スタジオは、柔らかいピアノの音に包まれていた。ピアニストのキース・ジャレットが一九七五年に当時の西ドイツ、ケルンで行ったコンサート。本来発注していたものとは別のピアノが届いた挙げ句、調律すらされていなかったという悪条件の中で録音されたというライブアルバムは世界的なヒットとなった。
すべてがアドリブで演奏されたという曲は、調律も不正確でペグすらまともに動かなかったピアノと格闘した末に生まれたものらしい。クラシックのような旋律からカントリーやゴスペルのような響きのメロディが、一つの物語の中に収まっている。どこか穏やかで優しくて、静かな中に激しさが潜む、いかにも難解そうなメロディの階段を、知子の指がなめらかに滑り降りていく。
曲の盛り上がりに合わせて、音の階段をまるで二弾飛ばしで駆け上がるように意図的に音を弾ませた。知子が部屋中撒き散らしていく音符の粒を逃さないように、みなこの鼓膜が丁寧に一つずつかき集めていく。
カレンダーはまた一枚薄くなり、宝塚南高校は夏休みに入っていた。
外では、ジリジリと太陽がアスファルトを焦がしているが、ありがたいことに部室は空調がしっかり入っていて涼しい。汗の掻いたペットボトルを手に取り、みなこはひんやりとした水を身体に流し込んだ。
「という感じの曲です」
演奏を途中でやめて、知子がそう呟く。長く黒い髪をかきあげて、彼女は白い項を晒した。わずかなピアノの残音が、ゆっくりと有孔ボードへと吸い込まれていく。
「これオープニングでやったらどうかな?」
ピアノの前に立ったみちるが、そう言って小首を傾げた。胸元には、サックスのストラップが可愛らしく揺れている。髪にはいつもの小さな赤いリボンがぶら下がっていて、春より少しだけ伸びた髪は珍しく三編みになっていた。
「でも『ケルン・コンサート』って冒頭三十分くらいありますよね?」
みちるに質問をぶつけたのは大樹だ。ドラムに座った七海が、少し離れたこちら側にも聞こえるほどの声で「三十分! 長っ」と驚いた。
「もちろん、フルではやれんけどね。その辺りは、知ちゃんのさじ加減で」
「なんでそんな大雑把なん? ちゃんと時間は決めといて。視聴覚室は他の人も使うんやから、時間が押したら迷惑やで」
「分かってるって」
生真面目な知子の返しに、みちるはやけに気楽な声で返した。彼女が陽気に小さな身体を弾ませているのは、ほかでもなく来月の下旬に行われる文化祭のせいだ。
宝塚南高校の文化祭は、毎年九月の下旬に二日間行われる。模擬店は禁止されているが、体育館のステージで劇をしたり中庭でダンスを披露したりといったクラス単位の出し物をメインに、吹奏楽部の演奏や写真部の展示など文化部の出し物も充実している。その他にも、歌唱コンテストや漫才といった個人で出場するイベントも企画されていて、それなりの盛り上がりを見せるらしい。
ジャズ研の出し物は、もちろん演奏パフォーマンスだ。二日目に午前と午後の二回公演を予定している。その間には、有志によるバンドなどの演目が組み込まれているため、時間は厳守しなければいけないというわけだ。
「文化祭の持ち時間って、ワンステージどれくらいなんですか?」
航平が手を挙げた。男の子っぽい筋張った左手が、金色に輝くトランペットのトリガーを握っている。みちるがくしゃっとした笑みを浮かべて答えた。
「ワンステージ、一時間。今年も川上先生がしっかり時間を確保してくれたから、たくさん演奏できるんよ」
「やったら演奏するにしても、七、八分やな。そっから別の曲に繋げるとか?」
「それくらいでええかもね」
知子が少し呆れたように息を吐いた。みちるは、楽しそうにピアノの上に置いたルーズリーフにメモを取る。きっと、知子の演奏の次にどんな曲を繋げられそうか、案を書き出しているに違いない。
「他にやりたい曲があるならどんどん言ってね」
セットリストを決めるのは、毎回みちるの役割だ。花と音楽のフェスティバルの時も前回の七夕祭りのイベントの時もそうだった。だけど、「文化祭はみんなの意見を聞くからね」と言っていた通り、彼女はこうして全員に曲のリクエストを募ってくれているのだ。
ジャズにまだまだ詳しくないみなこは、特にこの曲がやりたいという意見はない。けれど、そのおかげで、先輩たちが曲のリクエストをするたびに知子が実演してくれる。そこに時折、他の部員も加わり自然とセッションになっていくので、聴いているだけで楽しい。演奏を聴いた一年の反応も参考に、みちるは一時間のライブのセットリストを組んでいくつもりなのだろう。
ちなみに、キース・ジャレットの『ケルン・コンサート』をリクエストしたのは里帆だ。
「やっぱ織辺先輩のピアノはええなぁ」
と陶酔した様子の里帆に、
「私の方が織辺先輩のピアノに感動したけど?」
と美帆が喰ってかかる。二人の言い合いもすっかり見慣れたものになった。
「私なんて涙でそうやったけど?」
「出そうってなんなん。感動したなら、ちゃんと泣けばええやん」
「美帆だって泣いてないやん」
「私は心で泣くタイプやねん」
「なんやそれ」
みちるの問いかけなど上の空でわーわーと言い合っている二人を他所に、大樹がみちるに返事をする。
「取り敢えず、これくらいちゃいますか?」
「そうやね。それじゃ、来週にはセットリスト決めてくるから。ごめんね、みんな時間取らせて、練習の続きしよか」
みちるは少し申し訳なさそうに謝ったが、結果的にセッションをしていたし、みなこは多くの曲に触れることが出来た。これはこれで悪くないと、みなこは密かに思う。
「ちょっと待って。せっかく全員揃ってるから、今のうちに合宿の話を」
そう言って、知子がピアノの椅子から立ち上がった。ピアノの上に置かれたプリントを手に取り、全員に配り始める。
「そっかもう来週やったね」
みちるが、ハッとした可愛らしい顔をして頷いた。「それじゃ、セットリストは合宿の前には完成させとかんとね」と一人言葉を続ける。
合宿については夏休みに入る前に、ぼんやりと概要だけは聞いていた。滋賀の方へ二泊三日で向かうことや大体の予算など。保護者に説明するための資料を、先日顧問の川上から手渡されていた。
「今回は、宿泊するホテルの部屋割りや移動経路、タイムスケジュールなどが決まったので、親御さんというよりも皆さんに向けての連絡です。配った資料にも書いてますが、集合はJRの大阪駅に七時半。持ち物は各自の判断に任せますが、ゲーム機などは通常の学校と同じで原則禁止です」
資料によると、向かう先は滋賀県彦根市。彦根城や琵琶湖からほど近いところだ。添付されている写真は普通のビジネスホテルのようだ。大人数の部活でない以上、こういったところに泊まる方が案外安いのかもしれない。
大部屋で先輩と同室なるよりかは気を使わなくて済みそうだ、とみなこは少しだけ安心する。配布されたプリントには、知子が言った通りすでに部屋割がされていて、みなこは佳奈と同室だった。
「練習場所は、毎年恒例のライブハウスです。詳細は配ったプリントに書いてあるのでまた目を通して置いてください」
「はい」
部員たちは一斉に返事をして、それぞれの練習に戻って行った。手元のプリントに目を通しながら、みなこは大樹に声をかける。
「ライブハウスで練習するんですか?」
「そう。織辺先輩も言ってたけど、毎年恒例やねん」
ライブハウスで演奏する機会など滅多にあることではないと、みなこは少々興奮した。プリントに書かれた『CLOVER HIKONE』というライブハウスの名前の横にはポップなデザインの四葉のクローバーの絵が添えられている。
「ライブハウスってことはお客さんが入るんですか?」
「ううん。この三日間は、貸し切りで練習」
「貸し切りってすごいですね」
「このライブハウスを経営してるオーナーさんが、川上先生の知り合いやねんて」
「そうなんですか」
夏休みと言えば、どんな業態でも観光シーズンで繁盛期のイメージがあるが、知り合いだから毎年貸してくれているのだろうか。
「オーナーさんは、ギタリストやから色々教えて貰えるで」
「大樹先輩も去年教わったんですか?」
「教わったでー。結構、厳し目にな」
一年前のことを思い出したのか、大樹は苦笑いを浮かべた。
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