ホテルへと戻ったのは十時を少し過ぎた頃だった。みなこは、川上に無事戻ったことを報告し、そのついでに水を買おうと一階ロビーにある自販機へと足を運んだ。
エレベーターが開き、フロントの方へと向かう。それほど広くはないロビーの隅に喫煙所があり、その横にちょっとしたラウンジと自販機があったはずだ。佳奈にはジュースでも買っていってあげようか、そんなことを考えていると、馴染みのある声が聞こえてきた。
「どうすんの?」
「まだ決めかねてるんやけどさ」
「ヘラヘラしてごまかさない!」
みなこはとっさに足を止める。エレベーター横の植木の陰に隠れ、いけないと思いつつ耳を澄ませる。その声の主は杏奈と恐らく里帆だ。ヘラヘラとしているのが杏奈で、少し語気を強めたのが里帆。最近になって分かってきたことだが、里帆の方が美帆よりも若干気が強い。
深い溜息のあとに、里帆が言葉を続けた。
「一年半続けてきたんやで?」
「分かってるって」
「やったらそういう話にはならんくない?」
「一年半も続けてきたからやって」
何の話をしているのだろうか。静寂に満ちたロビーには嫌な緊張感が漂っていた。ドクンドクンと自分の心臓の音が聞こえる。この心臓音でここに隠れていることがバレるんじゃないか。そんな風に思った。
「それにさ里帆。やっぱり居心地もあんまり良くなくてさ」
「私もおるのに?」
「そりゃ里帆がおるのは嬉しいよ。でも、それ以上に、やっぱりあの子の存在があまりに大きいんやって」
「やったらもう一度ベースじゃなくて、」
「その話はなし!」
杏奈が声を震えさせた。みなこは思わずブラウスの裾を掴む。
「その話はもうなしやって……」
「ごめん」
「ううん、私こそ怒鳴ったりして……」
自販機の稼働音だけが響いていた。どちらかが炭酸ジュースのプルタブを空けたのだろう。プシュッと空気が抜ける音がした。白いタイルの床が天井にぶら下がる簡素なシャンデリアのLEDライトを眩しいくらいに反射している。いやに目が痛くて、みなこが瞼を細めると、杏奈が言葉を続けた。
「やっぱり互い好きになれんのやと思う」
「私があの子と話をしてみるからさ」
「そこまでせんでも……それにあの子にそんな罪はないやろ?」
「やけど、このままやったら……」
「このままやった?」
「杏奈が……」
「だって、私がこのまま部におったってプラスにはならんよ」
「そんなことないって……」
「いや、泣かんといてえや……」
すすり泣く声が聞こえた。どうも里帆が涙を流したらしい。
「それに文化祭まではおるつもりやから」
「それがけじめってこと?」
「どうやろ?」
杏奈の声は随分優しいものだった。里帆が鼻をすする。
「気が変わることもあるんやんな?」
「それは……うん」
「それなら、私はギリギリまで杏奈を説得するで」
「里帆にそんな風に言われると、辞めるって決意が揺るいじゃうな……」
――――辞める。
冗談交じりにうまく包まれて、その言葉はやけに軽々しいものになっていた。それでも杏奈から紡がれた「辞める」という言葉は、みなこは脳を直接パンチしたみたいにガクッと揺らした。
どうして杏奈が部を辞めるという話になっているのか。みなこが思い出したのは、夕食の時に話していた奏のことだった。杏奈と里帆の言葉を振り返りながら、奏の言っていた気まずい関係が頭を過る。
「とにかくもう部屋に戻ろうや。遅くまでロビーにおったら先生に怒られるで。続きは部屋でも出来るやろ?」
「うん」
逡巡していたことがリセットされて脳内に警報音が響いた。ここにいちゃまずい、逃げないと! そう思ったが、時既に遅し。みなこが一歩後退したタイミングで自販機のあるスペースから二人が出てきた。みなこはとっさに、あたかもエレベーターから出てきた素振りをする。
「あれ? 清瀬ちゃんどうしたん?」
こちらを見つけた杏奈が、わざとらしく明るい声を出しながら少し顔を歪めた。「いつからそこにいたの?」と言いたげに。二人が見つめるみなこの目は確実に泳いでいるはずだ。
「えーっと。あの、水を買いに」
手に持った財布を杏奈に見せ、みなこは笑顔を浮かべてみる。私は何も聞いていませんよ、と下手くそなアピールだ。それを信じたわけではないだろうけど、杏奈は優しく口端を緩ませた。
「あー、水な。よし私が奢ってあげよう」
「いや、いいですよ、そんな」
「先輩らしいことさせてよ」
そう言った杏奈の目はやけに寂しげだった。「もうすぐ出来なくなるから」なんてニュアンスが込められている気がして、みなこは声のトーンを下げる。
「でも、佳奈の分も買うつもりやったんで」
「あぁ、井垣の分やったら私が出すわ」
まだほんのりと目元の赤い里帆が、持っていた缶ジュースを植木の淵に置き、財布から小銭を取り出した。「井垣は同じセクションやしな」と付け加える。
「それじゃ……お言葉に甘えて」
断り切ることが出来ずに、みなこは二人に飲み物を買ってもらうことにした。もしかすると、「聞いていたら黙っていなさい」、そんな口止め料なんじゃないかと思った。
*
杏奈と里帆に買って貰ったペットボトルを二つ抱え、みなこは部屋へと戻った。部屋は佳奈との二人部屋だ。
片手にペットボトルを持ち直し、スニーカを脱ぐ。スリッパに履き替えていると、ちょうどユニットバスからバスタオルを巻いた佳奈が出てきた。細い体躯を締め付けた真っ白なタオルが彼女のスタイルの良さを強調している。思わずみなこの顔は赤くなる。
「どうしたん?」
下ろされた長い髪からほわほわと湯気が上がっていた。佳奈はこちらの反応に不思議そうな顔を浮かべる。
「急に出てきたらびっくりした。早く服着いや」
「だって暑いやん」
「恥ずかしいから!」
口調を強めたみなこに、彼女は悪戯に表情を崩した。フェイスタオルで項の汗を拭いながら、しっとりとした唇を緩ませる。
「ベッドに押し倒してあげようか?」
「ちょっ」
細い彼女の手がこちらに近づく。顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしくて顔を伏せたみなこに、佳奈はクスクスと笑いながらペットボトルの水を手に取った。
「冗談やって」
「なんかキャラ違うくない?」
「そう?」
「そんなこと言うタイプちゃうやろ」
みなこのそんな言葉に、科を作り佳奈はタオル姿のままベッドに腰掛けた。大人っぽい表情は、すっと子どもっぽくなってくちゃっと潰れる。
「お泊りでちょっとテンション上がってるかも?」
「上がりすぎやから」
「みなこは上がってへんの?」
「まあ多少は」
そう言って、みなこはテレビの前の椅子に腰掛けた。少し汚れたテーブルランプのタッチセンサーの銀色に自分の顔が歪んで写り込んでいる。特に意味もなく、そこをタッチしてみる。黄色いシェードがぼんやりと光った。
「多少? みなこは遠足の前日は寝れないタイプやって、この間の練習ん時、大西さんにからかわれてたやん」
「まーそう……てか、からかわれてるって認識されてんの?」
「違うん?」
「そうかもしれんけど」
「やったらテンション上がってんちゃうの? それとも私と同部屋は嫌?」
「そんなわけないやん」
それならどうして浮かない顔をしているのだ、と言いたげに佳奈の眉根が上がった。佳奈は束縛が強いタイプなのかもしれない。彼氏になる人は大変だな、なんてしょうもないことを考えながら、みなこは机の下で足を揺らす。
「実はさ、さっき一階のロビーで杏奈先輩と里帆先輩が話しているの聞いちゃってん」
そう話し始めたところで、みなこは二人に水を奢ってもらったことを思い出す。
「この水は、その後に二人が奢ってくれたやつなんやけど」
「そうなん? 明日お礼言ってとく。それで話を聞いてもたっていうのは?」
佳奈が濡髪を揺らした。杏奈と里帆からは口止め料として水を受け取った気がするるが、その水はこうして佳奈にも渡っているのだからいいだろう、共犯だ、とみなこは話し始める。
「なんか杏奈先輩が退部しようとしてるみたいで」
「そうなん? なんで?」
「うーん、話を全部、聞いたわけちゃうからなんとも言えんけど。部内の誰かと上手くいってなさそうな感じで、文化祭を区切りに辞めるみたいなこと言ってた」
「そっか。でも辞める辞めへんはその人の自由なんじゃない?」
「そうなんやけどさ。奏が言ってたやん? 杏奈先輩がそっけないって」
「鈴木先輩は、谷川さんが嫌で辞めるって言ってんの?」
「それは分からんけど」
「谷川さんって人に嫌われるタイプじゃないやろ」
「うん。だから誤解なんだったら、どうにかしたいなぁって」
それはおせっかいかもしれない。人の関係に首を突っ込むのはあまり良くないことだ。それに今回は、七海と佳奈の時とまた話が少し違う。大きな衝突なんて起きてない上に、みなこの勘違いかもしれない。だけど、誤解を解きたいと思うのは間違った感情だろうか? そんなことを自問自答しつつ、結局、自分は問題を先送りにするんだろうな、とみなこは溜息を漏らす。
「どうするん? 谷川さんにこの話する?」
「うーん。今はいいんちゃうかな。杏奈先輩が本当にどう思ってるんか分からんし」
本当に杏奈は退部の話をしていたのだろうか。さっきの出来事が遠い昔の記憶のように霞んでくる。二人の会話を鮮明に思い出そうとしても、どうしてか細かいニュアンスは闇に沈んでしまったように思い出せない。
「くしょん」
佳奈が可愛らしいくちゃみを飛ばした。部屋はエアコンが効いているため寒くなったのだろう。
「早く服着なよ。風邪引くで」
「じゃ、みなこはお風呂に入って来なよ。タオル取るの恥ずかしい」
押し倒そうか、と言っていたさっきまでの威勢はどこへ消えたのか。佳奈は恥ずかしそうに頬を赤らめた。そんな顔されるとこっちまで恥ずかしい。みなこは、はいはいと面倒くさそうに相槌を打ち、恥じらいを誤魔化した。
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