ブルーノート

~宝塚南高校ジャズ研究会~
伊勢祐里
伊勢祐里

二幕8話「水着」

公開日時: 2020年11月21日(土) 20:30
文字数:4,952

「赤がええかなー、オレンジがええかなー」


「赤は派手過ぎちゃう?」


 水着を交互に、身体に当てる七海にめぐの首がコクリと傾く。


「そう? うちには似合ってると思うけど?」


「なら、それにしいや」


 お盆休みも後半、残り二日となり、みなこたちは約束通り、プールに行くための水着を買いに西宮にあるショッピングモールへと来ていた。阪急西宮北口にしのみやきたぐち駅から直結しているこのショッピングモールは、十年ほど前に出来たもので、百貨店や映画館も入っているかなり大きな規模の商業施設だ。


 京都もそうだったが、お盆休みのせいでどこもかしこも人でいっぱい。広い施設内を歩いているだけで、人波に体力をそがれそうになる。


「みなこはどっちがええと思う?」


「どっちでもええんちゃう」


「ひどい! うちにもっと興味もってよ!」


 両手に水着を抱えたまま、泣き真似をする七海を他所に、みなこはずっと静かな奏のことを気にかけていた。

 

 奏が浮かない顔をしているのは杏奈のことだろう。せっかく相談をしてくれたのに不甲斐ない。めぐと七海のそばでニコニコはしているが、その表情の奥にある曇りのようなものをみなこは感じざるを得なかった。


「みなこはこれとか似合うんちゃう?」


 そう言って佳奈に手渡された水着は、かなり際どいデザインのものだった。本気か冗談か、佳奈の顔を見てみるがどっちか分からない。「ちょっと恥ずかしいかなー」と言うと、


「おませさんには、これくらいがええんかなって思った」と佳奈は口端を釣り上げた。


 どうも合宿の時と同じで航平とのことを言っているらしい。冗談だと分かり、みなこは水着を佳奈に突き返す。


「それなら佳奈が着ればええやん」


「似合うかな?」


「似合うんじゃない? スタイルもええし」


 水着を身体に当てて、「うーん」と佳奈が喉を鳴らす。似合うと言ったのは嘘ではないけど、真に受けられては困る。


「試しに着てみようかな」


「え、本気でそれにするん?」

 

「駄目?」


「駄目ちゃうけど」


 一緒にいるこっちが恥ずかしくなってしまいそうだ。少なくとも注目の的になることは間違いない。他人に見られているということを佳奈は意識していないのだろうか。「ええやん、井垣さんに似合いそう」とめぐが横から口を挟んできた。


「めぐ、そそのかしたらあかんで」


「別にそそのかしてないけど? 似合うと思ってるのは本当」


「そりゃ、似合うかもしれんけどさ……。めぐは決めたん?」


「うーん。私はまだ決めかねてる」


 めぐの近くには何着も水着が並べられていた。デザインは決まっているようだが、色を決めかねているらしい。オフショルダーの可愛らしいデザインのものだ。めぐが悩んでいるのを見て、佳奈は「試着してくる」と言って、奥へと消えて行った。


「奏も井垣さんが持ってたやつみたいなのがええんちゃう?」


 めぐの提案に頬を赤らめた奏が首を横に振る。


「恥ずかしいよ。井垣さんみたいにスタイルがよければかっこいいだろうけど」


「奏だってスタイルええやん。私らの中なら一番背高いし」


「背だけじゃなくて、ほら」


 そう言って、奏は自分の胸の辺りに手を当てた。佳奈との差は歴然だ。奏だって小さいわけじゃないけど。


「そんなこと言ってー、試着くらいしてみたらー?」


 悪戯に口端を釣り上げためぐに、奏がぷくっとほっぺを膨れさせる。


「もう! 私は自分で選ぶから!」


 めぐからそっぽを向いて、奏は水着を漁りだす。やりすぎたかな、と言いたげにめぐは眦を下げたが、奏の表情は明るかった。ようやく元気が戻って来たらしい。こうやってみんなで遊んでいる時くらい気を紛らわせてくれたら。一時的なもので何も解決にはならないだろうけど。


 さて自分も水着を探そうかな、と辺りを物色し始めると、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえてきた。試着室から顔を覗かせた佳奈が、恥ずかしそうにこちらを手招いている。


 それに近づき、みなこは首を傾げた。


「何で隠れてるん?」


「だって恥ずかしいやん」


 思えば、合宿の時もこれに近しいやり取りがあった気がする。威勢は良いくせに、最後は恥ずかしがる。佳奈はそういうタイプだ。



 *


 ずらっと並ぶ長い列の先を、七海が背伸びをして覗き込む。人でごった返したフードコートの端に出来たこの列は、人気のハンバーガーショップに続くものだ。


「人、多っ!」


「丁度、お昼やからなあ。タイミングよく席が空いただけ奇跡やろ」


「そうかもしれんけどさー。あぁ、お腹空いたー」


 七海がお腹を擦れば、ちらっと可愛らしいおへそが覗く。遠くに見えるメニュー表を見つめながら、「佳奈は、ベーコンのやつやっけ?」と七海は視線をこちらに向けた。


「うん。チーズ入りのやつやって」


 各々で選んだ水着を購入したあと、昼食を取ることになった。奏とめぐはオムライスを買いに、佳奈は席を確保してくれている。ちなみに、めぐと七海が褒めっちぎった末、佳奈はあの水着を購入した。相当恥ずかしそうにしていたけど。はじめは本人も乗り気だったのだ。明日も佳奈の恥ずかしがるところを見られるかもしれない。


「みなこは何食べるん?」


「結構ボリュームありそうやから普通のハンバーガーでええかな」


「へー。うちはあの一番おっきいのが食べたい!」


 それはご自由にどうぞ。七海が言う一番大きいやつとは、バンズとパティが何層にも重ねられているやつだ。店頭に並んだ写真には、肉の間から美味しそうにチーズがたれている。別の人が注文しているのを見たが、みなこでは食べ切れなさそうな量だった。


「でもやっぱり、明日のプールもあるしお小遣い節約やな……」


 お小遣いを気にしなければ食べていたという七海の食い意地には感心する。とはいえ、みなこだって余裕があるわけではない。明日のためにも、余計な出費をしないように財布の紐はしっかり締めておかなくてはいけない。


 ゆっくりと列が進む中、「それよりさ」と七海が目元にかかるくらいまで伸びた髪を指先で弾きながら呟いた。


「なに?」


「今日の奏ってちょっと元気なくない?」


「そ、そうかな」普段は何も気づかないくせに、とみなこは心の中でごちる。


「なんか困ってることあるんかも?」


 七海の中では、合宿の時に奏が持ちかけてきた相談はすっかり忘れてしまっているらしい。悩むほどのことではないという認識なのかもしれないけど。「いつも通りちゃうかな」とみなこの下手なごまかしに七海は鼻息を荒くする。


「困ってるなら解決してあげたい! 奏に聞いてみようかな?」


「だめ!」


 つい言葉が強くなってしまう。それは七海の性格を知っているからだ。後先を考えずに突き進む七海はこういう問題に首を突っ込むべきじゃない。事態を悪化させてしまうことは容易に想像がつく。少なくとも杏奈の話も聴いてしまっている以上、この問題は上級生にも関わってくるものなのだ。大事にはしたくない。それは春先から一貫しているみなこの考えだった。


 だけど、善意である七海の発言を否定してしまったことは、正しい行いだったんだろうか。瞬時に襲ってきた後悔に、みなこの作り笑いはとても硬いものになった。

 

「ほら、間違ってたら奏ちゃんも気を悪くするんちゃうかなって」


「まぁそうかもしれんけど」


 七海は不服そうに唇を尖らせる。奏を心配する気持ちは痛いくらいに分かる。けど、七海は大人しくしていて、と心の中で呟いた。少しだけひどい気もしたが、きっと七海には別のアプローチがあるはずなのだ。今のみなこには、それがどんなことなのか分からないけど。


 少しだけ考えて、「うちの気のせいかな」と渋々納得したようで、くるっと踵を返し正面を向いた。それからすぐ七海が声を上げる。


「あれ、奇遇ですね!」


 蛇行する列の折返しのところで、見知った顔と鉢合わせた。


「あれ、清瀬ちゃんやんー」


 明るく声を出し、杏奈が手を広げる。その隣では、里帆が驚いた表情を浮かべていた。まさかこんなところで会うなんて、という反応だ。みなこたちは少しだけ遠出をして来たが、もしかすると二人は地元なのかもしれない。


「おはようございます」


「清瀬ちゃんは真面目やなー」


 はは、っと笑みを浮かべる杏奈に対し、「おはよう」と里帆が返してくれた。偶然、会った先輩に七海のテンションがぐっと上がる。


「どうしてここにいるんですか!」


「良い質問だね! 今日はせっかくの休みだから洋服を買いに来たのです!」


「おぉ!」


 手を打つ七海に、里帆が呆れた様子で頬をかく。杏奈は七海のリアクションにケラケラと声を出した。


「先輩方もお昼ですか?」


「うん。美味しそうなお肉の香りに里帆がやられて」


「私ちゃうやろ」


 里帆が杏奈の脇を肘で小突いた。どうやら、ハンバーガーを希望したのは杏奈だったらしい。


「せっかく会えたんですし、一緒に食べましょうよ!」


「いやええよ。気使うやろ?」


 里帆の返しに「そんなことないですぅー」と七海は甘えた声を出した。先輩と食事をするのに気を使わないのなんて七海くらいだろう。一緒に食べるのが嫌というわけではないが、里帆の判断にみなこは賛成だ。


「それに席は取って貰ってるから」


 そう続けて、里帆は遠くの方の席を指差した。名前を言わない辺り、ジャズ研の部員ではなく、みなこたちの知らないクラスメイトなのかもしれない。


「そうですか」


 七海は残念そうに肩を落とす。「部活のお昼は一緒に食べようね」と杏奈が落ち込む七海に声をかけると、七海の表情はパッと明るくなった。


 ニコニコしている杏奈の視線はこちらに向く。


「二人で遊びに来てるん?」


「いいえ。他の一年生と一緒です」


「一年組は仲いいね。結構、結構」


 満足そうに杏奈は首を縦に振った。筋の通った鼻がヒクリと動く。少しだけ曇った双眸は、一瞬だけフードコートを見渡した。


 みなこの脳内に奏の顔が浮かぶ。杏奈が探したのは奏の姿だろうか。


「杏奈、列、進んでるで」


 動き出した列を見て、里帆が杏奈の肩を押した。「ごめん、ごめん」と杏奈は開いた間隔を詰める。


 連鎖的にみなこたちも一歩前に進む。自然と先輩二人との距離が遠ざかる。文化祭まではもう一ヶ月しかないのだ。休み前の里帆、昨日の奏とのやり取りが、みなこの気持ちを焦らせる。それに七海だって奏を心配しているのだ。それを止めてしまった以上、自分には動かなくてはいけない責任があるんじゃないだろうか。


 怖さと使命感が天秤に掛かる。ぐらぐらと土台が不安定になっているのは、やるべきではないという言い訳のせいだ。使命感なんて身勝手なもので首を突っ込むのはお節介。念頭にあるその考えが足をすくませる。だけど、少なくともこの件に深く関わっている里帆と奏は、そう思っていないんじゃないだろうか。


 春先の佳奈と似た案件だ。だけど、その役割がどうしてまた自分なのか。積極的に動こうとしない自分は、そういう役回りは向いていないはずなのに。けど、四の五の言っている時間はない。


 たとえ、どんな結果になっても、何もしなければ奏は傷ついてしまう。それなら、誤解を解こうと必死になることは間違っていないはず。そう言い聞かせ、離れていく杏奈に声をかけた。


「杏奈先輩」


「どうしたん?」


 里帆と話していた杏奈が驚いた顔を浮かべてこちらを振り向いた。


「話があるんですけど」


 その言葉に反応したのは隣にいる里帆だった。ほんの少し安心したように頬を緩ませる。期待されているのだろうか。それに答えられる自信はないのだけど。


 杏奈の髪がふさっと揺れた。


「今?」


「えーと、今じゃなくてもいいですけど……」


 勇気が出た時に行かなくてはと思い、無計画に踏み込んだせいで特に予定は考えていなかった。杏奈は困ったように眉根にシワを寄せる。


「今日は予定があるし……」


 やんわりと断ろうとした杏奈の袖を里帆がグッと引き寄せた。


「後輩の誘いやろ」


「そうやけどさ……。うーん、それじゃ明後日。休み明けの練習の日にまた朝一番でいいなら」


「お願いします」


 周りに人がいる恥ずかしさのせいで、みなこの下げた頭はそれほど深くなかった。約束をしてしまった。もう逃げ出すわけにはいかない。


「それじゃ、この間くらいの時間にしようか。それなら、他に人もおらんやろうし」


「わかりました」


 どうやって奏のことを聞こうか。そんな明後日の心配よりも、直後に「なんの話?」と訊ねてくるだろう七海への良い言い訳をみなこは必死に考えていた。

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