ブルーノート

~宝塚南高校ジャズ研究会~
伊勢祐里
伊勢祐里

一幕6話「OG」

公開日時: 2020年11月4日(水) 20:30
文字数:3,905

 花屋の植木が並んだ細い通路を進んだ先に、腰ほどの高さ地下へ下った入り口があった。川上がその鉄製の扉を遠慮なく開く。中に続いていた廊下はやけに薄暗く、天井は配管がむき出しになっていた。埃っぽい空気に息が詰まりそうになりながら、みなこは臆せず進んで行く先輩たちの背中を追いかける。


「ここが楽屋」


 川上に案内されたのは、二十畳ほどの大きさの楽屋だった。外の廊下の割にと言えば失礼かもしれないが、とても明るく綺麗な楽屋だ。


「先にオーナーに挨拶せなあかんな。ちょっと呼んでくるから準備して待ってて」


 そう言うなり、川上は楽屋から出ていった。みなこは手頃なところに荷物を置き、ギターをソフトケースから取り出す。たいして疲れてもいないだろうに、「疲れたー」と言いながら七海が楽屋の中央に置かれていた赤いソファーに腰を下ろした。


「ライブハウスでの演奏楽しみだね」


 大きな鏡の前に並んだ丸椅子に腰掛けながら、そう呟いた奏の顔にはワクワクと書いてあった。その腕に絡みついためぐが、奏の顔を覗き込み、悪戯っぽく目を細める。


「私が奏の演奏を客席で聞いてあげようか?」


「もー、からかってる顔してる!」


 赤らんだ頬を両手で隠しながら、奏は語気を強めた。迫力なんて微塵もないその表情に、めぐがクスクスと笑いをこらえている。「でもさ、」とみなこはギターを壁に立て掛けながら、二人に向い声をかけた。


「私はライブハウス自体来るの初めてやから、客席でみんなの演奏も聴いてみたいな」


「そういえば、私もライブハウスは来たことないなー。奏は?」


「私もないよ」


 こういう場所に来たことがあるのは佳奈くらいだろうか。話を聞こうと思ったところで、楽屋の扉が開いた。


「おはよう」


 川上と共に入って来たのは、髪の長い女性だった。アイボリーなマキシ丈のスカートの裾からは真っ白なスニーカーが覗いている。落ち着いた印象で綺麗な人だ。歳は川上と同じくらいだろうか。彼女が引き連れて来たのか、どことなく甘いキャラメルの香りが楽屋を漂う。


「おはようございます」


 と部員たちが一斉に返した。それを見て、満足げに彼女は口端を緩める。


「ここのライブハウスのオーナーをやっている横山です。二、三年生の子は一年ぶり。一年生の子たちは、はじめまして。今日から三日間、このライブハウスはあなたたちの貸し切りになります。設備は好きに使ってくれてオッケー。使い方とか基本的なことは恵っちゃんが知ってると思うけど、」


「ゴホッ、ん!」


 川上がわざとらしく空咳と鋭い視線を飛ばした。照れているのか、珍しくその顔は少しだけ赤い。


「あー、設備の機械操作とかは川上先生が知ってると思うけど、もし困ったことがあったら遠慮なく私にも報告して。営業時間内ならカフェの方にいるから。な」


 最後の一文字は、川上に向けられたものだ。「うん」と頷いた川上の仕草には、少しだけ可愛さが混じっていた。恥じらいを隠す為か、川上はまたわざとらしく喉を鳴らす。


「この三日間は、私もしっかり練習に付き合うから覚悟しておくように」


「はい!」


 そう声を揃えた部員たちの返事はいつもよりも硬い。川上を怖がっているのだろうか。入学して早々にも感じた疑問が、再びふと蘇った。入部してから川上のことを恐ろしい教師だとは思ったことがないみなこに取って、先輩たちの反応は不思議で仕方なかった。


 そんなことを考えていると、知子が手を打ち、みんなの注目を集める。


「それじゃ、二、三年は練習の準備を続けてください。一年生はこのライブハウスのことあんまり分からんやろうから、みちるに案内してもらいます。来年、再来年は後輩に教えてあげる立場になるから、みちるの話をよく聞くように」


 *



「それで、ここが練習用のスタジオ。演者用のお手洗いはこの奥にあるけど、個室が一つだけしか無いから、お客さん用の使ってもええよ。貸し切り状態の特権やね」


 みちるに案内されライブハウスの中を一通り見学した。舞台や客席をはじめ、普段は入れないような技術さんのブースまで。終始興奮する七海を、佳奈が冷ややかな目で見ていた。だけど、そこには以前は無かった親しみが込められていた気がする。二人の関係はちょうどいい距離間にあるのだ。


「休憩中やセッションに参加してない時間とかは、ここで練習してくれて大丈夫。それじゃ、なにか質問はある?」


「PAでしたっけ? あーいう調整は誰がするんですか?」


 質問したのは航平だ。みちるは後輩からの疑問を嬉しそうに答えた。


「必要なら川上先生がやってくれるで。さすがに私らは触られんから。でも、生音の楽器が多いジャズではPAにあんまり頼らない方針の人もおるらしいね。大きめの会場でビッグバンドの演奏とかになったら流石に調整しなあかんやろうけど」


 PAは音響機器のことで、たくさんのつまみが付いた複雑そうな機械だ。「放送室!」と七海が元気に叫んでいた。みちるがざっくり説明してくれたが、みなこにはさっぱり分からなかった。


「川上先生って、なんでPAの機械扱えるんですか?」


「学生時代はそういうバイトしてはったらしいよ。大学生の時は、ジャズだけじゃなくロックバンドとかも組んではったみたいやし」


「え、川上先生がロックバンド!」


 意外だと言いたげに、七海が驚いた声を上げた。隣でめぐが同調する。


「というか、やっぱり川上先生も楽器やってはったんですね」


「そうなんやけど、あれみんな知らんかった?」


 みちるが不思議そうに小首を傾げた。川上は部室に顔を出し機会も少なく、みなこたち一年生組は彼女のことを詳しくは知らない。オーディションの時などに、的確なアドバイスをくれるので楽器経験者なんだろうとは思っていたが。


「川上先生はジャズ研のOGなんよ」


 なんとなく部員が川上を怖がってる理由が分かった気がした。彼女が来るたびに漂う緊張感は、OGが部室にいるというものらしい。そこに怖いイメージが拍車を掛けている気もするが。


「横山さんも同じ世代やってんて。現役時代は、横山さんがギターで、川上先生がドラム」


「そう言えば、大樹先輩に横山さんからギターを教わるように言われました」


「あー、伊坂くん、去年は横山さんに結構厳しく指導されてたなあ。中学までトロンボーンやったらしいし、合宿でかなり鍛えられたんかもね。みなこちゃんもカフェが暇になったら横山さんに厳しくしてもらいね」


 みちるは、ふふふと嬉しそうに笑みを作った。冗談なのか本気なのか。たまにみちるが何を考えているのか分からない時がある。


「佳奈は川上先生がOGって知ってたん?」


 七海が佳奈に訊ねる。佳奈のクラスは担任が川上なので、ちょっと詳しいのではないかと思ったのだろう。だけど、佳奈はかぶりを振った。


「クラスではそういう話せんから。伊藤さんと同じで何かやってはったんやろうな、とは思ってたけど」


「そっかー。川上先生って普段の授業中とかは音楽の話とかせんもんなー……ってか川上先生がドラム! 今度教えてもらおう!」


「七海って変なところ度胸あるやんな」


 めぐがおっかないと言いたげに口元を歪めた。先ほどの先輩部員たちの反応をみれば、川上のスパルタっぷりは想像できるのに。


 やり取りを聞いて、みちるがクスクスと笑みをこぼす。その後ろの扉が急に開いた。


「恵っちゃんは、ドラムだけじゃなくて、ギターにベース、サックスにトランペットまで、なんでも弾けたからな」


 扉から顔を覗かせたのは横山だった。身体を反転させて、みちるが赤いリボンを揺らす。


「お店は大丈夫なんですか?」


「バイト子もおるし、今日はちょっぴり暇みたいで」


 肩をすくませた横山は少し残念そうだった。「それと、」と言葉を続ける。


「お昼はカフェで食べてくれてもええんからな。おすすめはイチゴたっぷりのパンケーキ! それにちょっとだけなら割引してあげる」


「ホンマですか! やったー」


 無邪気にはしゃぐ七海に、みなこは呆れて溜息を漏らした。それが聞こえたのか、七海の眉根が不機嫌につり上がる。


「なんや、みなこは食べへんの?」


「そりゃ、……食べるけど」


 せっかくのご厚意だ。割引とまで言われれば、お言葉に甘えるしかないじゃないか。合宿中で頑張るんだから贅沢したってバチは当たらないはずだ。


「でも、川上先生って、やっぱりギターも弾けるんですね。オーディションの時なんか、アドバイスが的確やったんで、やってたのかなとは思いましたけど」


「ドラムだけじゃなく、弦楽器に金管まで出来るんなんて! 川上先生って天才?」


 と七海があんぐりと口を開ける。


「うーん。恵っちゃんは、器用でなんでもそつなくこなしてたからな。本人は、器用貧乏っていう風に思ったみたいやけど。自分には秀でたものがないからって悩んでた時期もあるし」


 悩み。今のしっかりとした大人な川上からは想像が出来ない。だけど、彼女にだって若く悩んでいた時代があったのだ。横山の顔には懐かしさが滲んでいた。自分もこんな風に今を思う日がやってくるのだろうか。そんなことを想像すると、なんとなく胸の辺りがツンと痛んだ。


「結局、教師を目指すために楽器はスパッと辞めたんやけど。……あ、この話は恵っちゃんにはナイショな。あの子ってあんまり弱み見せんタイプやろ? 生徒にこういう話しをしたって知れたら怒られそう」


 悪戯に片目を瞑り、彼女は口元に指を添えた。綺麗な風貌のおかげか、その仕草はとても絵になっている。みなこたちが素直に頷いたのを確認すると、穏やかだった表情がスッと真顔に変わった。


「それと、さっきギターを教えて欲しいって言うてたのはどの子かな?」


 手厳しそうなOGの顔つきに、みんなの視線が一斉にこちらを向いた。



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