一幕「合同イベント」
夏のざわめきを凝縮したようなきらめきが、巨大なバケツから降り注ぐ。流れるプールの途中に設置されている樽を模したバケツは、一定時間が経過するとひっくり返って中身の水が一気に降り注ぐ仕掛けになっている。轟々と流れ出た水は、一斉に上がった悲鳴をひとのみにした。
「あそこ、めっちゃ楽しそう!」
腰に浮き輪をはめた七海が口をあんぐりと開けながら呟いた。無邪気な瞳のきらめきは、夏の太陽のように眩しい。駆け出しそうになった七海を「プールサイドは走ったらあかん」とめぐが制止する。
「それくらいうちでも分かってるって。子どもじゃないんやからー」
「なぁー」
七海と明梨はそう言って顔を見合わせると、仲良く流れるプールの方へと向かっていった。やはり馬が合うらしい。とはいえ並ぶ二人は対照的で、大人っぽい黒のビキニ姿の明梨に対して、七海の水着はオレンジ色のフリルがついた可愛らしいものだ。その少し駆け足気味の二人を見ながら、「怪我せんようにな」とめぐがため息をこぼす。
「あの二人はホンマに元気でかなわんわぁ」
腕につけたゴム製のリストバンドの裏にロッカーの鍵がついたカールバンドを隠しながら、陽葵が頬を緩めた。明梨と色違いで揃えられた白のビニキは、二人で買いに行ったものだろうか。高身長な上に筋肉で締まった体躯の明梨が着ているのとは、また違った雰囲気があった。胸の大きさのせいもあるだろうが、陽葵の方が見ているこちら側に妙な背徳感を与える。
「誘ってくれてありがとうね」
「いやいや、人数多い方が楽しいし。休みの日が合って良かったわ。ねぇー、佳奈ちゃん」
陽葵の言葉の前半は感謝を告げた奏に、最後の一言は佳奈に向けられたものだ。奏の後ろに隠れて不服そうな表情を崩さない佳奈に、陽葵はにっこりと笑みを向ける。その視線を受けて、佳奈の眉がぐっと顔の中心に寄った。
「みんなが行くって言うから来ただけ」
「そんなこと言ってー、私に会いたかったんやろー」
「なんで松本さんに会いたいのよ」
「もー素直じゃないんやからー。それに可愛い水着は使わないともったいないもんね」
「……それはそうやけど」
佳奈が来ている水着は去年の夏にみんなで買いに行ったものだ。白の際どいデザインのビキニは、みんなでその気に乗せてしまった感は否めない。もちろん似合っているけれど、女子からしても目のやり場に困る。
「ほら、あの二人がどんどん進んでいくから追いかけな、はぐれるで」
「うわっ、もうあんなところまで行ってるやん」
ピンク色のオフショルダータイプの水着から覗く華奢な肩に掛かったツインテールの先をめぐの指先が弾く。流れるプールへと繋がる階段を降りて入水すれば、フリルのついたパレオが水中でぱっと花のように広がった。
プールサイドで立ち話をしている間に、七海と明梨は随分遠くまで行ってしまった。おそらく、巨大なバケツのところで立ち止まるだろうからいずれ追いつくだろうけど。
「頭から水をかぶるのは勘弁して欲しい」
「やんなー」
陽葵の同意を素直に受け取れないのが佳奈の可愛いところだ。そっぽを向いて奏の腕を掴んだまま、めぐを追いかけて慎重に階段を降りていく。
「陽葵ちゃんはよく来るん?」
「去年も明梨たちと来たで。あーでも、来たのはそれが初めてやったかも。ほら、やっぱり姫路からやと遠いから。宝塚からやと近い?」
「うーん。それでも一時間くらいやったかな?」
みなこたちが訪れているのは、大阪の新世界にある関西で有名な娯楽施設。世界の大温泉を謳った大浴場や屋内プール、ゲームセンターやホテルが併設されている。その立地と夏休みも相まって、学生や家族連れで施設内はごった返していた。
「それなりにかかるなー。詩音は家が近いから小さい頃からよく来てたんやろ?」
「うん。大阪市内の子は、小さい頃から来る機会が多いと思う。小学校の頃は、親に連れられて遊びに来てたし、中学生の頃は友達と来ることもあったよ」
「ええなぁ、娯楽施設が近くて」
「陽葵には姫路城があるやん?」
「姫路城は娯楽施設ちゃうやん!」
ぷんと怒った陽葵が腕を組めば、二の腕が水着越しに柔らかい肌を押した。別にひけらかすつもりがないとわかっているのは、陽葵の性格をよく知って仲良くなったおかげだ。
悪気はなかったのだろう、眉間に皺を寄せる陽葵の表情を見て、詩音は少しだけ慌てた様子で濡れないようにポニーテールに束ねた髪を揺らした。
「ほら、詩音ちゃんが慌ててもうてるから」
「はは、ごめんごめん。怒ってないよー」
「良かったぁ」
詩音がホッと胸をなでおろす。いつもの通りのやり取りなのか、お互いに本気ではないように思えた。
花と音楽のフェスティバルの時に会った時はあまり話を出来なかったけど、あの日をきっかけに明梨や詩音とも連絡先を交換した。数少ないジャズ仲間としてのグループラインはそれなりの頻度で更新されている。それに明梨の後ろに隠れていた詩音ともすっかり仲良くなれた。
先に行ったメンバーを追いかけて、みなこたちもプールに入水する。胸元まで濡れた陽葵がこちらを振り向いた。
「ちなみに、みなこちゃんは来たことあるん?」
「初めてではないと思う。2、3回は来たことあったかな? でも、どっちかと言うとお風呂の方が記憶に残ってるかも」
「分かる! むしろお風呂の方が楽しみやったりするしね!」
「私もお風呂が楽しみやなぁ。確か、男女でお風呂が違って、アジアンとヨーロピアンが月替りなんだよね?」
詩音が身にまとっている紺色のワンピースタイプの水着は、片側の肩が出ていて、小柄で大人しく小動物のような彼女の雰囲気を少しだけ大人っぽくしていた。
プールの緩やかな流れに身を任せながら、「水着似合ってるよ」なんて詩音に声をかけようとしたその時……。
「なんか来るたびにアジアンテイストの方な気がする!」
背後から水しぶきと同時にそんな声が上がった。「わぁっ」と驚いて振り返れば、すっかりびしょ濡れになった明梨がしたり顔でこちらを見つめていた。ギラリと胸元に掛かったゴーグルが煌めく。
「あれ、驚いた?」
「先に行ったと思ったのに、いつの間に後ろにおったん?」
「一周して来た!」
「はやっ」
陽葵の驚きに胸を張って、すっかり濡れた短い髪を明梨は手のひらで書き上げる。深い呼吸を見るにここまで泳いできたらしい。
「去年もアジアンテイストやったやんか?」
「そうやっけ? 覚えてへんわー」
陽葵と詩音が頬に掛かった水を指先で拭いながら、見合わせて首を傾げた。みなこも自身が来た時のことを思い返す。お風呂は印象に残っているものの、それがヨーロピアンだったのかアジアンだったのか覚えていない。
「ところで七海ちゃんは?」
「あれ? さっきまでおったのにな。どこ行ったんやろ?」
「心配しなくても、まだバケツのところにいるんちゃうかな? なかなか飽きないし、しつこい性格やからしばらくは離れへんはず。めぐちゃんが追いかけてくれてるし、流れるプール内にいてくれればそのうち合流できると思う」
「バケツにはしゃぐなんであいつはガキだなー」
ケタケタと笑い声を上げながら、明梨は体を水に浮かべた。ふわふわとクラゲみたいに漂う彼女に陽葵が冷たい視線を送る。
「……明梨も一緒になって行ってたやん」
「そうやっけ?」
「さっきのことを忘れるな!」
「陽葵は細かいなぁ」
そんなんじゃモテないよ、と毒づいた明梨に、「ご心配なく、男子からの人気はある方なので」と陽葵が応戦する。確かに陽葵は可愛いしスタイルも良いから男子からの人気は高そう。今だってそれなりの視線を集めている。
「あれぇ、もしかしてその自信はなにか裏打ちでもあるんですか? あーさては彼氏でも出来きた?」
「べ、別に彼氏はおらんけど」
「またまたぁ、陽葵さんはモテるんでしょ?」
「いないから! もー、私のことはええの!」
パンと陽葵の手のひらが水面を弾き、明梨の顔に水滴を飛ばした。うきゃっと明梨が楽しそうな声を出す。明梨だって黙っていればモテそうだけど。喉元まで出てきた言葉を、みなこはプールの底へ沈めた。
人工的に作り出された流れに身を任せて、四人は洞窟の中へと入っていく。ネオンカラーにライトアップされて、波打つ水がカラフルに光っていた。
「そういえば、」
岩肌に似せた壁に背をつけながら陽葵が呟く。この辺りは水深が浅く、水は腰ほどまでしかない。壁の一部には透明なアクリル板が設置されていて、埋め込まれたモニターには各フロアの紹介映像が流れていた。
「イベント決まったんやろ?」
「あー、お盆前のやつな」
「ええなぁ。二校合同でイベント出演とかめっちゃ楽しそうやん」
陽葵と明梨が話しているのは、大阪市の中之島にある中央公会堂で再来週に行われる音楽イベントのことだ。ジャズをメインにプロのミュージシャンや社会人のバンドが参加を予定している。そこに全国大会で結果を出している此花学園と宝塚南が招待された。それもそれぞれ単独の出演ではなく、合同で演奏するというオファーだった。
「出演が決まったのも先週で、正直、あんまり時間がないんよな。これから選曲とかせなあかんし」
「時間がないのは確かに大変そう。しかも合同だとなおさら。どれくらい集まれそうなん?」
陽葵が詩音に視線を向けた。スケジューリングのことは明梨よりも詩音に信頼を置いているらしい。なんとなく陽葵の判断は理解できる。
「それがまだまだ調整出来てなくて。なるべく急いだ方がいいと思うから、打ち合わせの段取りを今日のうちに決めたいなぁと思ってて」
「それならあとでめぐちゃんと話す?」
「うん。そうして貰えると助かる!」
黄緑色のライトが詩音の白い首筋についた水滴を宝石のように煌めかせる。自分には似合わないと言うように彼女はその水滴を手のひらで拭った。おしとやかな笑みが詩音の中にある慎ましさを最大限に引き立たせている。
「あれ、そんな二年生だけで話進めてええの?」
コクリと首をかしげた拍子に陽葵のポニーテールが水面を泳いだ。「あーそれは、」と明梨が軽快に喉を鳴らす。
「今回のイベントは二年生と一年生を中心に行うことになったから」
「へーどうしてまた?」
陽葵の問いかけにさほど興味がなかったのか、明梨は浅い水深を楽しむように身体を水中に沈めた。あぐらを掻くようにして、顔だけを水面から出している。代わりにみなこが陽葵の疑問に答えた。
「うちの川上先生が、三年生は受験や文化祭の準備があるから、夏休みにこれ以上スケジュールを詰め込むのは厳しいだろうって。それに大きな舞台とはいえ、宝塚南と此花学園の生徒を足せば、一、二年生でもそれなりの数になるし。私たちに経験を積ませたいって思いもあるんだと思うんやけど」
「なるほどー。……でも、なんでうちが誘われないの!」
納得した表情をこちらに向けたあと、陽葵はすぐに明梨の方へ詰め寄った。子どもみたいな陽葵の言い分に明梨は立ち上がり、おどけた返事をする。
「主催者に問い合わせてくださーい」
「もー! ずるい!」
「ずるいたって、そっちはそっちで単独でイベントやるんやろ?」
「それはそうやけど……、みんなで舞台に立つ方が楽しそうやん!」
陽葵が水中で踏む地団駄は、随分と鈍い動きのものだった。おそらく周りに迷惑が掛からないように配慮された動きだ。さっきは感情的になったと反省しているのかもしれない。彼女を中心に小さな波が立つ。
「陽葵ちゃんの言うことは分かる。此花学園との合同で出演って聞いてワクワクしたもん」
「そうやろ、みなこちゃん! なんでうちにはオファーなかったんやぁ」
ぷっくらとフグみたいに膨れた頬を明梨がいたずらに濡れた指先で突いた。無理やり萎ませようとする指先に反発するように、陽葵は唇に力を込めて口の中から空気が漏れないように堪えていた。
「なんぼほどのイベントに出たら気済むねん」
「私はたくさん出たいの!」
「限度ってものがあるやろ。たとえば、朝日高校にオファーはあったけど、先に決まってるイベントがあったから断った可能性もあるやん。そうなると運やろ」
「うぅ、運かぁ」
此花学園は地元大阪の強豪校であるからイベント出演は自然な流れだ。だけど、どうして宝塚南なのか。去年の大会で良い印象を残せたというのはあるかもしれないが、明梨の言うような理由で順番が回ってきた可能性もある。そうなると少し気持ちは複雑だ。
「なぁー、みなこちゃん」
陽葵が羨ましいと言いたげにこちらに顔を近づけてきた。先程まで明梨に弄ばれてムッとしていた目尻が、次第にとろんと柔らかく半熟卵みたいにとろけ始める。
「観に行きたいなぁー」
「そうやんな、チケットやんな。……そういえば、そこらへんはまだ聞いてないんやけど、招待とか出来るんかな?」
「プロの人も出る有料のイベントやから、うちらが用意出来るチケットはないと思うで? 欲しかったら自分で買うことやな」
「えー!」
「ふっふ、運に身を任せるのだ!」
「また運! もー、ずるい! チケット! チケットーーー!」
拗ねた陽葵を詩音が慰める。洞窟の出口が見えるのと同時に、大きな悲鳴と水しぶきが上がった。どうやらこの先に例のバケツがあるらしい。人混みの中で、はしゃぐ七海とそれに突き合わされてびしょ濡れになっているめぐが見えた。
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