「みんな集合してー」
里帆が手を叩いて、舞台袖に通じている仮設テントで部員を集めた。里帆を中心に輪が出来る。もちろん舞台への動線でもあるのでなるだけ小さく。舞台からは吹奏楽部の演奏が聞こえてきていた。
「まもなく本番です。一年生のみんなは高校に入って初めての舞台やと思いますが、緊張していますか?」
「緊張してます!」
里帆の問いかけたのは七海だった。「なんであんたが答えんの!」とめぐが肘で七海を小突く。「大丈夫やでー」と杏奈が優しく頭を撫でた。
後輩たちを含めて笑いが起きて、朗らかな空気が流れた。里帆はくすりと笑みを一瞬だけ浮かべて、真面目な面差しで部員たちを睥睨する。
「緊張するのは、これまでしてきた練習の見返りを期待しているのと、舞台を大切に思っているから。だから不安やプレッシャーを感じたりしても大丈夫。それは練習をしてきた証拠やから」
息を飲むような後輩たちの頷きを見て、里帆は言葉を続ける。
「まだ先にも思える秋の大会は、ここから始まってると言っても過言ではありません。目標は最優秀賞! これから私達が立つ舞台の一つ一つは、JSJFへの通過点となっていきます。だから、今日も精一杯の音楽をお客さんに届けましょう。それに、」
すっと里帆は手を前に出す。胸に掛かったサックスのストラップが揺れた。
「今回ビッグバンドに選ばれなかった部員も含めて、秋の大会をともに目指す仲間です。全員で今日のステージを成功させましょう」
「はい」
カメラを持つ、つぐみやすみれの手が重なったのを確認して、「それじゃ掛け声いきます!」と里帆がステージの邪魔にならない程度に声を張る。
「今日も素敵で楽しいステージを……! 宝塚南!」
「おぉ!」
少しだけ控えめな声が熱気のこもるテントの中に響いた。
*
拍手に送られ、ステージから他校の吹奏楽部員が続々と降りてくる。西宮にある女子校の三年生部員らしい。「お疲れ様」と爽やかな笑顔を送られて、「お疲れ様です」とみなこも緊張でほんの少し強ばった笑顔を返した。
「続きまして、兵庫県立宝塚南高校ジャズ研究会の皆さんの演奏です」
司会の女性に呼び込まれて、まずはコンボのメンバーが先に出ていく。里帆は佳奈にコンボの選抜を譲っているため、袖から舞台へ上がる部員を送り出す形となった。ステージへと上がっていく部員一人一人に部長として励ましの声を掛けていたけど、大樹にだけはなぜか弱々しい拳が入っていた。
部員がステージに並ぶと、まばらな拍手が送られた。拍手がまばらなのは、お客さんが少ないわけじゃなく、ステージの前方が花壇になっているせいだ。お客さんのほとんどは、屋台の並ぶ通路の脇に設置されたスペースから舞台を眺めてくれている。
送られる拍手に統一感が生まれたのは、大樹がお辞儀をしてからだった。
「宝塚南高校ジャズ研究会です。本日はどうぞ僕らの演奏を楽しんでいってください」
学生や社会人まで、多くの出演者が出演するこのイベントは、一団体に与えられた時間はほんのわずかしかなく、挨拶は手短だ。里帆の代役ではあるものの副部長として、しっかりとした挨拶を済ませて、すぐに演奏に入った。
今年のコンボ曲は、リチャード・ロジャース作曲の『My Favorite Things』。見れば京都に行きたくなるCMでも耳にするこの曲は、1950年代にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の曲としても書き下ろされ、スタンダードナンバーに定着した。
冒頭の印象的なピアノのフレーズを七海のシンバルが追いかける。ソフトなタッチのシンバルガードに合わせて、佳奈のサックスが細やかなタンギングを刻んだ。
映画では子どもたちが雷に怯えるシーンで歌われるものだが、今日の空は清々しいほど晴れやかだった。舞台袖から見える青色の空に、ムーディなめぐのピアノが抜けていく。
この曲を引っ張るのは、ピアノとドラムとサックス。大樹のギターも桃菜のトロンボーンもこの曲では裏方に回っている。繰り返されるピアノのリフレインとサックスのソロ。二人の掛け合いが、ヒートアップし過ぎない心地のよいリズムで繰り広げられ、会場を吹き抜けていく少し湿っぽい空気も、アメリカの乾いた爽やかな風に変わった気がした。
後半はすっかり佳奈のリサイタルのような空気感になっていった。きっと陽葵に見られているという気負いがあり、それが良い方向に働いたらしい。やる気と己の好きを全面に出したアドリブにバンドは柔軟に対応する。みなこの立っている位置からは陽葵の姿は見えないが、必ずステージから見える位置で聴いているはずだ。明梨がいるのなら、最前列に陣取っている可能性もある。
演奏の終了と同時に盛大な拍手が送られた。始まった頃の拍手と比べて拍手のボリュームが上がっているのは、佳奈とめぐの演奏で観客が増えたせいだろう。
「ほら、私たちの出番やで」
里帆が袖にいた部員に声を掛け、ステージへ一歩踏み出した。先程までステージの演奏を優しい表情で見守っていた彼女の瞳の色は、その瞬間にパッと真剣なものに切り替わる。
部長としての彼女から演奏者の彼女へと、ボタン一つで切り替えられる器用さを彼女は持っていた。冷静に周りを見る力とプレイヤーとして演奏に集中する二つの顔は、大きくかけ離れていて、コントロールするのはとても難しい。
それは里帆らしさなのだろうか。それとも知子やみちるもそうだったのだろうか。去年の先輩の姿が脳裏を過る。けど、二人からそういった印象は受けない。
里帆からそういう器用さを感じるのは、去年よりも先輩たちとの距離が近くなったからかもしれない。みなこの追いかける小さいはずの背中は、随分と大きな背中に思えた。
新たな部員の登壇に、会場からさらに拍手が起きた。声援に答えるように里帆が深いお辞儀をして、ステージの上の部員を睥睨する。
「ワン、ツー、ワンツースリー」
指でリズムを付けて、里帆がカウントを出した。それに合わせて、佳奈のサックスが静かなメロディを紡ぐ。
『私は虹の麓を探さない』
ビックバンドの曲でありながら、派手にスイングするわけでも、猛烈なスピードで音符が乱れ飛ぶわけでもなく、この曲は終始、静かなメロディが続く。クラシックや吹奏楽の曲に近いものがあるかもしれない。心の深い部分を、透明な硝子越しに覗き込むような繊細な表現がこの曲の魅力だ。
派手さのない演奏でプレイヤーの腕を見せるのは至難の技だ。誰でも分かるような圧倒的な超絶技巧の曲や、力強さを求められる曲であれば、聞き手側も直感的にその凄さを感じ取ることが出来るのに対し、シンプルで音量を求められない曲では、力や勢いでは誤魔化せない本物の技術が求められる。
伸びやかなサックスを追うようにして、桃菜のトロンボーンが加わった。二小節ごとの掛け合いの中で曲はゆっくりと表情を変えていく。とぼとぼと歩きながら、雨に濡れた街の景色を眺めているような変化は、穏やかさから切なさへの変化。青空から降り注ぐ煌めは、優しい七海のシンバルだ。
目を瞑って浮かんでくる景色はとても鮮やかなのに、佳奈と桃菜の掛け合いは少しだけ悲しみを含んでいる。それは曲の背景を二人がよく理解しているからだろう。作曲者がどういう思いで虹の掛かる街を曲にしたのか。その情景をよく感じ取っている。
中盤に入って、ようやくみなこに出番が回ってきた。柔らかいタッチで紡ぐアルペジオ。奏のウッドベースに寄り添われ、前半でサックスが奏でていたメロディを踏襲したトランペットと共に始めの盛り上がりを築き上げていく。
みなこのギターが織りなすのは、柔らかさを全面に出したアドナインスの応酬。あまりジャズでは見かけないコード進行だけど、J-popや映画の劇中歌なども手掛ける作曲者ならではなのだろう。少しレイド気味の航平のトランペットにみなこはしっかりと合わせた。
終盤に差し掛かる直前、里帆のサックスと美帆のトランペットがこの曲内でずっと繰り返されるリフを奏でる。双子とあって息はピッタリ。仙台の澄んだ空を思い起こさせる濁り無い音が、宝塚の晴れ渡る五月の空へと消えて、曲は一気に終盤へと突入していく。
いつもなら、ここぞというこの場面で、感情がむき出しの桃奈のトロンボーン登場するところだが、全体の演奏に合わせてか、今回は少々押さえ気味だった。もう少し虹の掛かった空を見上げる喜びと希望を表現する情熱が欲しいところではあるのだけど。この曲に決まって、ひと月足らずでは過度な期待なのかもしれない。それだけのものを聞かせてくれる実力が彼女にはあるはずだが。
この場でこの曲をチョイスしているのは、大会に向けた準備という意味も含まれている。だから、大会の本番までには、桃菜はしっかりとこの曲と向き合い、彼女なりの答えを見つけ出してくれるはずだ。
演奏の終了と同時に大きな拍手が送られた。本番中は意識しないようにしていたが、曲席を見渡せば、下手側の最前列に陽葵たちの姿が見えた。明梨がこちらに手を振っていたけど、みなこは気が付かないふりをする。
「おつかれ様っす!」
足早に舞台袖に帰ると、少々興奮気味のつぐみが鼻息を荒らく近づいてきた。「ちゃんとみなこ先輩を動画に収めましたよ!」とスマホの画面をこちらにかざす。画面いっぱいには、ギターを弾くみなこが映っていた。
「私だけをアップに撮ったらあかんやん」
「これは動画の切り抜きですから安心してください。動画はちゃんと定点で撮影したっす! ラインで送りますね」
言われてみれば、つぐみが差し出してきた画面の画質は荒かった。「待受にしてくださいね」と屈託のない笑みを向けられて「するわけないやん」と、みなこはムッとした表情で返す。
冗談を言ってくれるのは、自分たちの演奏に興奮してくれたからだろうか。それとも、距離感がちゃんと縮まって来ているからだろうか。どちらもならいいな、とみなこは思った。
照れている顔を見られたくなくて、つぐみから顔をそらせば、うっかり背中で誰かとぶつかってしまった。他の学校の生徒かスタッフの方かもしれない、とすぐにみなこは振り返る。
「あ、すみません」
細い体躯がすっと視界の隅を通り過ぎた。そのまま、みなこの謝罪を置き去りにして、桃菜がテントの裏へ消えていく。
どうしたのだろう、と振り返れば、佳乃が不安そうな表情で、出口の方をじっと見つめていた。
「笠原先輩、大丈夫っすかね? 顔色悪そうでしたけど?」
ステージでも心なしか元気が無かった気がする。気温も随分上がっているので、ただの体調不良ならいいのだが。けど、妙な引っ掛かりがあるのはどうしてだろうか。みなこの胸に落ちた不安の影は、「はーい。急いで撤収するよー」という明るい里帆の声にかき消された。
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