「うーん」
体験入部期間が終わろうとしていた四月の中旬の、もう時期部員が集まり始めようかという放課後。ピアノの天板に方杖を付きながら、里帆がプリントを手に溜め息を漏らしていた。その向かいで、日誌をつけながら副部長である大樹が「どうしたん?」と問いかける。
「ん、」
「ん?」
撥音だけで交わされた会話に、みなこはギターの弦を張り替えながら聞き耳を立てていた。プリントを見せられた大樹は、それを見るなり、「あー」と納得した声を上げる。
「てか、まだ決まってなかったん?」
「だって、一年の実力も人数も分からんわけやん。秋の大会のことを視野に入れながらって考えると難しくて」
「なら、もっと早く相談してくれれば良かったのに。去年は、候補曲どれくらい用意してたとか聞いてないん?」
「去年は、『Rain Lilly』ありきみたいなところがあったから」
「あー確かに。この時期から、あの曲をやることは、ほぼ確定してた節はあるよな」
「一昨年のことはよく分からんしな……」
「入部前の出来事やもんな。けど、考えたって分からんことやし、一年生はいないものくらいで考えた方がええんちゃう? 花と音楽のフェスティバルは、二、三年生で出るくらいの気持ちで。即戦力がおれば、御の字やろうけど。とはいえ、正式な入部は明日からやから、ここまで来たら明日考えてもええんかもれんけど」
どうやら、里帆が持っていたのは、去年も参加した『花と音楽のフェスティバル』のチラシか企画書らしい。まだ部員には正式に参加が決定していることは告げられていないけれど、聞いてしまって大丈夫だったのだろうか。
そんな思考が途切れたのは、里帆がこちらを向いたからだ。みなこがビクッと肩を弾ませると、くりっとした瞳を薄く白い瞼で何度も隠しながら、里帆は不思議そうに首を傾げた。
「清瀬ちゃんはなんかやりたい曲ある?」
「ギターが目立つ曲がやりたいです」
「そりゃ、そう言うわな」
里帆は溜め息と笑いを一緒に溢す。今日はサイドで三編みされた髪を指先で弾いて揺らした。
つい本音がぽろりとこぼれたのは、二人に対して随分心が開けてきたからだろうと思う。先輩ではあるが、気を使う相手ではなくなった。そういう関係性になっているのは、後輩を受け入れてくれる二人の度量の大きさのおかげだろうと思う。
「そりゃ俺だってわがままを言えるならギターが活躍する曲がええよ。けど、秋のJSJFで最優秀賞を取るためには、どんな曲を選択するべきかを考えなあかんやろ」
「いまの宝塚南の力を最大限に発揮できる曲ってことですよね?」
「そういうこと」
大樹の言葉は、みなこに向けられたものと見せかけて、そのベクトルが里帆に向いていることは明白だった。それに気づいたみなこは、大樹の意図を汲んだ返しをした。
みなこと大樹の二人の会話を聞いて、「なるほど」と里帆が顎先を細い指で掴みながら、吐息を漏らした。
「そうなると、やっぱり桃菜のトロンボーンと井垣のサックスやろうな。実力は二人の力が抜きん出てる」
「二人が前に出られる曲があればええんちゃうかな? それはビックバンドでもコンボでもええと思うけど」
「ちょっと、考えてみる」
去年の宝塚南のエースは、間違いなく部長であった織辺知子だった。実力も部長としての度量もカリスマ性も、少し喋りベタなところを除けば、彼女は理想の部長であり、常に部員を引っ張ってくれていた。
それは演奏も含めて。桃菜のトロンボーンが個人賞を獲得出来たのも、佳奈が一年生でありながらいかんなく実力を発揮出来たのも、知子のピアノが高難易度である『Rain Lilly』の曲の核を形成し、プレッシャーや責任を引き受けてくれたことで、余計な重圧を感じずに百パーセントの力を発揮することが出来たからだ。
あの日の宝塚南は、知子のピアノの音を中心に、音の輪を織りなし、時に自由に時に相手に合わせながら、調和を産み出していた。それが全国大会で優秀賞を獲得することの出来た要因の一つであることは明白だった。
今年は、そんな彼女がいない。
里帆の言う通り、今年、音楽を引っ張っていってくれる存在は、桃菜と佳奈になるはずだ。いや、そうならなくちゃいけない。二年生で個人賞を獲得した桃菜は、間違いなく今年も受賞者の筆頭であるはずだし、佳奈だって最優秀賞を獲得した朝日高校の二年生であり、一年生にして個人賞を受賞した陽葵に負けじと頑張るはずだから。
けれど、この二人が知子のように、みんなを精神的に引っ張っていく姿は想像し難い。圧倒的な実力者には、必ずと言っていいほど、カリスマ性が付き纏う。それは、あの二人も例外ではなく、二人の実力は他校まで知れ渡るほどだ。けれど、そのカリスマ性に、仲間の精神的な主柱となりうる本質が伴っているかどうかは、別問題なのである。
始めの頃の佳奈がそうであったように、いまの桃菜に対するみなこのイメージがそうであるように、二人が持っているのは、近寄りがたく孤高を貫くようなカリスマ性だ。集団をまとめたり、調和をもたらしたり、といったリーダーとしての資質とはかけ離れている。
知子が言葉を発せば、部員たちは耳を傾けた。その言霊を素直に受け入れて、自分たちの励みに変えていた。妄信にも思えるかもしれないが、そういう才能が知子にあったのは否定出来ない事実だ。
そういう側面を考えた時に、桃菜や佳奈が、部員の前で統率を取り、意見を発信する場面はやはり想像出来ない。演奏技術で桃菜や佳奈に負けていたとしても、里帆が部長にふさわしいのはそのためだ。人の上に立ちリーダーシップを発揮する才能は、間違いなく里帆が上である。そのことを部員はちゃんと理解している。
それでも、精神的主柱と音楽を引っ張っていくバンドリーダーが同一人物であったことが、去年の宝塚南の強さの根源であったことは認めざるを得ない。
里帆が選曲を悩み、瞳に僅かな不安を抱いているのは、そういった自分に掛かるプレッシャーを明確に理解しているからなのかもしれない。
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