翌朝の練習に、桃菜は何食わぬ顔で現れた。……というよりも誰よりも早く、ライブハウスを訪れて、自主練習を行っていたらしい。
思い返せば、去年の合宿の時、音出しの時間よりも早く、彼女は練習を始めようとして、美帆に怒られていた。今日ばかりは、美帆もそんな彼女に付き合って朝練を行っていたようだ。
特に桃菜からの謝罪や説明などはなく、ビックバンドの練習が始まる。もちろん、謝罪をする必要もなければ、誰も求めていないのだけど。不調だった昨日までが嘘みたいに透き通った音と、変わりのない素っ気ない態度と、澄んだ表情が部員に安心感を与えてくれた。
「桃菜先輩?」
曲の切れ間に佳乃が桃菜に声を掛けた。休憩中も練習を続けようとしていた桃菜は、口元からそっとマウスピースを外す。
「なに?」
「もう大丈夫なんですか?」
夜に色々とあって疲れたせいだろうが、今朝のみなこは目覚ましに気づくことなく、眠り続けてしまい、珍しく朝練を行えなかった。「あれ、まだおったん?」なんて、眠い目をこする佳奈に言われてしまったけど。別にたまにくらい休んでしまうのは仕方ない。練習のある日に実行できなかったのは、初めてだったから少し悔しいけど。
そのため、昨日の桃菜とのやりとりを、まだ佳乃に説明できていなかった。
「音を聞けば分かるでしょ?」
「なら、ビックバンドのソロは……、」
「その必要はない」
桃菜が強い口調で佳乃の言葉を遮る。びくりと肩を弾ませた佳乃は、申し訳無さそうに視線を下げた。手に握っているトロンボーンが鈍く光る。
「次は負けへんから」
桃菜から発せられた言葉は、目の前にいる佳乃にだけに向けられたものではないように思えた。佳乃の隣に座る杏奈が言葉を噛み締めているように見えたから。
でも、佳乃にはちゃんと昨日の桃菜とのやり取りを伝えてあげなくちゃいけない。人にはそれぞれに距離感がある。そのことを伝えれば、佳乃は桃菜とちゃんとやっていけると思うから。もしかすれば、みなこや里帆が築けなかった桃菜との関わり方を、彼女が見い出してくれるかもしれない。
*
昼の休憩から戻ると、里帆から集合の号令がかかった。予定では、午後からコンボと個人に別れての練習になっていたはず。だけど、ステージの上の椅子や楽器の配置はビックバンドのままになっている。一年生たちが予定を間違えたのではないか、と心配になったが、すぐに里帆から説明がなされた。
ちなみに、こういった雑用は一年の仕事だ。もちろん、暇があれば上級生が手伝うことだってある。厳密に下級生がやらなくちゃいけない決まりがあるわけじゃない。
「諸事情あって急遽予定を変更します!」
ハーフツインの髪はやけにご機嫌に揺れていた。美帆とは髪型が異なっているのは、別の部屋に泊まっているせいか、美帆が桃菜に付き添って早くライブハウスへやって来たせいか。今日の美帆はストレートのままだ。
「実は、スペシャルゲストの方に指導して頂けることになりました!」
「ゲスト!? まさかトップミュージシャンが!」
「来るわけ無いやろ!」
部長の話をちゃんと静かに聞きなさい、とめぐが七海を叱咤する。七海の高揚も理解できる。ゲストだなんていうのは初めてのことだから。まさか本当にトップミュージシャンが来るわけはないと思いつつも、週末に控えるイベントの出演者が講師をしてくれるなんてこともあるかもしれない、と期待が膨らむ。横山は音楽界隈にそれなりの繋がりを持っているらしいから。
「なんと本番の舞台にも一緒に出演して頂けます!」
おぉー、と感嘆の声が部員たちから上がる。今まで校外のイベントに出演することはしばしばあったが、コラボレーションというものは初めてのことだった。なんとなくミュージシャンっぽさを感じてテンションが上がるのは必然だった。
「驚かないでよ! それじゃ登場して頂きましょう! スペシャルゲストはこの方です!」
里帆の呼び込みに合わせて、舞台の明かりが突如落ちる。真っ直ぐなスポットライトが舞台袖を照らし出した。この場にいないところを見ると、どうも裏で杏奈が操作しているらしい。
「だからこういう紹介の仕方はやめてって言ったん!」
まばゆい光の中から現れたのは、今年の春に宝塚南を卒業したみちるだった。眩しそうに目を細めながら、照らし出す光から慌てて逃げるように里帆の隣へと駆け寄る。それに合わせてスポットライトの光も移動した。普段のおっとりとした彼女から想像できない機敏な動きは、恥ずかしさの現れだろう。
「すみません。テンション上がっちゃって。せっかくステージの上でしたし」
悪戯っぽく笑いながら首筋を掻く里帆に、「もっー」とみちるは頬を膨れさせる。子どもっぽい仕草とは裏腹に、彼女の纏う花柄のモダンテイストのワンピースが半年前より彼女を大人っぽく見せていた。
里帆の反応を待たぬうちに、ぱっとステージ上の照明が点いた。勢い余って客電まで点灯させてしまったらしくやけに明るい。
「一年生の子たちは初めましてやんね? 宝塚南OGの東みちるです。よろしくお願いします」
みちるはこちらに向かい深くお辞儀をした。礼儀正しい仕草に、一年生たちは声を揃えて挨拶をする。変な緊張感がないのは、みちるが自然と醸し出す優しさのおかげだろう。
「それにしても、どうしてみちる先輩が?」
訊ねたのはめぐだった。口元がやけに緩んでいて、表情に嬉しさが隠せていない。
「横山さんにイベントの出演を頼まれちゃって。大学も夏休みで暇やろって! でも、どうせ出るなら、みんなと演奏したいなぁって」
「みちる先輩と一緒に演奏できるの楽しみです!」
「ほんと? そう言ってくれて嬉しいなぁ。迷惑かと思ったから」
穏やかな微笑みを浮かべて、みちるはわざとらしくない程度に照れてみせた。可愛らしい仕草に、「可愛い人っすねぇ」とつぐみがみなこの耳元でつぶやく。
「そういえば、衣装はどうするんですか? なんなら、うちの制服貸しますよ!」
「うーん。ありがとうね七海ちゃん。でも、さすがにそれは遠慮しとこうかな」
うっすらと茶色くなった髪は、まばゆい照明のせいでやけに明るく見えた。そこには赤いリボンはもう無い。それが一番、彼女を大人っぽく見せている。それを知っているのは、二年生と三年生たちだけだ。
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