ブルーノート

~宝塚南高校ジャズ研究会~
伊勢祐里
伊勢祐里

二幕5話「体育館」

公開日時: 2020年11月18日(水) 20:30
文字数:3,711

 野球部の掛け声と金属バットがボールを弾く乾いた音が夕暮れのグラウンドに響いていた。里帆に連れて来られたのは体育館だが、グラウンドに面した通路側。決して裏などではなかった。彼女は女子更衣室前のコンクリートの階段に腰掛ける。


「ごめんな変な呼び出し方して」


「いえ、冗談だってみんな分かってると思いますよ」


「それなら良かったわ」


 小さな溜息をこぼして、里帆はギュッと膝を抱えた。


「杏奈先輩のことですか?」


「やっぱりあん時、話聞いてたんや」


 里帆の口元がわずかに緩んだ。自供してしまった、とみなこは口元を手で抑える。


「てっきり杏奈先輩に聞いたのかと」


「……杏奈とも話したん?」


「はい。今朝、少しだけ。偶然、杏奈先輩と二人きりになって『あの時の話し聞いてたやろ?』って」


「そっか」


 立ちっぱなしだったみなこに、里帆は自分の隣をポンポンと叩いた。「座って」という無言のメッセージにみなこは彼女の隣に腰掛ける。


 グラウンドの高いネットの向こうで夕陽が沈んでいく。遥か彼方まで続く真っ白い雲が、大阪平野を飲み込んでしまおうとしているみたいだった。


「どこから聞いてたん?」


 里帆の優しい声を聞いて、みなこの喉の筋肉がこわばった。飲み込みづらさを感じながら、唾を飲み込む。


「退部するしないとか……そういう曖昧な話しか聞いていないです。正直、どうしてあんな話になってるのかも分からなくて」


 正直に聞いたことを話した。だけど、「杏奈先輩が退部するのは奏が原因ですか?」そんなことは思っていても口に出せなかった。


「……ごめんな。一年やのに変な気を使わせて。せっかく夏休みで練習時間もたっぷりあるのに集中できんよな」


「そんなことはないですけど……」


 明らかに嘘だと分かる言い回しだ、と自分でも思った。申し訳無さそうにしている里帆の顔を見るのが辛くて、みなこは視線を落とす。コンクリートのヒビの中で一匹の蟻が餌を抱えてもがいていた。


「清瀬ちゃんは嘘がつけんタイプやな」


「ごめんなさい」


「謝らんでええから。そもそも部屋ですれば良かった話をロビーでしてた私らが悪いんやし、」


 乾いた笑みをこぼして、里帆は身体を前に倒した。そのまま膝を抱えて、首だけをこちらに向ける。


「本当は、そんなことを確認するために呼び出したんじゃないんやけどさ」


「違うんですか?」


 咎められるわけではないと思ったが、あの時のことは忘れて欲しいと頼まれるとばかり思っていた。あなたには関係のないことだから、と。


「だって、この件は忘れて、って言っても忘れられへんやろ?」


「そうですけど」


「それに、清瀬ちゃん、こういう話を聞いたらほっとかれんタイプでもあるみたいやし」


「どうなんでしょうか」


 首をかしげたみなこに、里帆は身体を起こすと、手を重ねて腕を頭の上に伸ばした。キラキラとした夕陽が袖口から覗く彼女の細い腕を照らす。


「井垣ちゃんとのこと知ってるで」


 佳奈とのこと? と、みなこが不思議そうな顔をすると「春先に大西ちゃんと」と言って里帆はニッコリと笑みを浮かべた。


「なんで知ってるんですか?」


 驚いた勢いで、みなこは立ち上がってしまう。七海と佳奈の揉め事は、先輩に迷惑をかけて大事にしてはいけない、とみなこが暗躍して解決した。だから、他にはバレていないと思っていたのに。


「井垣ちゃんとはセクション一緒やし。しばらく様子がおかしいんは気づいてた。別に井垣ちゃんがべらべらしゃべったわけじゃないで。それとなく話を聞いてれば、清瀬ちゃんたちとの接し方が変わったんは分かった。確信は、今の清瀬ちゃんの反応がすべてやけどな」


 結局はまた自分の自供だったらしい。みなこはまた口元を抑えながら、再び里帆の隣に戻る。


「どこまで知ってるんですか?」


「立場が逆転しちゃったな」


 そう言って、里帆はクスリと笑みを浮かべた。それから言葉を続ける。


「大西ちゃんとの関係があんまりうまくいってないのは、練習中に見てれば分かった。会議でも井垣ちゃんの話題は上がってたし」


 里帆の話す会議とは、部長と副部長、そこに二年生の学年リーダーと書記を加えた四人が部内の問題や今後の方針について話し合うもので、月に一回程度開かれている。まさか、佳奈がそこで議題になっていたとは。


「佳奈のこと話してたんですか」


「一年生は入学してきたばっかりで、人間関係とか問題になりやすいから。そこらへんは注視してたし、私らもそれなりに神経使ってたんやで。井垣ちゃんは、実力で勝ち取ったソロを嫌がったり、ちょっと難しい感じやったし」


 里帆は二つ結びにした髪の片方を指でなでながら、小さく息を吐いた。髪は緑色のゴムで縛られている。


「そうだったんですね」


「下手にかき乱すわけにもいかんから、様子を見ててんけど、気づいたら仲良くなってた。きっと清瀬ちゃんやろ? あ、詮索はしてへんで。井垣ちゃんに『清瀬ちゃんとは仲ええの?』って訊ねただけやから。合宿の部屋割りのための聞き取り調査って名目でな。半分は本当で、だから二人を一緒の部屋にしたんやけど」


「あー……」


 割り当てられた合宿の部屋。道理で佳奈と同じだったわけだ。三年生との人数の兼ね合いだとか、仲の良い人同士でだとか、「気を使ってくれているんじゃないか」、なんて考えは当たっていたらしい。


「それに、他の子との接し方を見てれば分かるよ。あの子が清瀬ちゃんを特別視してること」


「……特別視って何なんです?」


「んー、なんというか。井垣ちゃんって人と話すのが不得意そうやん? それやのに、清瀬ちゃんには懐いてるっていうか。きっと、手懐けたんやろなぁって」


「手懐けですか……」


「心を開いたともいうかな」


「そういう言い回しをされると否定できませんけど」


 佳奈の気持ちの変化のきっかけは間違いなく自分だ。人の心境に変化を与えた。今になってみなこは、それがすごく恐ろしいことに感じている。


「そこでここからが本題。うっかり私たちの話を聞いてしまった清瀬ちゃんにお願いがあるんやけど」


 里帆の双眸が細くなる。頬の筋肉を持ち上げて、柔らかい科を作った。


「なんですか……?」


「杏奈と話をしてあげて欲しい」


「話ですか?」


 あまりに漠然としたお願いに、みなこは少し戸惑った。力の抜けた肩からギターケースがずれ落ちそうになる。


「どうして辞めようとしてるのか。本音を聞き出して欲しいなんて言うと大袈裟やろ? だから、清瀬ちゃんが思うところまででいい。杏奈の心に踏み込んでくれると助かる。井垣ちゃんの時みたいに。もちろん、無理にとは言わへんよ。そもそも清瀬ちゃんには関係のない話やから」


 里帆の提案は、立ち聴きをしてしまったことに対する報いの提示のようにも思えた。聞いてしまったことに罪はない。だけど、気にしているなら手を出す機会を与えるから、あなたの気の済むようにしていいよ。それに、この件に目をつむっても耳を塞いでも、私は責めたりしない。そんなメッセージが込められている気がした。


「里帆先輩も杏奈先輩がどうして辞めようとしているのか知らないんですか?」


「一応、杏奈から理由は聞いてる。けど、それが本音とは限らんやろ」


「その理由って?」


「私からは話すべきじゃないと思う」


 それはその通りだ。ここで里帆から理由を聞いてしまえば、もう後には引き下がれない。あーそういうワケがあったんですね。なんて言って、知らない顔をするほど、自分は無神経ではないのだ。里帆はそこまでちゃんと分かっている。


 それでも、脳内には奏のことがちらついた。本当に自分は関係ないのだろうか? そんな自問自答は、杏奈が辞める理由を知りたがっている。同時に、佳奈の心境を変化させたという恐怖心が、「また同じことを繰り返すのか?」と煽ってくる。心の中でその恐怖心と好奇心が競り合っていた。


「本当に私が杏奈先輩の内情に踏み込んでもいいんですか? 里帆先輩が話した方が……」


「あの子は頑固なところがあるから。私がいくら言っても肩透かしで響いてへんねん。でも、後輩である清瀬ちゃんがぶつかってくれたら、なんか変わるんちゃうかなって」


「どうでしょうか」


「それに、なんとなく清瀬ちゃんは、そういう役回りな気がするで」


「どういう役回りですか……」


「人と正面から向き合う役割? 端的に言うと相談役? バランサー?」


「それってかなりきついポジションですよね……」


「適正があるんやから仕方ないなぁ。まぁ今回は上級生の問題。どうするかは清瀬ちゃんに任せるで」


 里帆は、立ち上がりスカートを払った。細かな砂埃が湿った夏の風に舞う。同時にグラウンドの照明が灯り、足元に無数の影が伸びた。何重にも重なった里帆の影が、数段しかないグランドへ繋がる階段を降りていく。


「でも、来年になったら清瀬ちゃんも先輩やから」


 里帆はどういう意図でそんな言葉を言ったのだろう。確かに、自分は来年先輩になる。それと杏奈と奏の件に繋がりがあるようには思えなかった。


 みなこは里帆の方へ視線を向けたが、薄暗くなり影が落ちた彼女の表情を読み取ることは出来ない。野球部の声はまだ響いていた。


「少しだけ考えてみます」


 あくまで先延ばし。悪い癖だ。だけど、それが今のみなこに出せる最大の答えだった。


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