部活終わりに腹ペコで帰宅したみなこを待っていたのは、「頼まれてくれる?」という母の言葉だった。麻婆豆腐を作ろうというのに、麻婆豆腐の素を買い忘れてしまったらしい。味のない豆腐ひき肉炒めを食べるわけにはいかないと、みなこは必死に自転車を漕いで近所の大型スーパーへと買い出しに向かった。
みなこの家からスーパーまでは小高い森をぐるりと迂回しなくてはいけない。住宅街の坂を登りまた下り、ようやく猪名川にかかる橋にたどり着く。自転車で移動するのは一苦労なのだが、じわじわと曇り始めた空は雨が降り出しそうで、トボトボと歩いている時間はなさそうだった。
すっかり陽の落ちた橋の上は、ヘッドライトとテールランプの色に染っていた。赤信号に進路を阻害されて、みなこはブレーキをかける。にぎやかな町のざわめきは橋の向こう。水の流れる音に遮られたこちら側には、しんとした静けさがうごめいていた。土砂崩れを防ぐための擁壁の奥から顔を覗かせる森の木々たちは、自然の威厳とおぞましさを持って威嚇してくる。小さい頃から、みなこはこの景色が少しだけ恐ろしかった。
シグナルが変わり、みなこは自転車を漕ぎ始める。まるで何者かから逃げるように、町のざわめきの中へ飛び込んでいく。
「お、みなこやん」
橋を半分ほど渡ったところでそう声をかけられた。自転車を止めて顔を上げる。
「あ、航平」
「どうしたん? わざわざこんな時間に」
航平は自転車を降りて、トボトボと近づいて来た。みなこは、欄干の方へ自転車を寄せて、立ち止まる。
「お母さんが麻婆豆腐の素を買い忘れたからって頼まれてん。航平は?」
「あー、こっちも似たようなもん。卵がないから買って来てくれって」
航平の自転車のかごには、みなこも向かっているスーパーの袋が入っていた。透明な袋の中には卵といくつかお菓子が入っている。
「お菓子は頼まれてないやろ」
「まぁこれは手間賃やな」
そう言って、航平は袋の中からチョコレート菓子を取り出した。小袋に分かれているタイプのそれを一つみなこに差し出す。
「食う?」
「うん。ありがと」
空っ腹に甘いチョコレートが染み込んでいく。ザラザラとした舌触りが、口の中に張り付くように残った。
「で、みなこはどうなん?」
「どうって何が?」
「その、部活。うまくやってんのかって」
「うまくって、航平やって同じ部活やんか。近くで見てるやろ」
「そうやけど、ほらトランペットは小スタで、そっちは大スタやんか」
「そうやけど」
「先輩付き合いとか、中学ん時、部活やってなかったみなこは大変なんかなって」
「へぇ、心配してくれてるんだぁ」
わざと細めた目はいともたやすく躱された。航平の視線は、闇が漂う静かな川の底を向いている。少しだけ拍子抜けして、みなこはチョコレートの溶けた甘ったるい息を吐いた。
「心配しなくても大樹先輩は優しいって。あー、私も早くあんな風にカッコよくギター弾けるようになりたいわー」
「カッコよく?」
「そう、カッコよく」
航平の双眸が右に左に泳いだ。動き始めた車のヘッドライトが、みなこの記憶より大人びている彼の頬を白く染める。
「そら、大樹先輩は優しいしなあ。それにかっこええやろうけど……」
「何が? 私は演奏の話してんねんけど?」
「あ、そうか。演奏な、演奏。先輩の演奏はすごいよな」
四月にしては冷たい風が、どっと二人の間を通り抜けていった。目元に髪がかかり、思わずみなこは目を閉じる。首元のパーカーが激しくなびいた。
「大丈夫か?」
「うん。航平はトランペットどうなん?」
「俺は、ようやく音出せるようになったって感じやな」
「定例セッションの時は、航平ずっと見学してたよね?」
「まだ全然参加できるレベルじゃないしな。でも秋までには吹けるようになってたい」
「そうやんなあ」
そこには色んな理由はあれど、誰だってうまくなりたい。その欲望に突き動かされて、人は上達していく。だとすれば、果たして自分は舞台に立てるのだろうか? 一席しかないかもしれないポジション。同時に、ギターを教えてくれる先輩と同じ舞台に立ちたいという願望だってある。それらは、共存できないのかもしれない。そう思うと、少しだけ悲しく思えた。
「どうしたん?」
「ん、なんで?」
「いやなんとなく」
伏せていただろう視線を意識的に上げて、みなこは苦笑いを浮かべた。ごまかしきれないかなと思った時にふと頭に浮かんだのは佳奈のことだった。
「あー、ほら、井垣さんっておるやん」
「あー、同じクラスやわ」
「え、そうなん?」
「うん。うまくいってないんか?」
「うまくというか……、なんとなく距離を感じるっていうか」
「井垣、クラスでもあんな感じやで。ちょっと気が強そうで近寄りがたいって感じやわ」
「……演奏うまい人ってそうなんかな」
「そうなん?」
「イメージやけどさ……孤高というか一匹狼タイプ? そういうやつ」
「まぁなんとなく言いたいことは分かるけど」
「やのに、七海がめっちゃ積極的に絡みにいくから、もーヒヤヒヤ」
ハハッ、と航平は笑う。笑い事ではない。一触即発になったらどうするというのだ。
「あーいうタイプは、貯めに貯めてドカーンってパターンもあるからな」
「やんなぁ。喧嘩なんかしたくないって……」
「とはいえ、さすがに高校生やしそのへんはもう大丈夫ちゃう?」
「へぇ、そう思うんや。意外と大人やなあ」
抱え込んだ小さな悩みは、気がつくと答えが出ていたり忘れていたりする。だから、積極的に解決しようとは思わない。だけど、自分はいずれぶつかる大きな壁から逃げているのかもしれない。大きな擁壁を恐れていたあの頃と何も変わっていないのだ。肌寒さを感じて、見上げたみなこの頬に小さな雨粒が一つ落ちてきた。
「あーもー雨降って来てもうたやんか! 航平が話かけてくるからやで」
「俺のせいちゃうやろがい」
「もー最悪」
「待て待て、お前、今から買いもんやろ? 傘貸したるから」
「え、いいの?」
「まだ小雨やし、俺はすぐ帰れるから。買いもんしてる間に本降りなったら困るやろ」
「ありがと……じゃあ、また明日」
「おー、また明日な」
そう言って、航平はスタンドを蹴り上げた。自転車に跨った彼の背中はやけに大きく逞しい。ビニール傘を広げれば、すぐに小さな雨粒が張り付く。垂れた雫の中へと、航平の背中は消えていった。
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