなくなった瞬間に、友人関係は過去のものになっていく。分厚いケースに入れて取り出せなくなったものだけが手元に残る切なさを、みなこは知っていた。
「今年もラベンダーあるかな?」
奏が白いテントの隙間から外を覗く。ちょうど去年、写真を撮影した河川敷の方だ。
隙きをついて七海から離れためぐが、佳奈の背後に身を潜めながらツインテールを揺らした。
「どうやろ? 割と毎年変わってるらしいから」
「別にラベンダーじゃなくててもええよ。大事なんはみんなで撮ることやから」
「それもそうか」
佳奈のブレザーを掴んだまま、めぐが上目遣いでこちらを見つめる。テントの中を吹き抜けた風が、ムシっとした熱気を攫っていった。
*
ステージの正面に連なる屋台と人混みを抜けて、花壇の展示が行われている河川敷そばの広場までやってきた。七海がいつの間にか買っていた焼きそばと林檎飴をみんなで分けながら、去年、写真を撮影した場所を探す。
「この辺りやったよな?」
青のりを唇に着けたまま、間の抜けた声を出した七海は、続けざまに「ラベンダーがない!」と嘆き、ソースとシロップの香りを織り交ぜた息を漏らした。
「やから展示は毎年変わるんやって」
「去年のラベンダー綺麗やったのにー」
「ほら、七海ちゃん、今年のメインはデイジーだよ」
奏が広場の中央付近を指差す。みなこたちの背丈ほどの四面階段にデイジーの花が飾られていた。赤、黄色、白、紫が一面ずつ、ピラミッドのような形で展示されている。陽の光を目一杯吸い込み、呼吸のたびにそれを吐き出しているように花弁がキラキラと輝いていた。きっと、直前に水を撒いたのだろう。
「去年のラベンダーもやけど、今年も見事やなぁ」
ジジくさいことを言うめぐの肘を引っ張り、みなこは黄色いデイジーの前にみんなを集めた。
「ほらここで写真撮ろうや」
「えらい積極的やなぁ」
めぐの吐き出す吐息には、ソースの匂いと幸せが混じっていた。スマートフォンを取り出した奏が、「去年の言い出しっぺは私だったね」と朗らかな笑みを溢す。
「そうやったん?」
真ん中に陣取った佳奈が、構えられた奏のスマートフォンを見つめながら呟いた。綺麗な朝焼けの待受は、宝塚南高校の教室から撮影された風景だった。並んだアプリのアイコンの一つに奏の長い指が伸びる。
「引っ越しが多くて友達が少なかったから。高校の思い出をちゃんとカメラにおきたかったの」
去年、奏が写真を撮ろうと言い出したのには、そういう思いがあったらしい。「ずっと大切にアルバムの中に仕舞っておきたいから」と奏は祈るように言葉を続けた。
それはみなこが考える写真のあり方とは少し違う。
転勤族の両親を持つ奏は、これまでに何度も、思い出をアルバムの中に仕舞ってきたはずだ。そのアルバムの分厚さは薄く、数は友人と離れ離れになった数でちょうど割り切れる。奏は、去年の一枚も、今日撮る一枚も、すぐにアルバムの中へ収めてしまうのだろう。
奏が写真をアルバムに仕舞い、隣に続く空白を見つめるシーンを想像して、胸が痛く張り裂けそうになった。更新されていくことのない眺めるだけの思い出、それは別れを意味するから。……だから、みなこはアルバムの中に写真をすぐには仕舞いたくはない。
カメラのアプリが起動した画面越しに奏と佳奈が見つめ合う。佳奈の瞳だけが切なさを持っていた。「私は写真が苦手」と佳奈がとつとつと砂利の上に言葉を落とす。
「どうして?」
「だってアルバムは、見返すだけのものになってしまうから」
奏の双眸に浮かぶ滴が湿っぽい五月の風に攫われていく。「撮るなら、毎年撮ろう」と佳奈は語気を強めた。
「アルバムに仕舞うことが大切なんじゃない。どこで撮るかが大切なんじゃない。カメラを向けてシャッターを切る。その瞬間に誰と一緒にいるかが大切なんやと思う」
「ふふっ、佳奈……ええこと言うやん!」
思わず溢れたみなこの微笑みをスマホ越しに佳奈が睨んだ。恥ずかしかったらしいけど、良いことを言ったのは本当だ。それを称える良い言葉を考えていると、佳奈が「ちょっと!」と悲鳴に近い声を出した。
「七海ちゃん、なんで押すん!」
「うちが写ってへんからや!」
画面を見れば、七海の顔の半分だけが見切れてしまっていた。良い雰囲気などお構いなしに、七海は画角に収まろうとぐいぐい距離を詰めてくる。佳奈の隣にいためぐが、「やからって押すな!」と詰め寄る七海を押し返した。
「花壇の方に倒れたらどないすんねん! 押すな、押すな!」
「それって押せってこと?」
「そういう、お約束ちゃうからっ!」
めぐは、七海の頭を無理やり押さえつけて、佳奈の胸の辺りにしゃがませた。画面に自分が映ったことを上目遣いで確認して、七海はデイジーの花のような満点の笑顔を浮かべる。
思えば、去年の七海は緊張して笑顔がぎこちなかったのに、今年はいつも通りの七海のままだ。
「私も毎年、撮りたい」
みなこの耳に奏の吐息が掛かる。わざと画面を傾けたのは、表情を観られたくなかったからかもしれない。けど、「うちもやで奏ー」という呑気な七海の声を合図にしたように、すぐにスマホの内カメラは五人の表情を捉えた。
「それじゃいくよー」
奏が画面のボタンをタップすれば、パシャリと音を立てて、五人の笑顔が一つの画面の中に収められた。
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