ブルーノート

~宝塚南高校ジャズ研究会~
伊勢祐里
伊勢祐里

四幕5話「大会」

公開日時: 2021年2月27日(土) 19:10
文字数:6,486

 リハーサルと昼食を終え、一息ついたところで、いよいよ本番の時間が近づいてきた。制服のブレザーを脱いで、紺色のジャケットに袖を通す。真新しくピカピカの生地が格好良く見えるのは、あまりに贔屓目が過ぎるだろうか。


「まもなく本番です! 一度、集合してください!」


 知子がいつものように手を打って、部員の注目を集めた。やっぱり彼女にこうして貰うとパキッと肩に力が入る。それから彼女の優しく思いやりのある円陣が、余計な力みを取り除いてくれるのだ。


 楽屋や廊下に、まばらに散っていた部員たちが彼女を中心に円になった。


「ついにこの日がやって来ました。ジャパンスクールジャズフェスティバルの本番のステージです。緊張やプレッシャー、誰かのために演奏したい気持ち、上手くやりたい欲望、色んなものが心の中に渦巻いていると思います」


 すでにステージでは他校の演奏が始まっている。誰しもが、いま知子が言った思いを抱えてステージに上がっていくんだと思う。間近にある舞台で流れているはずの音楽は、ここまでは聞こえてはこない。けど、確かに今の瞬間も誰かが思いを音に変えているはずだ。僅か十二分間に、今日の日まで練習してきた全てをかける。その重みは実際にステージに立たなくとも痛いくらいに分かる。


「……けど、楽しんでください。今の瞬間に演奏できることを、今日の日の舞台に立てることを目一杯! 私からは以上です」


「三年生の挨拶はいいんですか?」


 大樹が心配そうに三年生全員を見渡した。みなこの知らない思い出を彼らは共有しているはずだ。そこに入っていくことは出来ないけど、舞台の上で音に変わって受け取ることは出来る。彼が言っているのは、この十二分間が終われば、三年生が引退してしまうことについてだろう。 


「その話は全部が終わってからね」


 知子は少しだけ寂しそうに返した。もしかすると、いまは終わってしまうことを考えたくないのかもしれない。「分かりました! 楽しみます!」と大樹はニッコリと子どものような笑みを浮かべた。

 

 舞台袖に行けば、次の出番を待つ高校と、先程出番を終えた高校が入り混じっていた。その差は衣装がなくとも分かる。やりきった達成感とそこに向かう前の心持ちに満ちた表情。それらは明らかに違っていたから。


 袖の先に見える薄暗いステージの上は、今はまだシーンと静まり返っている。会場に流れるアナウンスが、宝塚南の一つ前の高校の名前を口上していた。


「みなこ頑張ってや」


 制服姿のままのめぐが、緊張を解すようにみなこの肩を掴む。


「うん。めぐちゃんの分まで……」とみなこが意気込むと、「みなこはみなこの分だけ頑張ればええの。そんなにたくさん抱えられへんやろ?」とめぐは微笑してみせた。


「ううん。私だけちゃうから。みんなで少しずつ、めぐちゃんの思いをステージに運んでいく」


「そっか……」


 嬉しそうな笑みは、パッと灯ったステージの照明に照らされた。同時に、音楽が流れ始める。颯爽と駆け抜けていくA列車のメロディは、みなこの中ですっかり懐かしいものに変わっていた。


 *


 拍手に送られ、演奏を終えた前出番の高校が舞台の袖に捌けて来た。本番前とは打って変わって、彼らの表情はやりきったものに変わっている。自分たちも十数分後には同じ表情になっているのだろうか。ミスなくやりきることが出来ればかもしれないけど……、一瞬過ぎった不安をみなこは必死に振り払う。


 ステージを照らす照明が照らされて、アナウンスが宝塚南の紹介を始めた。


 ――続いて、エントリナンバー十六番、宝塚南高校です。


 それを聞いて、袖の一番端で待機していた知子が、部員たちの方を見遣る。――行くよ。彼女の瞳はそう訴えかけて来ていた。三年間の思いの全てをこの十二分間で出し尽くす。その意気込みが、真っ黒な双眸をキラキラと輝かせていた。


 ――演奏曲は、『Rain Lilly~秋雨に濡れるゼフィランサス~』『Tenderly』。


 曲の紹介を受けて、拍手と共に部員たちはステージの上へ上がっていく。闇に包まれた客席の向こうには、何千という目があって、その全てがこちらを見つめているはずだ。所定のポジションに着いて、みなこはアンプのシールドをギターへと繋いだ。


 準備が整った合図を部員たちから受けて、知子が深くお辞儀をした。それを合図にステージのライトがぱっと華やぐ。眩い光が照らし出したのは何もステージだけじゃない。客席の景色も一気に視界に飛び込んで来た。右も左も上も下も、どこを見渡しても人ばかり。まるでシャワーのように降って来る拍手の音が、心音に何度も叩かれ緩んだ鼓膜を更に激しく叩きつけてくる。


 移ろいだ視線は逃げるように佳奈の方を向いていた。彼女の胸元に抱かれたサックスが照明を浴びて光沢を放っている。あの煌めきをこの角度からあと何度見つめることが出来るのだろう。永遠に色褪せないフィルムがこの心にあったなら。間違いなくこの瞬間にシャッターを押していたはずだ。でも悲しいことに、この一瞬は時間と共に色褪せて、やがて思い出に変わっていく。その思い出もやがてアルバムの中の一枚になり、時折見返すだけになってしまうはずだ。


 思わず、みなこは冷たいギターのネックを握り込む。ダメだ。今を楽しまないと。数少ないこの瞬間が未来にどうなっているかなんて考えてちゃいけない。数少ないと分かっているなら、無我夢中にならなくちゃ後悔してしまうじゃないか。


 覚悟を決めて、始まりの時を待っていたが中々、七海のカウントが始まらない。深く頭を下げている佳奈の姿を認識して、みんながお辞儀しているのだとようやく気づいた。慌てて、みなこも頭を下げれば、また大きな拍手が会場を包み込む。


 顔を上げれば、拍手が徐々に鳴り止んだ。静けさに満ちた会場には、一つの雑音もない。そう感じたのは集中していたからだろうか。歓声やざわめきは花火のように散っていき、耳に入ってくるのは部員たちの僅かな呼吸だけになった。振り返らなくても分かる。奏は落ち着くために深く息を吸い、七海は期待と緊張でソワソワとしている。揺らぐことなく凛と佇んだ佳奈。航平は身体を軽くしようと肩を揺らしている。


 七海がスティックを振り上げた。それぞれがそれぞれの動きをちゃんと感じ取っていたらしい。七海のスタートの合図がかかる前に、全員が楽器を構えた。次の瞬間、七海のダブルカウントが響く。


『Rain Lilly~秋雨に濡れるゼフィランサス~』


 この曲の冒頭は、知子の難解でスピーディなピアノのリフから始まる。急な坂道を転がり落ちていくような猛烈な速度で、細やかな音符の階段を彼女の指がしなやかに駆けていく。轟々と吹き荒れる嵐の中へと世界は一気に転落していくのだ。


 一瞬で舞台の上は灰色の雨雲に包まれた。そして一気に金管の雨粒が降り注ぐ。激しいトランペットのクレッシェンド、突風のようなトロンボーンのグリッサンドが交互に乱れ、タンギングで刻まれるサックスの難解な秋雨のメロディが、びしょ濡れで冷たくなった身体を打ち付けてくる。今にも萎れてしまいそうな百合の花を支えているのは、七海のハイスピードなシンバルレガートとみなこのカッティングだ。


 絶対にリズムが狂わないように、懸命に一定のテンポを刻み続ける。本番の舞台で好きに暴れ出す桃菜と佳奈のバランスを取るのがこの小節でのみなこの仕事。隣で刻み続けられる奏のベースの音を聞きながら全体の様子を伺い、二人の手綱を引いてコントロールしていく。


 まるで氾濫した川の水を塞き止めるために、何度も何度も堤防を作っているようだと思った。好き勝手に暴れる二人に、こっちだと道を指し示す。流れ着く場所は、再びやって来る冒頭と同じピアノのリフだ。シンプルだった冒頭に比べて、今度はトロンボーンとサックスを巻き込みながら、知子は圧倒的な技術を見せつける。


 スタートからほんの一分、盛り上がりが上空を包み込む雨雲のように最高潮に膨らんだ。すべての楽器が順に知子のリフを繰り返していく。その終わりを告げたのは、破裂するような激しいトランペットのハイノート。それをきっかけに、先程までの雨が嘘のように嵐は雲の切れ間へと入り小康が訪れた。


 静寂に包まれた淀んだ空へ突き上げられたメロディは、健気さと清らかさを纏ったサックスの音色だった。濡れた草原の草木を思わせる優しい知子のピアノに支えられて、佳奈が穏やかな旋律を奏でる。神々しく輝く照明の中で、雨に濡れた一輪の花は、今にも枯れてしまいそうに、冷たく湿った風に揺らされていた。伸びやかで清らかな佳奈のビブラートが、叫び声のように会場の一番奥までうねりを上げる。


 目の前で演奏されているのは、今までで一度も聞いたことのないアドリブ。エモーショナルなアレンジは、スリルたっぷりに、感情的でとても魅力的で……。それは佳奈の気持ちそのものなのだろう。彼女はイメージ出来ているのだ。今日のステージだけじゃない。遠い未来のステージを。雨に濡れても負けない、小さくも誇らしげな花がステージの上に咲いている。思わず聞き入ってしまいそうになりながら、みなこは無意識でリズムを刻み続けた。危うく余計な憂いや悲しみを込めてしまいそうになり、みなこはぐっと唇を噛み締める。


 やがて曲は中盤に差し掛かり、トロンボーンとトランペットの掛け合いに移っていく。


 桃菜が平然と吹きこなす難解なパッセージ。先程まで佳奈のサックスに酔いしれていた客席が一瞬にして彼女の音に惹きつけられる。吹き抜けていく激しい桃菜という風を正面から浴びているのは、恐らく杏奈のはずだ。


 才能という雨に打ちひしがれた花は、咲くことを一度諦めた。蕾んだまま芽が摘まれそうになった心にもう一度、勇気を与えたのは紛れもなく奏だ。


 憧れと大好きを込めて、奏はステージの端から端へと音でメッセージを送っている。この舞台こそが奏にとっての特別だ。スポットライトは前に出た桃菜を照らし出すけど、雲の切れ間から差したその陽の光は杏奈には届かない。だけど、奏の思いに応えるために、どんな場所にいても、光が届かなくとも、咲く努力をする決心を彼女はしたのだ。そこに美しい花が咲いていることを、みなこや奏は知っている。


 目まぐるしく場面が変わり、トランペットとピアノのソロに差し掛かる。曲の終盤へと向かう重要なシーンは、秋の天気のように何度も何度も様子を変えていく。アドリブに溢れたリフを繰り返しながら、雨は降ったり止んだり。突風が吹き付けたと思えば、すぐに穏やかになる風を、知子と祥子が演出する。時折、顔を出すギターのフレーズは、二小節ごとにアルペジオとカッティングが入れ替わり、みなこの手はひどく忙しい。全体の音を聞きながら、二人が繰り出すアドリブに応えていく。


 その場面の終わりを、激しい雷鳴のようなピアノのクレッシェンドが告げる。長かった嵐が過ぎ去った。伸びやかなトランペットのビブラートが、雲を切り裂くように高い天井を突き抜けていく。大会ギリギリで航平はこのパートを任された。美しく清らかな太陽のようなメロディ。琵琶湖の湖岸で聴いたあの音が、みなこの中に蘇る。冷たく澄んだ空気の中を一筋の陽光が差し込んだ。


 訪れた静寂、残った残響、それらはまだ遠くに見える嵐の背中だ。一瞬の休符を挟んで世界は一変する。奏のベースに連れられて、ピアノが柔らかなタッチで繊細な旋律を紡ぐ。世界は灰色から虹色へと色づき出した。キラキラと光っているものは、この会場に漂っていたいくつもの思いだろうか。


 どれだけの激しい雨に打たれても、ひどい風に吹かれても、飛ばされることなく根を張っていた思いたちだ。だけど、確かに目の前にはいくつもの思いが浮遊している。これまでに演奏してきた高校の思い。そしていま演奏している宝塚南の思い。春に向けて花が綿毛を飛ばすように、自分たちは思いを音に変えて飛ばす。不規則にホールの中を飛び交っている気持ちたちは、そんな音楽の綿毛たちなのだ。


 ついにやって来た終盤は、奏が刻んだベースを踏襲しながら、メロディアスでモダンな雰囲気に包まれる。みちるの優しいしっとりとしたサックスのサウンドに奏のウッドベースがそっと寄り添い、嵐のあとの穏やかな景色が広がった。濡れた花弁の周りに飛び回っている蝶は、知子のピアノだ。明るい青空の下でスキップするように、低音から高音へと白と黒の鍵盤が跳ねていく。


 それにじゃれつくようなサックスのなめらかなピッチべンドは、みちるが加えたアドリブだ。振り返らずとも、その音を聞けば、楽しげなみちるの表情は想像できる。この瞬間の、このフレーズは、二人にしか演奏できないものだ。みちるの思いを、知子の思いを、過去を知れば、誰もがそう思うはず。これまで積み重ねてきた思い出を、二人はこの数小節の中で体現している。そこに他の誰かが付け入る隙なんてない。


 それから息をする間もなく、サックスとトロンボーンの掛け合いが始めった。持てる技術を出し切るように、佳奈がロングトーンを拭き上げれば、桃菜もそれに応えるようにベルを震えさせる。徐々にヒートアップしていく二人のアドリブの応酬、技術と技術、情熱と情熱のぶつかり合い。拳で殴り合っているような激しい音のやり取りが、ステージの上で行われる。やがて、その盛り上がりが最高潮を迎えたところで、全ての楽器がまた始まりのリフへと帰って来た。


 冒頭と同じメロディのはずなのに、見えている景色が違う。青空の下でのパレード。草原で花や蝶たちが口ずさむメロディ。明るさに満ち溢れた世界は、まるでイルミネーションで装飾されたように雨に濡れてキラキラと輝いている。


 楽しい。色んな気持ちが渦巻いていたみなこの心の中で、集約されたのはそんな単純な感情だった。この時間がずっと続けばいいのに。ユニゾンしていく音たちが、心地よく身体に染み渡っていく。気持ちの良い感覚が全身を震えさせた。だけど、この時間はもうすぐ終わりを告げる。いやだ、終わらないで。そんなみなこの願いは叶うことなく、最後の一音が高いホールの天井へと打ち上がった。


 数秒間、静寂に包まれた。鼓膜はまだ残響で震えている。じわじわと意識がステージから客席の方へと向いていった。何千という手が一斉に上がる。津波のように押し寄せたのは、割れんばかりの拍手だった。


 視界の端に見えていた知子の頭が下がって、みなこも慌てて頭を下げる。余韻には浸ってはいられない。このあとにはコンボの演奏も控えていて、ステージの時間は限られている。


 まだ拍手が鳴り止まない中、みなこは頭を上げて、ステージをあとにした。明るい世界から暗闇の中へ。ステージの上では次の準備が行われているはずだ。「七海、奏、佳奈、しっかり頼むぞ」と心の中で声援を送る。出番が終わった以上、みなこは応援することしか出来ない。


 袖に戻ると、目に涙を浮かべためぐが、音を鳴らさないように拍手をしていた。「おつかれさま」と声をかけられ、みなこはなんと返すべきかを一瞬だけ逡巡する。結局、口から出た言葉はあまりにもありふれた「ありがとう」だった。


「とっても良かった。……来年は――」


 優しいめぐの言葉をかき消すように、ステージの上から七海のダブルカウントが響いた。それを聴いて、めぐがぐっと口を噤む。


 みなこが振り返ると、スポットライトに照らされたステージがキラキラと輝いていた。本当にさっきまで自分はあそこにいたのだろうか、と疑いたくなるほど眩い。めぐはずっとこの景色をここで見つめ続けてくれていたのだ。あのステージの上に立ちたい思いは人一倍あったはずだ。だけど、知子とみちるの思いを彼女は汲んだ。めぐに後悔はないはずだ。だけど、……。


 静かで優しい知子のピアノが会場に流れる。トランペットのうねりが柔らかいメロディを飲み込んでいった。


 みなこはめぐの手をぐっと握りしめる。「来年は一緒に……!」、心の中で叫んだ思いがめぐに伝わったかどうかは分からない。だけど、めぐの手はみなこの手を強く握り返してくれた。

このあと、20時ごろにエピローグ公開予定です。

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