低い重低音が壁の向こうから聴こえてくる。視聴覚室で行われている有志バンドの演奏だ。アンプから放たれる歪みの効いたロックチューンが、体育館も入っているこの大きな建物全体を揺らしているようだった。
「まだ緊張してるん? 休憩時間くらいリラックスしたら?」
「だって、現状は本番の途中ってことやん」
「考え方によったらそうなんかな?」
めぐと七海がパイプ椅子に座り話をしていた。めぐの手にはハッシュドポテトが握られている。食堂で売っているものだ。
文化祭の二日目、ジャズ研はツーステージあるうちの一つ目を終えて、楽屋で次の出番を待っていた。一回目は大成功。大きなミスもなく、来てくれたお客さんからたくさんの拍手をもらうことが出来た。
「それにさ、ツーステ目は家族が観に来るらしいねん。あー、どうしよう、めぐぅ」
「知らんわ!」
どうやら、七海の両親も観に来るらしい。詳しくは聞いていないが、もしかするとみなこの家族と一緒に来る約束をしているのかもしれない。七海の家とは家族ぐるみの付き合いだ。家族の前でもしっかり演奏したい気持ちとは裏腹に、杏奈のことがずっと気がかりだった。
楽屋での彼女の様子は何も変わらない。里帆と楽しげに会話をしているし、ワンステ目でも普段通りの演奏をしていた。本当に、彼女はこの文化祭終わりに部活を辞めるつもりなのだろうか。
合宿所で聞いた話も、朝一の準備室で聞いた話も、全部が嘘のように思えてくる。あれらは全部、自分が見た夢の話だったんじゃないだろうか。だけど、奏の浮かない表情が、この一ヶ月間の出来事が事実だったと告げていた。
奏に生じているのは、みんなは気が付かないくらいのほんの些細な変化だ。それはきっと、杏奈にも生じていることなんじゃないだろうか。親しくない自分には分からないことなのだ。恐らく、そばにいる里帆は気づいているはずだ。
視聴覚室の方から響いていた重低音が止んだ。同時に、知子が手を打ち立ち上がる。
「それじゃ本番の準備をお願いします。十五分後に開演です」
ざわざわと部員たちが動き出した。本番が始まる。そしてこのステージの終演は、杏奈の退部へと繋がっている。だけど、本番前の緊張の中、みなこにはどうすることも出来なかった。
*
パーテンションの向こうにたくさんの人の気配がする。真っ白なライトが、舞台の端を照らしていた。その光の中にグランドピアノが佇んでいる。無数に舞う埃がキラキラと煌めいて、まるでこれから始まるステージを彩っているように思えた。
「本日は、ご来場ありがとうございます。まもなく、ジャズ研究会によるステージが始まります」
舞台裏に設置されたマイクを使い、みちるがアナウンスを始めた。それを合図に、部員たちは動き始める。
一曲目は、知子のソロ曲。『ケルン・コンサート』だ。みちるのアナウンスが終わり、拍手に迎え入れられ、知子が真っ直ぐにピアノへと向かった。客席に向かい深くお辞儀をして、椅子に腰掛ける。
空調の音が支配していた視聴覚室に、柔らかさと鋭さを持ったピアノの旋律が響いた。ジャジィなスタッカートとクラシカルなメロディ、知子の指先が弾く白鍵が、曲の表情を一瞬一瞬変えていく。
悲壮感のある細やかな音符も階段を、感情的かつ穏やかに知子のピアノは駆け抜ける。彼女がたった一人で作り出す音楽で、舞台の上が豪華なコンサートホールのように輝いて見えた。やがて曲は高音に弾み、また雰囲気を変える。盛り上がりと落ち着きを繰り返しながら、徐々に知子のアドリブが激しさを増していく。一番の盛り上がりを見せたところで、曲は終わりを迎える。
本来ならこの曲は数十分あるのだが、一人でそれをやりきるわけにはいかない。知子はきっちりと決められた時間内に演奏を終えて席を立った。
それと同時、客席から一斉に拍手が起こる。割れんばかりのその音に、知子のピアノに相当感動したことが伝わってきた。というのも、みなこもつい聞き惚れてしまっていたのだ。背中越しに、「ほら行くで」と大樹から声をかけられて、はっと我に返る。袖から舞台へと出ていく部員たちのあとにみなこは続いた。ステージ上はすっかり明るくなっていた。
客席とステージは同じ高さだ。そのせいで、会場のどこかに来ているはずの家族を発見することは出来なかった。祖父母も見に来ているはずだけど。下手に見つけて緊張するよりかは幾分かマシだ。みなこは、所定の場所に着き、みちるの合図に従い客席に深く礼をした。
「こんにちは、宝塚南高校ジャズ研究会です。私たちジャズ研は、秋の大会に向けて日々練習を重ねています。郊外のイベントなどにも参加することもありますが、こうした文化祭という場は、生徒の皆さんや保護者の皆様の前で演奏出来る数少ない機会です。私たちジャズ研の演奏を、今日は是非最後まで楽しんでください」
挨拶をしたのは、知子ではなくみちるだった。知子はピアノの独奏から楽器を切り替える準備があるため、はじめのMCはみちるが進行役を務めることになっていた。
みちるが一瞬だけこちらを見遣った。みんながしっかりポジションについていることを確認して、ふっと短く息を吸う。呼吸音がマイクに乗り、アンプから流れた。
「オープニングは、織辺知子によるリサイタル、『ケルン・コンサート』をお聴きいただきました。それでは引き続き、ジャズの世界をお楽しみください!」
みちるのお辞儀と同時に、照明がスッと絞られる。アシスタントをしてくれているのは、ジャズ研のOB、OGの方たちだ。文化祭は、こうして後輩の舞台の手伝いをするのが習わしらしい。来年になれば、卒業する知子たちが手伝いに来てくれるのだろうか。
そんなことを考えていると、ドラムスティックのダブルカウントが響き、七海が曲の始まりを告げた。フェザリングされたバスドラム、シンコペーションでフロアタムを刻みながらリズムがスイングしていく。本番にテンションが上がっているのか、ワンステ目にはなかったシンバルまで混ざっている。気まぐれでその場のノリで生きている七海には、やっぱりジャズがお似合いだ。楽しげに演奏する七海に、振り返り全体を見ていたみちるがニッコリと笑みをこぼした。そこへ一斉に、桃菜、杏奈、大樹、健太、四人のトロンボーンが加わる。ワンテンポ遅れて、追いかけるようにトランペットがうねりを上げた。身体が弾むような軽快なイントロ。知子の『ケルン・コンサート』で静かになっていた会場の雰囲気が一気に華やかに彩られる。
スイングジャズの名曲、『SING、SING、SING』。《King of the Swing》の異名で知られるルイ・プリマが1936年に発表したこのナンバーは、数多くのバンドにカバーされ、最近では吹奏楽で耳にすることも多い。お客さんの中にもイントロを聞いたことがある人もいたようで、楽しげに身体を左右に揺らしていた。
イントロの終わり、ドラムと奏のウッドベースが一瞬のブレイクを挟む。スッと波が引いたような静寂を裂くように、サックスが軽やかなメロディを奏でた。ギターとピアノもここで演奏に加わり、音の厚みがぐっと増していく。
お客さんもステージのメンバーもリズムに合わせて身体が自然と動いている。音楽によって会場が一つになっていく感覚、これがステージに立つ楽しさだ。アメリカの禁酒法時代、酒場でのダンスミュージックとして生まれたスイングジャズは、無意識のうちに人の心を弾ませる。
曲は、やがてソロパートへと移っていく。クラリネットのソロを演奏するのは知子だ。彼女はあまり自信がないようで、「別の楽器にしよう」と言っていたのだが、みちるが半ば強引にソロを任せた。それもそのはずで、知子のクラリネットは十分に上手い。もちろん、ピアノに比べれば見劣りはするかもしれないけど。それでも、いくつもの楽器をこなせるのはすごいことだ、とみなこは思う。
ドラムとクラリネットが掛け合いを繰り返す中、トロンボーンとトランペットがそれらを繋ぐように楽しげに踊り続ける。ドラムのソロでは、スネアドラムのシャープな音が会場を包み込んだ。七海の上達は目を見張るものがある。中学の頃から練習をしてきたとはいえ、ジャズに触れてまだ半年も経っていない。緊張こそするものの、すでに実力は健太以上になっているらしい。コンボでも七海は選抜に選ばれているのだ。
それはきっと、本質的な才能だろう。七海の血潮にはジャズのリズムが流れている。まだ粗さはあれど、まるで息を吸うように、彼女は身体から溢れ出すリズムを表現出来るのだ。
そんなことを考えていると、スッと佳奈がみなこの横を通って行った。一瞬だけこちらを見遣り、僅かに口端を緩める。「まあ、見てて」そんな風に言いたかったのかもしれない。凛々しい顔つきで客席を睥睨すると、短く息を吸い込んだ。それからすぐに金色のサックスがなめらかな雄叫びを上げる。
スポットライトが佳奈に集中する。光の筋が佳奈の白い頬を照らした。宙を舞う埃がキラキラと煌めきながら、身体を震えさせる佳奈に触れてどっと舞い上がる。アルトサックスのうねりは優しく穏やか。圧倒的なテクニックを駆使しながら、お客さんを酔わせる。きっと佳奈ならプロになれる。実力以上に、その堂々たる態度が、自然とみなこにそんなことを思わせた。
それから里帆のバリトン、美帆のトランペットとソロパートが続き、再び知子のクラリネットへと戻ってくる。曲の終演へと向かっていくクラリネットのソロ。七海のドラムと奏のウッドベースが、優しいメロディを支えている。固唾を飲んで見つめるオーディエンスは、知子が最後の音を拭き上げた瞬間、大きな拍手を送った。
今日の主役は知子なのだろうか。鳴り止まぬ拍手の中、最後のフレーズを弾きながら、みなこは心の中で呟く。だけど、その思いは次の曲であっさりと変わることになる。
間髪入れずに始まったのは『Rain Lilly~秋雨に濡れるゼフィランサス~』。有名な二曲と比べて認知度は劣るこの曲だが、一瞬にして観客の心を強く惹きつけるものがあった。
普段は、ビッグバンドを支える役割に徹するトロンボーンだが、この曲は違う。目まぐるしく変わるソロセクションで、それぞれの楽器に目立つシーンがあるのだ。そしてこの日、観客を惹きつけ、主役の座をかっさらったのは桃菜だった。
細い腕で管をスライドし織りなすスラーはテクニカルで、その上情感たっぷりに、うねりを上げる。穏やかな雨も激しい雷雨も、桃菜はたった一つの楽器で表現してしまう。杏奈や健太には悪いが、やっぱり桃菜はものが違うのだ。圧倒的な才能、ダントツの表現力。どんな言葉を並べても陳腐に思えてしまうほど、彼女の演奏には本物の力がある。
ステージの後方からそんな圧倒的な桃菜の演奏を、杏奈はどんな風に思って見つめているのだろう。憧れのステージで示される力の差。きっと、桃菜のあのポジションに立ちたくて、中学三年生の彼女はステージを見つめていたはずだ。
桃菜のソロの終わり、歓声を上げる観客の隙間に、セーラー服を着た杏奈の姿が見えた気がした。その目はとっても真っ直ぐで、スポットライトを反射する金管楽器のように輝いていた。憧れと夢を膨らませながらこちらを見つめている。ぐっと握った胸元のリボンが皺を作った。そして今も、杏奈の胸は締め付けられている。でも、それはあの時の杏奈の感情とは真逆のものだ。
視聴覚室が大歓声で満たされた。同時に、杏奈の幻影はすっとどこかに身を隠してしまった。もうこのステージを見たくないと言うように。
拍手に答えるようにお辞儀をして知子のMCが始まった。演奏した曲の説明をしている間に、準備をしなくちゃいけない。次は一年生だけで演奏する『枯葉』だ。スポットライトに照らされたステージから上級生たちがはけていく。その中で、杏奈の背中は切なく悲しげに闇の中へと消えていった気がした。
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