スタジオから出て周りを見渡したが佳奈の姿はなかった。隣の音楽室からは吹奏楽部の軽快な演奏が聞こえてきている。その音楽を背に、みなこは階段の方へと向かった。
彼女はどこへ行ったのだろうか。衝動的に追いかけてきてしまったが、彼女の行き先に当てなどなかった。トボトボと階段を下りていくと、吹奏楽部の音楽が徐々に遠ざかっていく。廊下の窓から吹き抜けてくる夏の装いをした風が、みなこの頬を叩いた。その風に乗って、一階の方からかすかにサックスの音色が聞こえてきた。
みなこはその足を早める。一歩、一歩と階段を下りていくたび、吹奏楽部の音楽は消えていき、サックスの音色が確かなものとなっていった。伸びやかでうねりのある、自信と憂いが混在する魅力的な音。その音色は、花と音楽のフェスティバルで佳奈が演奏していたソロのフレーズだ。
一階にたどり着いた時には、みなこの意識は佳奈のサックスに支配されていた。身体は勝手に音の鳴る方へと動いていく。渡り廊下から食堂の方へと向かうトタンの軒先の下で、誰もいないテニスコートを見つめながら、彼女は一人サックスを吹いていた。
全身を使ったプレイにポニーテールが激しく揺れ、真っ白な項に垂れた汗が夏みたいな陽射しに照らされて煌めく。じめっとした空気が少女の夏服に纏わりついていた。彼女がその空気を目一杯吐き出すたび、高い空の彼方まで音が響いていく。金色のサックスを抱えた美しいその姿に、みなこは息を飲み渡り廊下の隅で動けなくなった。
彼女が作り出すこの魅力的な世界を、壊してしまうことが重罪のように感じたのだ。手のひらに握り込んだピックが、みなこの皮膚に食い込んだ。その不意の痛みに、手に力が入っていたのだと気づく。すごい、上手い、かっこいい。そんな短絡的な思考が脳内を刺激した。
演奏を終えた彼女は浅い呼吸を繰り返しながら、息を整えた。額から湧いてきた汗を、手の甲で拭う。しんと静かになったテニスコートの向こう側から吹奏楽部の演奏がかすかに聞こえてきた。
すごかったよ。そんな感情を彼女に伝えたくなる。その素直な衝動が行動へと移るほんの寸前、七海の姿が脳内にちらついた。
七海も同じだったのだろうか。思えば、七海はいつも佳奈のことを褒めていた。てっきり、しつこく絡む七海のことで腹を立てているとばかり思っていたけれど。そうだとすれば、これから自分が起こそうとしていた行動は佳奈の怒りに触れるかもしれない。佳奈は毎回、ちゃんと否定していたじゃないか。どうしてか分からないが、彼女は褒められることを嫌っているのだ。
そう考えると、彼女がソロを断ったことが自然と結びついた。
突如として浮かび上がった真意と思しきみなこの考えは、振り返ると一昨日の彼女がはっきりと言葉で示していた。
――私は言われたくないことを否定しただけ。
彼女はちゃんと自分の意志を表明していたのだ。私を褒めないで。ちゃんと叫び続けていた彼女の思いを受け取れていなかったのは七海だけじゃない。
佳奈の視線がふとこちらを向いた。その表情はとても穏やかなものだったが、みなこの身体は思わず蛇に睨まれたように固まってしまう。
「なに?」
ポニーテールが傾く。手に握ったピックがもう一度みなこの手のひらに爪を立てたように痛みを走らせた。追いかけてきた意味をもう一度考えて、みなこはそれからゆっくりと彼女の方へ近づいた。
「邪魔しちゃったかな?」
「ううん」
佳奈はかぶりを振って視線を持ち上げた。真っ黒な瞳に、青い空が映り込む。
「ちょっと広いところで吹きたかったから」
「広いところ? それなら向こうの体育館前とかが良いんじゃない? グラウンドに向かってよく吹奏楽部の子たちも練習してるし」
「グラウンドは駄目。今、サッカー部が練習してるやろ。練習風景はあまり人に見せるものじゃないから」
みなこの視線は彼女の細やかなところを捉えていた。サックスを掴む手の筋肉のひくつき。僅かな表情の移り変わり。些細な変化を見逃さないように注視する。だけど、彼女はとてもリラックスした様子だった。
「そっか。今日はテニス部休みやもんな」
「うん。だからここで吹きたかってん。風が抜けていく中で吹くのはとっても気持ちいい」
佳奈の華奢な手がサックスのボディを撫でた。真っ白な肌が陽を受けたサックスの光沢と混じり合う。
「この間のイベントの時も?」
「うん。あれもすごく気持ちよかった」
そんな言葉を発して、彼女の頬が少しだけ緩んだ。初めてみるその表情に、みなこの胸はドクリと鼓動を早める。端麗だ。その魅力に取り憑かれてしまったみたいにフォーカスがそらせない。まばたきの瞬間にくしゃりと潰れた佳奈の双眸は、長いまつげに縁取られていた。
「清瀬さん、夏は好き?」
「夏?」
「そう、夏」
「うーん。冬よりかは夏の方が好きかな」
「私も夏が好き」
「なんで?」
「陽を浴びて風を感じるって良くない?」
あなたなら分かるでしょ? そう言いたげに佳奈の口端は少しだけ釣り上がる。少し傾き始めた太陽が、季節を先走った入道雲の隅に隠れ、佳奈の大人びた表情に影を落とした。辺りは少しだけひんやりとした空気に包まれる。
「それに夏はキラキラして街中が輝いて見える。私はそれが好き。でもな、本当は今みたいな春と夏のちょうど間のこの時期が一番好きやねん。夏の気配がすぐそばに近づいて来てるのが分かるから。私が長袖から半袖に変わるその日。家の台所の匂いも玄関の空気も街中に溢れてる音も、すべてが一緒に夏に変わる気がする」
すごく真剣な顔つきをして、佳奈はサックスを抱き寄せた。再び顔を出した太陽が、一瞬にして辺りの空気を春から夏に変えていく。サックスの影が落ちた佳奈の顔には、白と黒の境界線が生まれていた。それがまるで大人びた雰囲気と幼い面影が共存しているように見えて、みなこの心がひくひくと疼く。
「それ、ちょっと分かるかも」
「清瀬さんなら分かってくれると思った」
佳奈の口元に笑みが浮かんだ。それに対して、みなこはひどく間抜けな顔をしていたはずだ。
「なんで私なら?」
「なんとなく。清瀬さんは私と同じ匂いがしたから」
あっけらかんと佳奈はそう言い切った。「同じ匂い?」みなこが首をかしげれば、彼女の目元にぐっと皺が出来た。
「私たち、似てるやろ?」
「どうだろう?」
楽器も上手くて容姿端麗な少女に、「自分たちは似ているね」と言われる要素をみなこは自分の中に見いだせない。佳奈の言葉に戸惑っていると、彼女はその手をスッとみなこの胸の辺りに伸ばした。
「清瀬さんは心のどこかで世界を俯瞰的に見てるやろ?」
「俯瞰的に?」
「そう」
佳奈の中指がみなこのリボンに触れた。クッと強い力が加わる。
「悩んでるくせに動き出せない。それでもなんともない顔をして、日々を過ごしている。それは世界が自分を置いて回っていると思っているから。悩みだってなんだって、いずれ自分の元から離れて遠くへと流れていく。じっとしていればいつの間にか忘れられる。そう思ってるんちゃう?」
自分の身体が透明になって心を覗かれてしまったのかと思った。みなこの胸の辺りを押していた佳奈の指がそっと離れる。その手に吸い寄せられるように身体が彼女の方にわずかに傾いた。バランスを失いかけた身体に、安定させろと無理やり指示を出す。グラグラと脳内が揺れる感覚は、妙に気持ちよく胸が高鳴った。
「私もそうやねん」
それから佳奈のしっとりとした唇がそう言葉を紡いだ。夏のような陽射しを浴びて、みなこの背中が汗で濡れる。こちらを見つめる真っ直ぐな少女の目から視線をそらせないまま、みなこはふいに思っていることを口走ってしまった。
「井垣さんも同じなんや」
「やっぱり清瀬さんもやねんな」
つい認めてしまった。だけど、悩んでいるのになんともない顔をしているのが同じなら、彼女はまだ七海のことを気に留めているはずなのだ。そして、彼女がこんな話をしてくる理由は一つ。
みなこの脳内に浮かぶ、一昨日の別れ際の彼女の表情。それが今の彼女と重なった。彼女は叫んでいるのだ。時間だけが解決してくれるものだと自分はまだ信じている、と。
みなこは意を決し踏み出した。
「それじゃ、井垣さんは七海のことをまだ怒ってるの?」
みなこの質問に佳奈は黙ったまま頷いた。その双眸の輪郭を縁取る長い睫毛が臆病な色の瞳と幼さを隠している。
「でも、七海に悪気はなかってん」
「大西さんに悪気がないことは私も分かってる」
「だったら……」
「やけど、それを許せるほど私は大人じゃない!」
佳奈が少しだけ語気を強めた。みなこから逸らされた視線は、ひび割れたコンクリートを見つめている。その視線を変えないまま、佳奈は言葉を続けた。
「いくら悪気がないってポーズを取ってたって傷つく人はいる」
「ポーズちゃうよ。七海は本当に……」
「本人がそれに気づいていないならそれは罪。悪気がない人の言葉は、全部正当化されるわけ? そうじゃないやろ」
「そうかもしれない」
「清瀬さんだってそう思うなら、」
そこまで言って、彼女は言葉をつまらせた。きっと、ひどく幼いことを言いそうになったのかもしれない。自分の言葉を必死に飲み込もうと、彼女はぐっと唇を噛み締めていた。
「どうしても七海のこと許してあげられないの?」
白くなった佳奈の唇がほんわりと赤らみ始める。彼女がこうして自分と話しているのは、きっとそういう気概があるはずだからだ。
「私は嫌なことを言われた。清瀬さんだって分かるやろ?」
「……私は井垣さんのことを何も知らない」
何を言われたくないのか。何が嫌いなのか。人にとって許せることと許せないことの境目は決定的に違う。みなこは佳奈の内情も育ってきた環境も何も知らない。彼女がそれを伝えてくれなければ、みなこは彼女に寄り添うことなど出来ないのだ。
みなこの言葉に佳奈は痛いところを突かれたと言いたげに笑みを浮かべた。大人びた微笑の奥には確かに子どもが潜んでいた。
「そっか。そうやんな。やっぱり清瀬さんは大人やな」
「そうかな。子どもっぽいと思うけど」
みなこは自分の胸の辺りに手を添える。自分の胸は佳奈のそれよりも随分と子どもらしい。
「清瀬さんのそういうとこ好きやで」
「なに、急に? そういう話ちゃうかったやろ?」
「ううん。そういう話。清瀬さんには話したくなる。自分のことを全部……」
両手に抱えたサックスを見つめながら、少女は自分のことを話し始めた。ひどく冷静に、遠くに聞こえる吹奏楽部の音にかき消されそうなほど穏やかな声で。
「私は上手とか凄いとか言われるのが嫌い」
「なんで?」
「期待されてるみたいで窮屈に感じるから」
――期待。今日のこの時まで、それはポジティブな言葉だと思っていた。明るく温もりのある言葉の印象が、彼女が発する冷たいニュアンスに飲み込まれて、ひんやりとした暗いイメージに変わっていく。
「私の両親は二人とも音大出身やねん。父はサックス、母がフルート。プロのミュージシャンになって二人で同じステージに立つ、それが夢やったらしい。やけど、プロになって音楽で食べていけるのは限られた人間だけ。私の両親は結局その道を諦めた。父親は音楽関係の仕事に就いてるけど、母は専業主婦」
佳奈の音楽の才能の根源を見た気がした。みなこにとってプロになる以前に、音大という場所が遠い存在だった。
「それで私は小さい頃から音楽漬けやった。物心ついた時にはすでにピアノを弾いていたし、父親に習ってサックスも吹かされた。二人は私に夢を託している。あなたはプロのミュージシャンになれる。そう言われ続けて、ずっと育ってきた」
「井垣さんは、両親のことが嫌いなん?」
「まさかそこまでとちゃうよ。二人は、私を人形みたいに扱っていたわけじゃないから。ちゃんと不自由ない暮らしをしてきたと思うし、人相応の愛も受けて来たと思う。二人のことは大好きやし。やけど、音楽のことになると私を褒めてくれるだけ。いつだって、『あなたは絶対にプロになれるから』ばかり。それが小さい頃から辛かった」
佳奈の眉根に皺が出来る。彼女の肩には両親の思いが乗っている。それが純真であればあるほど彼女を苦しめているらしい。佳奈の口調が少しだけ強くなった。
「私が上手くなってプロになるのは親の夢。私は上手くなりたくて音楽をやってるわけじゃない」
上手くなりたい。それは音楽をやっている人の普遍的な衝動だと思っていたみなこにとって、あまりに衝撃的だった。
――上手くなりたくない。
そんなことを言う目の前の少女の言葉の奥に潜む感情をみなこは必死に想像してみる。上手くなりたくないなら、どうして彼女はサックスを続けているのだろう。親の期待から逃げることが出来ないから? どうしても、そんな理由には思えなかった。
「やけど、ほんならなんで井垣さんはサックス続けてるん?」
「え?」
「井垣さんは音楽が嫌いなん? 親の夢や期待に答えるのが辛いっていう井垣さんの気持ちは分ったけど、それが嫌なら音楽なんてやめればいい。話を聞く限り、井垣さんの両親はサックスをやめたって、井垣さんを見放したり冷たくなったりせんと思う。……がっかりはするかもしれんけど。むしろ、今までかけてしまったプレッシャーを謝ってくれるんちゃうかな」
眩さを孕んだ佳奈の瞳が、くらっと揺れた気がした。みなこは固唾を飲み込み、言葉を続ける。
「……それに、井垣さんが吹いている時、音楽が嫌いだなんていう風には見えんかった。いつも真剣で真っ直ぐで……音楽と正面から向き合って吹いてるもん」
練習中もイベントでも、佳奈はいつも自信満々に吹いていた。それはきっと音楽が好きだからだ。上手くなりたくない。それは彼女の本心に違いない。だけどそれは両親の期待に抵抗した結果、生まれた感情に思えた。
――私は上手くなりたくて音楽をやってるわけじゃない。
それじゃ、彼女は何の為に音楽をやっているのだろう。もう少し手を伸ばせば、佳奈の心に触れられるそんな予感がする。金色のサックスの向こう側に隠した彼女の心。そこにみなこは勇気を振り絞って手を伸ばした。
「井垣さんの夢は何?」
そう訪ねたみなこの目を、佳奈の瞳がじっと見つめた。
「私は、ブルーノートで演奏がしたい」
その目は、キラキラと輝いていた。まるで夏のようだとみなこは思った。遙か上空を飛ぶ飛行機の音が、遠くから聞こえていた吹奏楽部の演奏をかき消す。みなこの肌に絡みついてきた水分をたくさん含んだ空気が、手に握ったピックを湿らせる。
「ブルーノートって何?」
「ニューヨークにあるジャズクラブ。そこで死ぬまでに一度でいいから演奏がしてみたい」
「ニューヨークにあるの?」
「そうニューヨーク。中学生の頃、旅行で一回だけ行ったことがあって。とにかく格好よくて大人な雰囲気の場所やった。壁にはたくさんのミュージシャンの写真が飾られていて、バーのカウンターも机も床も空気も、全部がジャズの為に彩られてる。青色のライトが灯ったステージ、世界から集まった指折りのミュージシャンたちのプレイが、私の脳内に焼き付いてる。いつか私もここで演奏がしたい、拍手を貰いたいって思った」
楽しげな佳奈の話に、みなこは少しだけ興奮した。そのステージの上で演奏する彼女の姿を、みなこは想像してしまったのだ。
「私、井垣さんがそこで演奏する姿を見てみたい」
「いつか演奏出来たら、きっと幸せ」
「やったら、上手くならんとあかんのちゃう?」
「どうなんやろ……」
「だって、プロが演奏するステージなんやろ? やったら、清瀬さんも上手くならんとそのステージには立てんやろ」
そのジャズクラブで演奏するためにどんな資格が必要なのか知らないが、ただ一つ言えることは、上手くならなければその夢に近づけないということだ。佳奈の視線がゆっくりとみなこから逸らされる。
「でも、上手くなることは私の夢ちゃうから」
彼女の中にある深い傷の正体。それが何かみなこはなんとなく分かった気がした。だが、自分は彼女を説得したいのだろうか? 説得してなんの意味がるというのか? 一瞬、そんな疑問が湧いてくる。だけど、心の中に湧いてきたそいつを、すぐに退けた。違う。ただ素直に、彼女に言いたいことがあるのだ。
「井垣さんが考えてる、期待と夢はまったく別物やと思う。井垣さんがプロになってブルーノートで演奏する姿を私は想像して興奮した。きっと私は井垣さんに期待してる。でもこれって私の夢なん?」
「ううん、たぶん違う」
「だったら、井垣さんのご両親も同じ気持ちなんちゃうかな。自分たちが出来なかった夢を託してるんじゃなくて、井垣さん自身の力に期待してる。井垣さんの両親が褒めるのも、七海が褒めてるのだって嘘じゃない。少なくとも私が今日思った感情は本物。井垣さんがプロのステージでプレイするその姿を私は本気で見てみたい。井垣さんの両親への反発は、私の感情の否定やで」
自分の言葉は、どこまで相手に真意を伝えられただろう。彼女の両親が本当はどう思っているかなんて、みなこは知らない。でも言いたいことを自分は言い切った。そう自分は、伸ばした手の先で爪を立てたのだ。相手の心を引っ掻いてみせた。佳奈は怒るだろうか、それとも。
彼女の視線がゆっくりとこちらへ戻ってくる。
「ありがとう。みなこ」
佳奈はそう短く呟いた。その目元に光ったのは汗だったのか、涙だったのか分からない。ただ真っ直ぐで透き通った瞳が、こちらを力強く見つめていた。
「私、プロになる」
あまりに簡単に発されたその言葉には、不思議なリアリティがあった。決意をした彼女の双眸はやけに美しい。長いまつげがふさふさと動き、佳奈は瞬く。
「ブルーノートで演奏するから、その時は見に来てくれるやんな?」
「もちろん」
「でも、いざそう決めても、まず何を目指したらいいか分からんな」
「それじゃ、次のオーディション、コンボで受かってみせて」
「まかせて」
そう言って佳奈はニコッと笑みを浮かべた。それは今までで見た中で、一番柔らかく子どもっぽい表情だった。
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