ブルーノート

~宝塚南高校ジャズ研究会~
伊勢祐里
伊勢祐里

三幕7話「独りよがり」

公開日時: 2020年11月29日(日) 20:30
文字数:2,327

 夏休みが明けて、あっという間に二週間が経過した。文化祭を明日に控え、校舎はすっかりお祭りムードだ。廊下にはたくさんの宣伝ポスターが貼られ、みんな最後の仕上げに急かされている。演劇を行うクラスの垂れ幕が、屋上から吊るされるのが宝塚南の伝統だった。


 夏休み明けからしばらくは、短縮授業が継続されている。ジャズ研は昼過ぎから当日の会場である視聴覚室でゲネプロを行っていた。


「出ハケのタイミングもきっちり確認しておいてねー」


 みちるがステージの前に立ち、部員たちに指示を送る。まず、曲順とステージ上でのポジションの確認だ。演奏がないタイミングでは、学年に関係なくサポートに回るため、休む時間は少ない。誰がどのタイミングで楽器の運搬を行い、どこに配置するのか、本番でミスのないようにしっかりと一時間分のステージ構成を頭に叩き込む。


 ちなみに視聴覚室は、普段並べられている長机が撤去され、お客さんは立見で観覧することが出来るようになっている。チケット制ではなく、出入りは自由なので学校内外から多くの人が来てくれるはずだ。


「みなこちゃん、譜面台の高さはこれでいい?」


「うん。ありがと」


 奏が譜面台の高さを調整してくれた。ほっこりとしているはずの笑顔が寂しく見えるのはきっと気のせいじゃない。


 桃菜との会話を奏に聞かれてから、話は何も進展していない。杏奈と話さなくちゃいけないと分かっていながら、何も出来ていないのが現状だった。


「奏ちゃんのウッベはこのままでいいんやんな」


「そうだよ。運ぶの大変だしね」


 夏休みの最終日に練習を休んだ奏だったが、次の日からしっかりと登校してきている。部活も休みはしていない。あの日は、風邪を引いてしまったということになっているらしい。だけど、それは嘘だとみなこは思っている。


 奏はあれから何も素振りを見せない。むしろ以前と何も変わらないフリをしているのだ。気にしていないなんてありえない。だけど、なんともないフリをする彼女の態度に甘え、解決しなければいけない問題から目を背け続けて、ただいたずらに時間だけが過ぎていた。


「それじゃ、一曲目から通しでリハをします。今日が視聴覚室で出来る最後のリハーサルなのでしっかり集中していきましょう」


 知子の指示に部員たちが一斉に返事をする。本番は明後日、つまりタイムリミッドも同じ時間のはずだ。



 *


「清瀬ちゃん」


 リハーサル終わりに杏奈に声をかけられた。あまりに急なことで手に持ったスポーツドリンクを危うくこぼしそうになる。


「なんですか?」


「そんなに驚かんでも」


「すみません」


「もー、相変わらず清瀬ちゃんは真面目やなー」


 ケラケラ、と喉を鳴らし、杏奈は楽しげな声を出す。彼女の左手に、金色に輝くトロンボーンが握り込まれている。


「今回は長い公演やけど、ちゃんと役割を覚えれた?」


「はい。たぶん大丈夫です」


「たぶんやとあかんなー。しっかりせんと」


 乾いた笑いをこぼしながら、杏奈はステージの奥に設置されたパーテンション裏へ歩を進めた。そこは裏口に繋がっていて、先には控室と楽器奏庫として使用する柔道場がある。一丁前に言えば関係者通路だ。みなこが追いかければ、廊下にはリハーサルを控える有志のバンドたちが集まっていた。楽屋へと戻ろうとする杏奈の背中越しに声をかける。


「それはもういなくなるからですか?」


 周りに部員はいない。文化祭前のガヤガヤとした騒がしさがみなこの声を杏奈にだけ届ける。


「どうかな?」


 小首を傾げながら、杏奈は眉尻を下げた。その表情は今までとは違うものに見えた。きっと、桃菜の話を聞いて、この問題の本質が分かったからだろう。それは優しく明るい先輩じゃなく、独りよがりで子どもっぽいものだった。


「どうしても辞めるんですか?」


「そうやな。もちろん本番が楽しみ。去年は叶わなかった。……この子と一緒に出られるから」


 杏奈の撫でたトロンボーンが、薄く暗い廊下で異様に輝きを放つ。せっかくの輝きを濁しているのは杏奈の心情だろう。


「杏奈先輩が辞めれば悲しむ人がいます」


「悲しむ人? 里帆?」


「いいえ。奏ちゃんです」


「……この間、風邪やって言ってたけど、もしかして気にして休んだりしてた?」


「……たぶんそうです」


「そんなに私のことを気にかけてくれてるなんてな。申し訳ない気持ちはある。けど、奏ちゃんには関係のないことやろ? 清瀬ちゃんは、私にこんな辛く惨めな思いをずっと抱き続けろって言うん?」


「そういうわけじゃ……」


 口に出た言葉とは裏腹に、内心はそう思っていた。その葛藤をみんなが抱えて音楽を続けているのだ。勝ったり負けたり、時にはこてんぱんにやられてしまうことだってある。それでも続ける理由があるはず。きっと、秋に行われる大会に挑み続けるのはそういうことなのだ。


 だけど、みなこにはそれ以上の言葉は出てこなかった。今の自分には、杏奈の気持ちを本当に理解することなんて出来ない。もちろん、大樹にギターで負けていることは悔しいことだ。いつかは追い越したい、うまくなりたい、と思っている。でも、上級生の大樹に実力で負けるのは仕方のないこと、という諦めがどこかにあるのも事実。杏奈のように、同級生である桃菜に圧倒的な力の差を思い知らされるのとはわけが違う。


「……でも、谷川ちゃんのことフォローしといてな」


 杏奈の声はやけに柔らかいものだった。懐かしむようにトロンボーンの光沢をもう一度撫でて、楽器倉庫になっている柔道場へと消えていく。


 今のみなこが彼女にかけられる言葉は罵倒しかない。「先輩は弱い人です」そんな言葉が腹の随分深いところでじっと淀んでいた。自分がそう声をかけたところで彼女の判断はなにも変わらない。それは目に見えていることだったから。


読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート