黒い丸椅子が綺麗に部室に並べられている。部員たちはそこに座り、ホワイトボードの前に立つみちるの方を向いていた。ホワイトボードには、『ジャパンスクールジャズフェスティバル』と書かれている。「説明するよ!」と吹き出しのついた猫は、いつかジャズ研のポスターに描かれていたものと同じだ。お世辞にも上手いと言えない猫は、真顔のままこちらを見つめている。ゴホン、と赤いマジックペンを持ったみちるは、注目を集めるように空咳を飛ばした。
「それじゃ、今週末に行われる全国大会の説明をするね!」
「あーもう時間ないやん! どうしよう、今から緊張してきた……」
「七海は相変わらずやなぁ」
からかい笑うめぐの二の腕を七海の可愛らしく握り込まれた拳がポコポコと叩く。「めぐは出んからって呑気なだけやろ!」と拗ねたように唇を尖らせた。
知子からの謝罪と説明は、この直前に行われた。深く頭を下げた知子を責める者は一人もいなかった。部員全員が、みちるの過去を、気持ちを受け入れてくれた。再び積み重ねられたブロックは、綺麗に噛み合って簡単に崩れることはなさそうだ。
赤いリボンを撫でてから、みちるが一つ息を吐いた。その笑顔に曇りはない。秋から冬に移ろって、透明感のある澄んだ水色の空が瞳の中に広がっていた。
「まず、大会が開催される会場からやけど、神戸国際会館! 収容人数は約二千人!」
「に、にせんにん!」
ひぃ、と分かりやすく七海が悲鳴を上げる。「ステージからの舞台は壮観やでえ」と去年の経験者である杏奈がドギマギしている七海を囃し立てた。
「こんなにおっきな場所で演奏できることってほとんどないから良い経験やで」
「なんで里帆先輩は余裕なんですかー!」
「せっかくの機会やねんから楽しまな損やんか」
「うぅ、うちはお腹が痛いです」
「今回は相当重症っぽいな」
うずくまった七海の背中を、めぐが心配そうに擦る。上級生はその様子を朗らかな表情で眺めていた。七海は本番になれば、緊張していたのが嘘のようにしっかりと演奏してくれる。そのことをみんな分かっていた。
「本番は、土日の二日間で行われる。私たちの出番は、二日目の午後から。当日は、九時頃に会場入りしてゲネプロやから、前日の練習終わりに準備を整えておいて、七時くらいには学校に集まっておきたいかな」
前列に座っていた知子が振り向きながら説明した。頬が少しだけ赤くなっているのは、さっきの謝罪のせいだろう。
「もう私が説明しようとしてるのに!」
「ごめん、ごめん。続けて」
「まぁ、ええよ。ほんなら、大会の概要についての説明な」
みちるは、赤いマジックペンの蓋を外して、ホワイトボードをひっくり返した。準備がいいことに、すでに板書が書かれている。さらに、ホワイトボードに書ききれなかったのであろう詳細を印刷したプリントが配られた。
「まず、大会の歴史やね。プリントでは一枚目!」
みちるの指示に従い、みなこはプリントへ視線を落とす。
「大会は今年で三六回目。学生ジャズ協会が主催する高校生の大会では、一番歴史が古いんよ」
「あれ、大会がいくつかあるみたいな言い方ですね」
めぐに介護される七海を横目で見ながら、みなこは小首を傾げた。みちるは秘密を得意げに隠す子どものように、「ふふふ」と口端を釣り上げる。
「実は大会は一つやないんよ」
「どういうことですか? それに、ここに書かれている歴代の最優秀校や所属している高校が関西や東海地方の高校ばかりですね。遠いところでも四国や広島ですし」
「分かりやすく全国大会って言ってるけど、日本学生ジャズ協会は、関西、関東、九州で分かれていてね。それぞれで大会が行われているんよ。私たちが所属しているのは関西の団体。地域的には、東海地方から四国中国の高校やクラブが所属していてね。三つの団体の中では大会歴史が一番古いんやよ」
「ちなみに、毎年何校か別の地域からも招待していて、今年は宮城県と東京都の高校が参加予定」
確かに知子の言う通り、参加高校一覧には、所属していない地域の高校名が記載されていた。表は出演順になっているらしく、宝塚南の出演時間は、二日目の午後三時半頃だ。
「今年の出場校は、全部で三十二校。演奏時間はそれぞれ十二分間!」
「三十二校も出るから、二日間の開催になるんですね」
納得して頷いたのはめぐだ。七海の髪を撫でながら、真面目に話を聞いている。再来年は自分が後輩に伝えなくてはいけないと責任を感じているに違いない。それとは対照的に七海は、ぐるぐると猫のように喉を鳴らしながら、めぐの身体に頭部を擦り寄せていた。
「所属している殆どの団体が出られるようにね。とは言っても、ジャズ研がある高校も珍しいから、こうして二日だけで収まってるんやけど。もっと団体数が多ければ予選が組まれるんやろうし」
確かに所属している殆どの団体が大会にエントリーしている。「逆に出てないところはなんでなんです?」と訊ねた七海に、みちるが少しだけ気まずそうに答えた。
「人数の問題で部活として活動できなくなったり色々あるみたい」
「生徒数の割りに、うちは毎年それなりの人数を確保出来てるから問題ないけど、やっぱり軽音楽部や吹奏楽部の人気には勝てへんみたい」
背中越しでも知子が寂しそうな表情をしているのが分かった。「うちには軽音楽部がないからジャズ研に来てくれるんかもねー」と、今年の春のやり取りを知らないはずの杏奈が、そんなことを口走り、みなこは七海と二人してむせてしまう。
気を取り直すように、みちるがパンと手を叩いた。
「今年も宝塚南はビッグバンドとコンボで大会に出場します! 舞台上でのポジションチェンジは大変やと思うけど、これまでのイベント等々でも経験してることやから焦らずに。時間にも余裕は持たせてあるから」
「てっきり、コンボとビッグバンドをどちらもしなくちゃいけない決まりなのかと思ってたんですけど、大会規定を見る限り、そういうわけじゃないんですね」
「そうやね。どちらもしなくちゃいけないって規定は大会にはないよ。人数の問題でビッグバンドのパフォーマンスが出来ない学校もあるから。けど、宝塚南では伝統的にビッグバンドとコンボをどっちもするっていうのが習わし」
「どうしてですか?」
「多分、色んな年代の様々な種類のジャズにしっかり触れるためかな。やっぱり、それぞれに好みがあるから、曲を選ぶ人によって偏りが出んように。コンボとビッグバンドをやるって縛るだけでも、選曲に幅が出てくるから」
宝塚南では、この時代のジャズをやろうという方針はない。スイングからモダン、現在のジャズまで、幅広いジャズをプレイする。それは好みに囚われず、知見を広げるために歴代の先輩たちが作り上げてくれた伝統だ。
「どれか一つに拘るのも大切なことやけど、うちには初心者の子もたくさん入ってくるから、より広くたくさんのジャズに触れて欲しいって思いもあるかも。そこから好みを見つけてくれて、もっとジャズが好きになってくれれば、……私は嬉しいから」
「織辺先輩のそういうところ好きですよ」
いきなりめぐに褒められて、知子は恥ずかしそうに俯いた。めぐが素直になったせいもあるかもしれないけど、春先から彼女のこういうところは変わらない。いつだって後輩部員のことを考えてくれている。
「それから、ここが一番の大事なポイント!」
そう言って、あたかもテストで出題される需要箇所だと言いたげに、みちるは赤いマジックペンで板書の文字に線を引いた。「おぉ、重要ポイント!」と七海がオーバーなリアクションで身体を前のめりにする。恐らく緊張を紛らわせるためなんだろうと思った。
「大会で表彰される賞は大きく分けて、奨励賞、優秀賞、最優秀賞の三つ! 奨励賞、優秀賞の二つは数こそ決められていないけど、優秀賞は例年多くて五校くらいかな。そして、優秀賞を取った高校の中から一校だけが最優秀賞に選ばれる!」
「それとは別に、ベストパフォーマンス賞やベストスイング賞、神戸市長賞もあるね」
補足をしたのは祥子だった。褐色の肌は、頬の筋肉の動きがはっきりと分かる。ぐっと持ち上げられて微笑ましそうに緩んだ表情は、彼女の自信を表しているのだろうか。手元のプリントには、ヤマハ特別賞や兵庫県知事賞など他の賞も書かれていた。
「今年は一つでも上の賞を目指して……、」
「みちる、そんな弱気でどうすんの。私たちが目指してるのは、もっと上やろ?」
「……そうやったね。ごめん、知ちゃん。狙うのはもちろん最優秀賞……! そのためにここまでやってきたんやもんね」
去年の宝塚南は奨励賞だ。出場すれば必ず貰えるというわけではないが、この賞は最低限のレベルに達しているかどうかというニュアンスが強い。優秀賞まではたった一つの階段に見えるが、奨励賞と優秀賞はかなりの開きがあるのも事実だ。最優秀賞ともなると並大抵の努力では勝ち取れない。
けれど、知子の言う通り、目指しているところは一番上。はっきりとみちるの口から、『Rain Lilly』で最優秀賞を取りたいと聞いたその時から部員の気持ちは一つなのだ。
「絶対、最優秀賞、取りましょうね!」
「威勢ええなぁ。あんた、さっきまで緊張してたんちゃうんか!」
「そうや、うちが演奏するんやった……」
「あーめんどくさい!」
めぐの腿の上に、七海がだらんと身体を倒す。もう知らない、と言いたげに、めぐがその背中を強く叩いた。
「それから個人賞もあるんよ! 各セクションで選ばれてね。最優秀賞に選ばれた学校からとは限らんから、いい演奏をすれば誰にでもチャンスがある!」
「個人賞やって」
「私に取って言ってる?」
「佳奈ならいけそうやけど自信あり?」
耳打ちしたみなこに、「もちろん」と言いたげに佳奈の鼻孔が少しだけ膨らんだ。最優秀賞を取るためには、個人単位でも際立った演奏が求められるはず。ビッグバンドでもコンボでも、佳奈は頼もしい存在だ。
二人でコソコソと話しているとみなこの横で航平が手を上げた。
「はい! 航平くん!」
「最優秀賞を狙うなら、相手のことを知っておくべきだと思うんですけど、強豪校や力のある高校について教えて欲しいです」
「もちろん、その辺りも資料にまとめて来てるよ! ……それじゃ、強豪校については、里帆ちゃんと美帆ちゃんに説明してもらおうかな」
待ってましたと言わんばかりに二人が立ち上がる。ホワイトボードの右半分はみちるの文字とは違うと思っていたが、どうやら姉妹の文字だったらしい。
両手を腰に付きながら、まず美帆がスッと息を吸い込んだ。
「私たちが最優秀賞を勝ち取るためには、どこの高校よりも素敵な演奏をしなくちゃいけません!」
「優秀賞の数こそ明言されていませんが、過去十年で最も表彰された年で五校が最多です。航平くんが言ってくれたように、敵を知ることは大切なはずなのです!」
「では、配布したプリントの最終ページを御覧ください!」
言われるがまま、みなこは最後のページを開く。そこには、要注意という赤い文字と共に三つの高校が記載されていた。
「まず、去年の最優秀校である愛知県立北江工業高校」と里帆が紹介すれば、「去年は最優秀賞を取るだけでなく、個人賞も総なめにしそうな勢いで、サックス、トランペット、ドラム、ベースと四つも賞を受賞しています」と美帆が補足を加えた。
「めっちゃ強いじゃないですか」
航平が驚くのも無理はない。資料によれば、北江工業は過去十年間で三回も最優秀賞に輝いている紛れもない強豪校だ。けど、と美帆が笑みを浮かべる。
「受賞したのはいずれも三年生。もう引退してるから、メンバーはガラッと変わってきているはず」
「いやいや、油断はあかんやろ。愛知県の高校やから今年の演奏自体は聴けてないけど、例年ハイレベルな曲を容易くこなしてくる高校やんか。今年も侮れへんで」
「まぁそうなんやけどさ。あんまり強い強い言いすぎてビビるのもどうかなって」
「……もう」
「……それじゃ、次!」
美帆にそう促され、里帆の眉間に皺が寄る。指示されることが不満らしいが、話の腰をおるわけにもいかないためか、彼女はため息まじりに続けた。
「二校目は、全国でも有名な兵庫県立朝日高校。ここも優秀賞の常連です」
「あ、朝日高校なら私でも聞いたことあります。昔、映画のモデルにもなったっていう?」
「お、清瀬ちゃんよく知ってるな! ちなみに、織辺先輩はその映画を見て、ジャズを始めたんですよねー?」
「そ、そうやけど……」
いたずらに美帆が笑顔に変わる。知子はバツ悪そうに視線を外して指先で髪を撫でた。どうやら、ジャズを始めたきっかけをバラされて恥ずかしいらしい。クスクスと笑っているところを見ると、その情報をバラした犯人はみちるのようだった。
「ここも毎年高校生とは思えない演奏を聴かせてくれます。それに今年は、例年以上に仕上がっているらしいです。加古川の方であった演奏会を夏休みに観てきたんやけど、トランペットにめっちゃ上手い子がおったで」
「あーあの子な。確か一年生やって聞いたな。サックスもかなり上手やったな。あの子の一年やろ? 今年は、あの子ら中心で選曲してくるかもしれんよなー。個人賞取ってもおかしくないレベルやったし」
ジャズ好きの沖田姉妹が、これほど手放しに褒めるということはかなりの実力者なのだろう。同じ一年生のトランペッターとしての嫉妬か、武者震いか、航平は手に力が入っているようだった。
「次は、大阪府の此花学園! 創部されたのが一昨年ですが、去年は優秀賞を勝ち取っています」
「創部たった一年でですか? すごいですね」
めぐは、驚きというより感心した様子でツインテールを揺らした。リアクションの良さに満足したのか、里帆の頬の筋肉が緩む。
「人数が少ないせいもあるやろうけど、去年は二曲ともコンボでのパフォーマンスでした」
「去年の此花の十二分間は、無名ながらその演奏で完全に会場を席巻してたからな。あんな演奏されて、びっくり通り越して私は感動すらしてもうたわ。勢いのまま最優秀賞取っててもなんも不思議じゃなかったで」
美帆の言葉を聞いて、去年のことを思い出したのか、「少人数の精鋭たちって感じやったな」と大樹が頷いた。
「去年の活躍で部員も増えてるらしいから、今年、最も注目されてると言っても過言じゃない高校やな」
腰元に手を据えて、里帆が深い溜息を漏らす。手に握られたプリントがくしゃりと音を立ててわずかに潰れた。
「でも、此花学園のように、たった一年で賞を取ってる高校もある。これはちょっとした勇気の後押しになってくれるんちゃうか?」
「そうですね!」
大樹の視線がこちらを向いて、みなこははっきりと頷いた。自分たちにもチャンスはある。その事実とこれまでやって来た練習が、不思議と不安を払拭して、期待とワクワクを連れてきた。
そう感じたのはみなこだけではなかったらしい。「うちらもやれる!」「頑張ろうね」と七海と奏が手を取り合った。それをめぐが少しだけ羨ましそうに目を細めて見つめている。
「まぁ、それくらい何があるか分からん大会ってことやな」
希望に目を輝かせる一年生を見つめて、里帆は「若いなぁ」と言いたげにため息を漏らしながら言葉を紡ぐ。微笑ましそうな姉とは対照的に、美帆は目の前に座っていた知子の手を取った。
「部長、最後の一週間をしっかりと駆け抜けるためにまとめの挨拶お願いします!」
「え、私?」
「だって部長なんですから」
「そ、そうやけど」
今日のミーティングは、謝罪で役割をすべて終えたつもりだったのだろう。美帆に手を引かれて、知子はおずおずとホワイトボードの前に立った。不安げな顔がこちらを見つめる。けど、部員たちを睥睨すると、知子の表情は少しだけキリッとしたものに変わった。
「……泣いても笑っても三年生はこの一週間で引退です。……この一年、頼りない部長だったと思います。それに最後に迷惑もかけてしまいました」
「そのことはもう聞きましたよ!」
健太がそうやじれば、「こら!」と彼女である美帆が叱咤を飛ばす。知子自身も笑いながら、さらに言葉を続けた。
「……けど、着いてきてくれてありがとう」
ちょっぴり恥ずかしそうに。けど、どこか誇らしげに。その言葉で笑いに包まれていた部室が、華やかに装飾されたように明るく彩られた。
「当たり前ですよ! 私はずっと織辺先輩に着いていきます!」
「里帆ちゃん、うちらはもうすぐ引退やでー、今度は里帆ちゃんが部長やねんから、後輩を引き連れなくちゃ」
「祥子、寂しいこと言わないで!」
「ごめん、ごめん。知子も怒らんといてや」
「別に怒ってへんけど」
目頭を熱くしながら言ってくれた里帆の言葉が嬉しかったらしい。気を取り直すように、知子は一つ手を鳴らす。みんなを注目させるいつものやつだ。
「それでは、最後の一週間しっかり集中していきましょう。最優秀賞を目指して……!」
「おー!」
部員の声がファンファーレを上げる楽器のように高らかと響いた。
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