男の子の歩幅は大きい。あんなに頼りなかったはずなのに。
改札を抜けて歩道へと出ていく竜二の背中を見つめながら、佳乃は蒸し暑さと一緒に肌に絡みつく懐かしさを右の手のひらで振り払った。鳴り響く踏切の音と背後から聞こえる構内放送。静かな住宅街の中の局所的な騒がしさは、世界からぽつりと取り残された感じがして少し寂しい。まるで、「私はここにいるんだ」と見つけてほしくて騒いでいる子どものような気持ちになる。
「どう?」
遅れて改札を出た佳乃がそう声をかけると、黄色と黒の半円状の車止めに手をついて竜二がこちらを振り返った。彼の手元にある二色は、塗装が少しだけ剥げていて、色の輪郭が曖昧になっている。
まるで二人の過去と今のように。
「なにが?」
「部活」
昔は同じくらいだったはずの視線は、今は佳乃が見上げなくちゃいけない。それでも、おぼこさを残す少年のままの面差しが、佳乃の中にある思い出を呼び起こそうと奮起した。思い出すべきではないと分かっていても、力強い過去が頑丈に作ったはずの記憶の障壁をぶち壊す。
脳内に再生された過去の映像。その停止ボタンを探して、イメージの中で指を動かした。簡単にブラウザバックできれば苦労はない。感情の濁流が押し寄せるのを止められないまま、踏切のざわめきは甲高い金管楽器の音へと代わっていった。
「ストップ!」
指揮者の合図でまばらに音が鳴り止む。ロケットが空中分解したみたいに音がバラバラに崩れて、体育館に静寂が訪れた。
「もう一回、今の所やってみようか?」
指先で上品につまむ指揮棒の持ち方は、小学生の佳乃から見ても感じ取れるほど、育ちの良さを滲み出していた。小学校の音楽教師である彼女は、優しい口調と若く綺麗な見た目も相まって、このブラスバンド部の生徒からの人気は高い。佳乃は別の小学校に通っているため、彼女の音楽の授業を直接受けたことはないけど。それでも彼女に統率力というものがないことに気づくのは、週末の練習時間だけで十分だった。
「トランペットの音量をもっと出せるように意識していこうね」
「まじでキモいわ」
全体が漏らしたため息に混じって、指揮者には聞こえないくらいの声で誰かが呟いた。刺々しい言葉は、霰のように鋭さをもって佳乃の鼓膜に突き刺さる。嫌な痛みだ。鼓膜に刺さっているはずなのに、心臓の奥辺りがズキズキと痛む。こんな感情で心の在り処を知りたくはなかった。
「トランペットのあいつのせいやのに、なんで私らまで何度もやらされなあかんの?」
呟いた子の周りがクスクスと笑い声を立てる。その声は指揮者の先生に届いているはずなのに、彼女はいつも見てみないふりをしていた。生徒の前に立ち、指揮棒を振るのが彼女の仕事で、揉め事の解決はその範囲ではないと考えているのかもしれない。ブラスバンドの練習がある土曜日は彼女に取って休日のはずだから。教師としての責任を問うのはいささか酷な話ではある。それともあの胸くそ悪い笑い声を、微笑ましい子どもたちの声だと思っているのだろうか。
「それじゃ、もう一回。ワン、ツー、スリー」
タクトが振り下ろされて、軽快な音が体育館に響いた。佳乃はマウスピースに唇を当てて、息を吹き込む。トロンボーンのスライドを握る手には汗が滲んでいた。嫌な汗だ。ねっとりとした粘り気を持っているのは、誰かの傷を見てみないふりをしている自分を責めているからだ。
曲が進んでいく。先程止まった箇所でまた「ストップ」と声が掛かった。
「ここ少し難しいかな?」
先生の問いかけに、トランペットパートの子たちが同じパートの一人を見つめた。その瞬間、視線が集まる先でがたんと椅子が音を立てる。
「先週もあんだけミスしていたのに練習してこんかったんか?」
誰かがミスをした子の椅子を蹴ったらしい。みんな分かっているのだ。彼の性格は大人しく、言い返したりしてくるような子でない、と。けど、失敗を反省せずに、怠惰な練習を繰り返すような子でないことは分かっていないらしい。
いま思えば、佳乃はあの時、声を上げるべきだった。
けど、あの状況を咎められる空気ではなかった。それが当たり前の日常になってしまっていたから。
はじめは些細な揶揄だった。けれど、やがて色々なことが度を越し始めた。同調圧力は、不満から生じたからかいを、次第にいじめへと発展させていく。その段階を佳乃はこの時、目の当たりにしてしまった。そこからその席が空席になる日が増え始めた。それから徐々にその当たり前は当たり前でなくなっていった。あたかもなかったことのように。彼の椅子が無くなったのはいつからだっただろうか。
綺羅びやかな発車のメロディが回想から佳乃を現実に連れ戻した。蒸し暑さの中で、竜二がこちらを見つめていた。
「……大丈夫」
「そっか」
いつも通りの言葉を、佳乃はいつも通り受け入れる。懐かしさをいつも通りと呼ぶことに違和感を覚えながら。
「東妻もここから歩いて帰るん?」
「うん。一駅だけやし、次を待つよりも早いから」
「遠回りやろ?」
「ほーんの少しだけ」
佳乃の家は鶯の森からも少し離れた場所にあるから、竜二の家の最寄りである滝山駅から歩いてもそれほど差はない。それに、いつもとは違う道を歩くことは嫌じゃなかった。むしろそういう気分だったと言ってもいい。
「この前の喧嘩は大丈夫やったん?」
「喧嘩?」
「ほら、雨宮と灰野のやつ」
「あー、あれはもうすっかり。気にしなくても大丈夫。心配してくれてありがとう」
先に駅舎を出た竜二を追いかけて、佳乃も歩道へと足を踏み入れる。ひび割れたアスファルトから若い芽が身体を伸ばしていた。暗い地中から力強く、太陽を目指す彼らは分かっているのだ。自分の向かうべき場所を、向かうべき方角を。たとえ、どんな場所に根を張ったって。
それなのに、人は自分の向かうべき場所を見失う。根を張った場所を後悔する。いつだってその足で別の場所を目指せるのに。
傾いた陽が駅舎のレンガの僅かなグラデーションを真っ赤に染めていた。踏切の音がやんで蝉の音が聞こえてきた。静かだと思っていた世界に今を流れる音が溢れ出す。
「もう少し休憩してもいいんやと思う」
「無理はしてないから」
強がりにも思える竜二の言葉は、あの頃のような弱々しいものじゃない。自分の中にずっといた過去の竜二と眼の前の彼とのギャップが胸に染み出した懐かしさを寂しさへと変換していく。
「でも、それでもやっぱり」
「うん。けど、本当にも今はもう我慢はしてない。しんどくなったらちゃんと自分のタイミングで立ち止まるから」
「ごめん。おせっかいやったかな」
「そんなことない」
はっきりと頭を振った竜二が、一拍置いて頷いた。垣根の影が駅舎脇の用水路を夜の色へと染めている。思えば、ブラスバンドの練習に向かうために使っていたこの道を、竜二と二人で歩くのは始めてだった。
「それに、」
手は繋げない距離感。けど、他人の距離感じゃないところを歩く竜二が、こちらにちらっと視線をよこす。川西能勢口行きの電車が駅舎に入っていく軽快な音が響いて、竜二は視線を戻しながら言葉を飲み込んだ。
「それに?」
「東妻がいてくれると少し安心する」
「そっか」
「うん」
佳乃は竜二の中学校の三年間を知らない。それは空白の楽譜のように真っ白な時間だ。
佳乃が音楽から離れてサッカー部のマネージャーをしていた間、竜二も全く別の時間を過ごしていた。
明確に分かっていることは過ぎ去った時間は戻らないということ。けど、もしも、なんてことを考えてしまう。
音のない時間、思い出のない時間。白紙の楽譜に二人だけの音を足せていたなら、きっと今ごろ特別な音楽が出来上がっていたのだと思う。その題名は、『恋人』なのか『親友』なのかは分からないけど。
見上げた電線に止まったコウモリが、五線譜にぶら下がる音符に見えた。あるはずのない明るいホ長調のメロディを、佳乃は真っ赤な空に向かって少しだけ恥ずかしげに口ずさんだ。
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