横山がやって来たのは、みなこがライブハウスに着いて一時間ほどが経ってからだった。
「清瀬さん?」
こちらの姿を見つけて、横山は驚いた声を出した。みなこは頬を引き釣らせながら「おはようございます」と座ったまま軽く頭を下げる。
「お、おはよう。なんで彦根におんの?」
「ちょっと、横山さんに会いたくなったというか……」
頬を搔きながら、みなこは笑って誤魔化す。何を誤魔化しているのだろうか、と自分に問いかけてみたが、明確な答えは帰って来なかった。
「私に会いに……? ギターの特訓つけて欲しくなったとか?」
「そ、そういうわけじゃないです」
慌てて頭を振ったみなこに、横山は笑い出す。自分のレッスンが中々に厳しいことを彼女は自覚しているらしい。
「ギターのことじゃなくて、横山さんに相談というか、そういう類のものがあって」
「相談? 私に?」
不思議そうに眉尻を下げて、横山は自分の顔を指差した。そのタイミングで、「そろそろ開店しますよー」とスタッフの人が店内の照明を付ける。
「あー、オープンするみたいやから、話あるなら向こうでしよっか。ライブハウスの方の準備は昼過ぎからやんな?」
前半はみなこに、後半はアルバイトのスタッフに問かけたものだ。「十二時半からの予定です」とラフなTシャツ姿の男性が横山に返した。
「それじゃ時間あるみたいやから、ライブハウスの方で」
スタッフオンリーと書かれたの扉を開けて、裏へと横山は入っていく。「はい」と一つ返事をして、みなこはその背中を追いかけた。
*
埃っぽい空気に混じって、静かなはずのステージからメロディが僅かに流れてきた気がした。昨日の残響が、アンプや大きな機材の隅に隠れていたのだろうか。みなこと横山が客席に足を踏み入れたせいで、まるで埃のように舞い上がったのかもしれない。
「昨日は、ジャズのライブがあってん」
「そうなんですか。今日もライブがあるんですよね?」
「地元のガールズバンド。大学生くらいの子たちやったかな? ポップス寄りの可愛らしい曲を演奏するバンドやで」
横山は長いスカートの裾を気にかけながら、腰ほどの高さのステージにもたれ掛かった。
「毎日、ライブがあるんですか?」
「うーん。平日は無い日もあるけど、土日はそれなりに埋まってるかな。ジャズだったり、ロックだったり、たくさんのバンドやミュージシャンを集めて、うちがイベントやることもあるから」
このライブハウスを使うために遠方から来るミュージシャンもいるらしい。もしかすると、みなこが想像する以上に横山はミュージシャンたちから尊敬されている人なのかもしれない。レッスンでしか彼女のギターを聴いていないけど、その実力は確かなものだ。きっとステージの上の彼女は、練習の時よりもテクニックや情熱に溢れた演奏をするはずだ。
「それで私に話っていうのは?」
ここに来るまでに、楽屋の冷蔵庫から取って来たキャップ付きの缶コーヒーを少しだけ口に含み、横山は首を傾げる。長くしなやかな髪は、合宿で見た時よりも少しだけ明るくなっていた。
「部活のこと……特に近々大会があって」
「ジャパンスクールジャズフェスティバルやな」
「はい、そうです」
「私達も出場したで。一番いい結果は優秀賞やったかな」
「宝塚南にもそんな時代があったんですね」
「自慢にはならんよ。上手い子がいたからっていうのが大きいし」
横山の言う上手い子とは、川上のことだろうか。横山と川上は、高校の同級生で、宝塚南のジャズ研究会に所属していた。特に、ギターセクションの横山は、みなこにとっては直属のOBというわけだ。
川上も当時はドラマーでかなりの実力者だったらしい。横山と川上がいれば、優秀賞を取ることくらいわけなかったのだろうか。しかし、その思考はすぐに自分の中で否定された。合宿の時の会話を思い出したからだ。
川上がどうして大学生の頃、楽器から距離を置いて教員を目指したのか。その理由をみなこは横山からすでに聞いていた。当時、川上や横山よりも上手な部員がいたらしい。器用な川上は色んな楽器が出来ても、特出して一つの楽器を極めることが出来なかった。そこに悩みを抱えていたようだ。だから、横山が言っているのは、自分たちのことではなく、その部員のことなのだろうと思った。
「けど、結果を出すことは大変なことだと思います」
一人の力だけで得られるものではないとみなこは思う。たとえ、秀でた才能を持つものが一人だけいたとしても、周りがそのレベルに合わせられなければ、その秀でた演奏も自らの才能を完璧に出し切ることは出来ない。音楽はバランスを求められる。周りの実力が伴わない中で、天才が全力で演奏することは、ボロボロの基礎の上に巨大なタワービルを建ててしまうようなものだ。
「そうなのかもね。みんな努力してた。その結果として満足のいくものだったと思う」
「その満足は、ちゃんと納得のいく結果だったということですよね」
「うん。けど、最優秀賞に届くにはもう少しだけ実力が足りなかったかな」
このまま大会に望んで得た結果に、自分たちは納得することが出来るのだろうか。少なくとも、みなこはそう思わない。
「この間、大会に向けてオーディションが行われたんです。コンボを決めるオーディションです。その結果、ピアノの伊藤めぐが――」
みなこは横山に件の経緯を説明した。そのオーディションの結果に納得していないこと、知子を含めた三年生が何かを隠している気がしていること。そして、かばっている相手がみちるかもしれないことを。
みなこの話を聞き終わって、横山は静かに息を吐いた。視線を真っ黒な床に落とす。
「ここに来た経緯は分かった。それで、清瀬さんは何を知りたいん?」
穏やかな横山の声は、ライブハウスの静寂の中に吸い込まれていくようだった。アイボリーなカーディガンの裾が、ステージ上に引っかかってだらんと広がってしまっていた。
「私は、みちる先輩のことを横山さんに聞きに来ました。織辺先輩がめぐちゃんの代わりにビッグバンドの演奏に加わることが、どうしてみちる先輩のためになるのか。それを知りたいんです」
横山が腕を組んだ拍子に、ステージの上に乗っていたカーディガンが垂れる。
「ここまで来てくれて、あの子の話はあの子に聞けって追い返すのも悪い気がするかな」
「それじゃ……?」
「ここに来るってことはきっと、あの子に聞きづらいか話す気がないってことやろ?」
「多分そうです」
横山は視線を上げて、こちらを見つめた。綺麗な双眸が僅かに細くなる。
「みちるちゃんには悪いけど、そういうことなら、清瀬さんも知る権利があるのかもしれない。けど、覚悟は出来てる?」
人の秘密に触れるのに、半端な気持ちでいていいわけがない。横山はみちるの何を知っているのだろうか。みなこの想像は陳腐過ぎて、これから横山が何を話そうとしているのか到底、分からなかった。けど、経緯を聞いて横山が話してくれる気になったのは、知子がビッグバンドを譲らない理由をなんとなくでも分かっているからなのだろう。
そして、その要因には間違いなくみちるは関わっている。
「そのために来たんです」
「そっか。それじゃ、あの子の過去から話さないとあかん」
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