ブルーノート

~宝塚南高校ジャズ研究会~
伊勢祐里
伊勢祐里

一幕13話「精一杯」

公開日時: 2020年11月11日(水) 20:30
文字数:1,934

 こんがり焼けた肉の匂いが、真っ黒な煤に乗って遠い空へと消えていく。バーベキューに賑わう部員たちから少し離れたベンチに腰掛けて、みなこはすっかり膨れたお腹を休めていた。

 

 部員たちの声とチリチリ燃える薪の音が耳をかすめるが、鼓膜には航平が吹いていたトランペットの音色がこびりついていた。優しく切なげなメロディ。今さら、また胸がドキドキと脈を打っているのは、あの音色のせいなのだ。


「どうしたの?」


 静かな星空を眺めていたみなこは、急に声をかけられて驚く。手に持っていた紙コップを思わず落としそうになり、慌てて掴み直した。カップの中でオレンジ色の液体が激しく波を立てる。そっと隣に腰掛けたのは奏だった。


「そろそろお腹がいっぱいで」


「それで幸せそうな顔してたんだ」


「そんな顔してた?」


「してたよー」


 奏は、ハーフパンツからすらっと伸びる白くスラッと足をブラブラと揺らした。サンダルから覗く爪の先は、ネイルも何も塗られていない綺麗な足だ。


「もっといいことがあったのかと思った」


「別にないよ、そんなこと」


 そう告げた自分の言葉には、やけに優しい感情がこもっている気がした。一瞬脳内にちらいた航平の顔を無理やりかき消す。ニヤついていたらしい自分の顔と航平は何も関係ないのだ。強いて言えば、あの素敵な音色を演奏していたのが航平というだけで。


「奏ちゃんはどうしたん?」


「私もお腹いっぱいになっちゃったから」


 はー、と満足そうな顔をして、奏が深く息を吐いた。その吐息は、昼間の熱を溜め込んだ地面から立ち昇る生ぬるい夏の空気の中へと溶けていく。


 昨日、聞いてしまった杏奈と里帆の話は、奏にすべきなのだろうか。「退部」杏奈が告げた言葉は夢の中の出来事のように霞んでいる。だけど、そう告げていたのは事実だ。


 なんとなくそっけないと感じている奏が、杏奈から嫌われていると知れば、間違いなく傷つくだろう。それも退部を考えているとなれば尚更だ。少なくとも、みなこは奏のそんな顔は見たくなかった。だけど、杏奈はどうして奏を嫌っているのか。


 ――やっぱり互いに好きになれんのやと思う。

 

 つまり、杏奈も奏に嫌われていると思っているということだろうか。奏が杏奈を嫌っているわけはない。勘違いなのだ。だったら事情を杏奈に話して――


 だけど、その発言が奏のことだという確証はない。それに自分は第三者でしかないのだ。まだ憶測の域を出ない話はそっと心の奥に留めておくべきだと思う。下手にかき乱すべきじゃないのだ。そんな言い訳を弱い自分は繰り返す。


 そうならば、このまま何も知らない方が奏は幸せなのだろうか。文化祭が終われば、杏奈は退部してしまうかもしれない。そうなれば、すんなり話は終わってくれるだろうか? 杏奈の退部のあと、「あなたのせいで彼女は退部したんだ」と奏を責める里帆の顔が浮かんだ。


 里帆はそんな先輩じゃない。そうだと分かっていても、いずれどこからか奏が本当のことを知るかもしれない。そうなったら、奏はどう思うだろう。


 自分がこのまま黙っていることは、奏が杏奈に歩み寄るチャンスを奪ってしまうんじゃないだろうか。


 みなこの脳内で無数のシミュレーションが行われた。やっぱりそのシミュレーションの中の自分は積極的に関わることを避けている。


「なんだか素敵な景色だね」


 奏の言葉はやけに弱々しくて、ジメッとした夏の風に一瞬でさらわれる。彼女の双眸が見つめる先では、部員たちの楽しげな笑い声が飛び交っていた。


「みんな楽しそうやなぁ」


「特に七海ちゃんははしゃぎすぎ」


 肉しか刺していない串にかぶりつきながら、七海は満面の笑みを浮かべている。食い意地もあそこまでいけばすごいと手を叩いてやりたくなった。


「七海は昔からあんなんやで」


「今度、聞かせてよ。七海ちゃんとの話」


「えー、昔のことは恥ずかしいって」


「えーいいじゃん」


 奏の身体が、こくっとみなこの方にもたれかかった。辺りに漂う炭の匂いと彼女の甘い香りが混じり合う。 


「私は二人の話が聞きたいなー、七海ちゃんは面白い話いっぱいありそう」


「あーそういうのならたくさんあるで」


 奏が無理に元気なフリをしているのが分かった。それは、杏奈がそっけないことを気のせいにするためだろうか。少なくとも奏の心の中にはその件がずっと引っかかっているはずだ。「無理してない?」そう聞いてあげるのが優しさなのか? 心の中で投げかけた言葉には誰も返してはくれない。


 奏が両手で握る紙コップの中では、炭酸ジュースがぷくぷくと細かな泡を立てていた。浮かんでは消えていくみなこの思考のようだと思った。時差ぼけした蝉が煩いくらいに鳴き始める。


「そろそろ戻ろうか?」


「うん」


 今の自分には、あの賑わいの中へと奏の手を引いていく、それが精一杯だった。

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