「台風結構近づいてきてるみたいやね」
みちるがスマートフォンを眺めながらそう呟いたのは、合宿の終わった次の日の練習、昼休憩の時だった。独り言というよりは、全員に向けて。ピアノに身体を預けながら、頬に手を当てて困り顔で赤いリボンを揺らしている。
「今朝の段階では夜まで大丈夫そうってニュースで言ってましたけど」
「そうそう近畿に最接近すんのは夜の九時頃やって」
同じ形の弁当箱を膝の上に置いた沖田姉妹が、別々のところからみちるに返した。二人の両隣には、それぞれ杏奈と桃菜がいる。
「でも、さっき飲みもん買いに行った時、外の雨、結構強くなって来てましたよ」
自販機に飲み物を買いに行っていた大樹が、オレンジのパックジュースを呑みながらスタジオの外を指差した。床に座る彼の前には割り箸の乗ったカップ麺が置かれている。
スタジオの中は窓がなく外の景色が見えない。ちゃんと時計を確認しなければ、気がつけば日が暮れていたなんてことはざらにある。
特に雨が降っているかどうかは、楽器を運ぶ際には気をつけなければいけないことだ。今朝、登校して来た時はまだ本降りになっていなかったのだけれど。台風は予想よりも早いスピードで近畿地方に近づいてきているらしい。
「練習は大丈夫そう?」
「午後の練習はちょっとキツイかもね」
みちるの返事を聞いて、知子はピアノの鍵盤の蓋を閉めた。それから「ちょっと川上先生に確認してくる」と言って、スタジオを出ていく。
「午後は解散ですか?」
おにぎりを頬張りながら、めぐがみちるに訊ねた。みちるは、「うーん」と悩ましい顔をしながら口を開く。
「電車が止まってもうたら帰れん子が出てきたりするからね。さすがに今日は早めに切り上げるつもりでいたんやけど……。もう少しだけしたかったなあ」
「どうしても無理そうですか?」
「風も強くなってきてるみたいやし。そのへんは私らが決めるわけにはいかんから。川上先生の判断次第やね」
「そうですよね」
めぐは少し残念そうな顔をしていた。グランドピアノは一台しかないため、大スタジオでのセッションは知子と交互になる。そうなると練習時間は自然に他の部員よりも半減してしまうのだ。めぐの家には電子ピアノがあるらしいが、個人練習ではなく誰かと合わせるセッションでしか伸びない力もあるはずだ。めぐは秋の大会に向けて、時間の無さを感じているらしい。
まだまだ遠いと思っていた秋の大会は気がつけば三ヶ月後だ。夏休みが明けて、文化祭が終われば二ヶ月を切る。入学式の時には半年もあると思っていた時間は、いつの間にか折り返し地点を通過していたらしい。ビッグバンドのオーディションに受かったとはいえ、果たして自分は本番で納得の行く演奏が出来るのだろうか。
過ぎていく時間は、いつだって不安を煽り、心を焦らせる。それはめぐだけが感じていることじゃない。
「あー、それにしても台風もわざわざ夏休みに来んでもええのに」
七海がおにぎりを頬張りながら、口を尖らせる。隣に座っていたみなこが弁当を突きながら「なんで?」と聞けば、当たり前やろ、と言いたげに彼女は語気を強めた。
「部活が休みになったら練習時間減るやんかー。来るなら学校のある日にしてくれれば、勉強せんでも済むのにさ」
「学校が休みなったら部活も休みになるで?」
「ホンマや!」
みなこ天才? と感心する七海を佳奈がくすくすと笑っている。不安を煽ってくる時間は悪戯に過ぎていたわけではなかったらしい。自分たちの中で過ぎていった時間はちゃんと積み重なっている。少なくとも佳奈がこうして笑うようになってくれた。
そんな話をしているとスタジオの扉が開いた。知子が手を打ちながら中へ入ってくる。報告がある時の合図だ。
「午後の練習は中止です。ご飯を食べたらすぐに帰宅してください。居残り練習も禁止です。それと、明日の練習の有無は朝に連絡を回しますが、原則は学校の規則に従ってください」
「あー、やっぱりあかんかったかー」
みちるが残念そうに手を広げて、ピアノにもたれかかった。手に握られていたスマホが、かたんと音を鳴らしピアノの上に倒れる。
「台風やから仕方ないでしょ」
知子は口ではそう言いながら残念そうな顔をしていた。彼女は、ピアノのそばに置いていたカバンに荷物を片付け始める。
「それはそうなんやけど、明日の練習が終わったらお盆休みやんか。合宿明けで士気も高まってたのに残念」
不貞腐れた表情のみちるに知子は肩をすぼめる。
「確かにお盆過ぎたら文化祭まであっと言う間かもな」
可愛らしい先輩たちだなぁ、とみなこは甘い卵焼きを口に頬張った。
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