ブルーノート

~宝塚南高校ジャズ研究会~
伊勢祐里
伊勢祐里

四幕8話「緊張しない方法」

公開日時: 2020年10月29日(木) 20:30
文字数:2,648

 始めは五人しかいなかった部室には、一時間もしないうちに全部員が集まっていた。コンボのオーディションもあることも相まって、みんな個人練習に余念がない。今日ばかりは、大樹も自身の練習に集中していた。


 みなこはビッグバンドのオーディションに受かるため、『Little Brown Jug』を黙々と練習し続ける。先程の廊下でのやり取りが、周りの楽器の音をかき消して、みなこをより集中させてくれた。


「はーい、注目」


 知子が手を打つと、皆が手を止める。集中していたのに、知子の声には反応してしまうのは不思議だ。音に満たされていた部室は静かになり、知子の声だけが響いた。


「それじゃ、そろそろオーディションの準備を始めます。部員は一旦、空き教室に移動してください。三十分ほどしてから、セクションごとに呼びに行きます」


「はい」


 ぞろぞろと部室を出た部員たちは、揃って一つ下の階にある空き教室へと向かう。春先のビッグバンドのオーディションの時のように、全員で小スタジオに入るには少々狭いからだ。


 空き教室では、なんとなく学年ごとに分かれて座った。一年生は廊下側、三年生が窓際だ。誰もがソワソワとしている様子の中、沖田姉妹だけは違った。


「えー絶対チョコの方が美味しいって」


「いやいや、抹茶のがええって」


「抹茶? 美帆、あんたそんな上品ちゃうやろ」


「抹茶が上品って認識あるなら、チョコがお子様っぽいって自覚もおありで?」


「姉に向かってお子様ってどういうことかなー」


 言い合いをしている割に喧嘩しているようには見えないのは不思議だ。本質的に仲が良いからなのか。緊張感のない様子が、オーディション前に良いリラックス効果を与えてくれた。


「何の話をしてるんですかー?」


 その間に、七海が割って入る。それもみなこが座っている席をまたいでの乱入だ。髪をポニーテールにした二人の頭が同時にこちらを向いた。その勢いのまま、これまた二人同時に口を開く。


「宝塚の駅前にこの間新しく出来たアイス屋さん」


「あー、花のみちのところですね!」


「お、行ったことあるん? 大西ちゃんはどれが好み?」


「私はチョコミントですかね!」


「あーチョコミントか……」


「私もミントがちょっと……」


「なんでですか美味しいですよ!」


 沖田姉妹の顔が曇る。「今度、イベントの日におごりますから食べてください!」という七海に、二人は大きくかぶりを振った。七海の話を聞いているだけで、口の中にもミントの香りが広がる気がした。好んで食べる七海の前では大きな声で言えないが、みなこもチョコミントは苦手だったりする。ちなみに、『花のみち』は阪急宝塚の駅前から宝塚歌劇団の大劇場まで続く小路のことだ。


「お二人はあまり緊張されてないですね」


 そう言ったみなこに対し、二人は表情を明るくした。美帆の方が可愛らしく小首をかしげる。


「清瀬ちゃんもあんまり緊張してるように見えへんけど?」


 お二人のおかげですよ、と喉元まで出掛けた言葉飲み込む。危うく失礼なことを言ってしまうところだった。それくらい二人のおかげで緊張が和らいでいる証拠なのだけど。「そんなことないですよ」、とかわりに当たり障りのない笑みを返せば、里帆の方が言葉を続けた。


「私らも、全く緊張してないわけちゃうけど、緊張し過ぎたら結果は出んからなー。二人でこうやって話してると緊張がほぐれる。本番前は誰でも絶対に緊張するものやから、自分のメンタルをコントロールするのが大切やねん。大西ちゃんはこの間の本番で結構緊張してたみたいやけど、自分なりのリラックス出来る方法を見つけるとええかも」


「なるほどです、実践してみます!」


 二人のやり取りは意図的なものだったらしい。本番前に自分の精神状態を普段通りに持っていく。確かに重要なことだと思った。周りを見渡せば、本を読んだり音楽を聴いたり、部員たちはそれぞれのやり方で集中を高めていた。


「そうや、『Rain Lilly』についてちょっと調べて来たで」


 そう言って喉を鳴らしたのは美帆だった。先を越されたと言いたげに、里帆の眉根に皺が寄る。


「私もこの間のイベントの前に調べましたよ」


「なんや、清瀬ちゃんも調べてたんか」


「いえ、でもせっかくなんで聞かせてください」


 どうも解説するのが二人の楽しみらしい。その楽しみを奪うのはとても申し訳ない。それに七海はきっと調べてないはずだ。みなこの予想通り「私は知らないので、聞きたいです!」と七海がハキハキとした声で返した。


「と言っても、あんまり情報は出てこんかってんな。まず、作曲者の漆崎真由美さんは宝塚出身のサックス奏者。関西を中心に活躍されたらしい。みちる先輩は、そういう縁もあってこの曲を選んだんかもな」


「曲が発表されたんは、今から十五年くらい前。漆崎さんの最初で最後のアルバムに収録されてた曲や」


「最後ですか?」と七海が尋ねた。それに里帆が返す。


「うん。曲を発表してすぐに、病気で亡くなりはったらしい。まだまだ若くて、将来はジャズシーンの中心となりうる存在として期待されてたらしいんやけど」


「やから、あんまりネットに詳細が載ってないねん。ウェブニュースで出てきたんもアルバム発表時のインタビュー記事がいくつか」


 美帆がスマートフォンの画面をこちらに見せてきた。ウェブページは、若手のジャズミュージシャンを特集する記事だった。


「綺麗な人ですね」


 記事には、藍色のドレスに身を包んだ綺麗な女性の写真が添えられていた。柔らかい色をした瞳からは、穏やかな彼女の性格が感じ取れた。


「生きてはったら、もっとたくさんの曲を残してはったんやろな……」


 少しだけしんみりとした空気が流れた。彼女はどんな思いをあの曲に込めたのだろう。何人ものミュージシャンを紹介していたウェブの記事には、曲の詳細までは載っていなかった。彼女の思いは、もうあの曲の中にしか存在しないのだ。


 そこで教室の扉が開いた。入って来たのはみちるだ。


「それじゃ、オーディションはじめるね。まずはトランペットから」


 みちるの呼びかけに、美帆が立ちあがった。みなこの後ろの席にいた航平も同じタイミングで席を立つ。随分と緊張しているらしい。みなこは「頑張って」と彼に声をかけた。


「お、おう」


 少しだけ航平の声は震えていた。緊張は自分への期待の現れだ。受かるかもしれない。そう思えるだけの練習をしてきたからこそ緊張をするはずなのだ。


 教室を出ていく航平の背中を見送る。一時間もしないうちに、自分の番が回ってくるはずだ。みなこは、ふっと軽く息を吐いた。

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