ほんの少しだけ部活を早退し、すみれを連れてやって来たのは、雲雀丘花屋敷近くの喫茶店だった。
「結構、大人なお店知ってはるんですね……」
「あー、ここ? あはは、受け売りなんやけどね」
「受け売りですか?」
「まぁ、気にしないで」
何度も来ていると慣れるもので、始めの頃にあった気圧される感じはもう一つもない。マスターも寡黙でいい人だし、何より落ち着いた雰囲気が心地良かった。
奥の窓際の席に着く。雨樋を流れる激しい水の音が、店に入って来てから雨脚が少し強くなったことを知らせてくれた。窓ガラスに張り付く水滴の向こうで薄っすらと灯る街灯が、薄暗い町を昼でも夜でもない色に染めている。
「声を賭けてくれたってことは話があるんやんな?」
世間話から入ってゆっくりとすみれの思考を探っていこうかとも思ったが、部活終わりのため、あまり遅い時間になるのもいけないと思い率直な質問をした。
神妙な面持ちのまま、すみれは小さく頷く。
「愚痴のような話なんですけど、聞いていただけますか?」
「もちろん。悩んでることがあるならなんでも聞くよ。恋愛相談は苦手やけど」
みなこのささやかな冗談に、すみれはほんの少しだけ口端を緩めた。社交辞令だろうと分かる笑みに、照れ隠しと仕切り直す意を込め、空咳を一つして、メニュー表をすみれに手渡した。
「奢って上げるから好きなの頼んで」
「相談に乗ってもらった上に奢っていただくなんて悪いです」
「いいから、いいから」
半ば無理やり頷かせ、マスターに注文を告げる。先輩たちにいつも奢ってもらっている分、自分も後輩へ奢ってやらなくてはという使命感があった。こうして受け継がれていく伝統は悪しき物だろうか。強制されているわけではないし、少なくともみなこはそう思わない。
みなこはアイスのカフェオレを、すみれはミックスオレを頼んだ。
「すみれちゃん、コーヒー苦手?」
「苦手ではないですけど、夜に眠れなくなるので」
「そうなんや」
「みなこ先輩はコーヒーお好きなんですか?」
「別に普通かな。朝はいつも飲んでるけど、拘りがあるわけじゃないし」
「大人ですね」
運ばれてきたミックスジュースを吸い上げて、すみれが甘ったるそうな息を吐く。「お話というのは――、」といきなり切り出された話に、みなこはシロップの蓋をめくる手を止めた。
「部活動のことで悩みがあって」
恋愛相談ではないことくらい始めから分かっていた。十中八九、部活内の人間関係のことだろう。ちゃんとした解答が出来るように、自分の中で先にすみれが話すだろう内容を想像して、自分なりに質問を想定しておく。みなこの脳内に浮かんだのは、もちろん愛華とのことだった。
「部活の空気が合わない……、というと大袈裟になるかもしれませんが。少し居心地が悪く感じていて……。もちろん、みなこ先輩やめぐ先輩は、親しみやすくとても親切にしてくれているので感謝しています! 先月も遊びにも誘って頂いたり……、今日も宝塚のことで話を盛り上げて頂いたりしたので」
黄色く濁った液体の上っ面に、溶けた氷の透明な膜が張る。すみれのメガネのレンズがいびつな形に歪んで映り込んでいた。
「それに部長や副部長も気にかけてくれていますから、その辺りに不満はないんです」
「それなら、すみれちゃんは、ジャズ研のどういうところが自分に合わないと思ってるん?」
答えが分かっている問いだったが、出来るだけ優しい声で投げかけてみる。僅かに傾いた指先から透明なシロップが落ちて、氷をかき分けるように、茶色い液体の中へ沈殿していく。
「部活は懸命に励みたいと思っています。だから、やる気のない部員を見ると、どうしてもモチベーションが下がってしまうんです」
確か、新入生の挨拶の時に、すみれは全国大会を目指すジャズ研の目標に惹かれたと言っていた。それがジャズ研を選んだきっかけであることを考えれば、今のすみれの気持ちはちゃんと理解できているつもりだ。高校の受験勉強が忙しくなるまで、ピアノ教室に通っていたと言うし、ピアノを続けるならジャズ研でなくとも道はあるはずだから。
「すみれちゃんの気持ちは分かる。けど、ジャズ研の基本方針の中には、ある程度の緩さがあるのも事実。もちろん、大会前やイベント前はしっかりと練習をするし、最優秀賞だって本気で目指してる」
普段は、参加不参加は自由であるジャズ研だが、一度、本番モードに切り替われば、目標に向かって一つになる。入部してすぐの花と音楽のフェスティバルで、その一体感をすみれだって体感したはずだ。
「イベントが無い時期っていうのは、中だるみになりがちやとは思う。けど、ジャズ研が参加不参加を自由にしているのは、それぞれの事情をちゃんと加味できるように考えているから。勉強や家の手伝いや習い事、それぞれに休む理由があるんやと思う。サボろうとしている人はいないんじゃないかな」
「それは分かっています。学生の本分は勉強であるということも。先輩方は受験もあるでしょうし。予備校に通われている方が、イベント前に無理してでも参加した経緯も知っています」
「なら、」
「でも、同じ一年生同士だからこそ、やる気の食い違いに腹を立ててしまうんです」
やはり、愛華のことなのだ、とみなこは確信した。大きな揉め事になるまで、一年生の仲違いにはあまり口を出さない、と会議で結論が出ているので、踏み込み過ぎないように細心の注意を払う。
「どうしても我慢出来ない?」
「いえ……そういうわけじゃ。以前にめぐ先輩に相談した時も、みなこ先輩と同じことを仰っていました。頭では理解出来ているつもりなんですけど、どうしても感情が先走ってしまって」
「そういう時があるのは分かる」
「みなこ先輩もあるんですか?」
「そりゃ人間だから。七海に対してなんてしょっちゅうやで。友達やから許せるっていうのもあるのかも。仲良くならないと相手の本当に考えているところも見えてこないし」
「そうだと思います」
気づかないうちに窓の外には夜が広がっていた。少し薄くなったカフェオレをみなこは口に運ぶ。ほんのりと苦い冷たさが喉を通って食道へと流れていく。
「まず仲良くなるところからかも。よければ、私も協力するから」
「ありがとうございます。でも、あまり人とつるむ方ではないみたいで」
「愛華ちゃんはちょっと寡黙なところがあるからね」
遠慮気味に下がっていたすみれの視線がパッと持ち上げられた。ブロンズ色の細渕のフレームが店内のモダンな照明に光った。
「灰野さんのことじゃないです」
「え、愛華ちゃんのことじゃないん?」
すみれは戸惑いながら眉根を下げた。愛華を名指した不審感というよりかは、もう少し気まずさのようなものを感じた。
「灰野さんは別に……、」
何か一つ意見を飲み込むように、すみれは喉元を震わせる。目元を隠すように右手でフレームを持ち上げ、間を嫌うように視線をみなこに向けた。
「灰野さんは、練習にも毎日顔を出していますし。……佳乃やつぐみは仲良くしたいと思っているんでしょうけど、距離感というのは人それぞれやと思うので。気の合わないことは私も遊びたいとは思いませんし」
「それじゃ、すみれちゃんは誰のことを?」
踏み込みすぎないように気を付けていたのに、咄嗟にすみれが誰のことを言っていたのかを訊ねてしまった。言い訳が許されるなら、愛華では無かったことに、動揺してしまったせいだ。
「やる気を感じられないのは井上くんです」
確かに竜二から気概のようなものは感じられない。とはいえ、彼が普段から練習をサボりがちか、と言われるとそんなことはなかった。用事があると欠席したことはあったけど、基本的には練習に顔を出していたし、日頃からある程度は真面目に取り組んでいた印象だ。やる気が溢れんばかりにあったかと言われると、そうだ、と言い切れないのが悔やまれるが。
透明なストローで甘ったるいフルーツオレを吸い上げる。
「あーいうやる気のない人は、どうしても苦手なんです。いるだけで全体の士気が下がってしまいますし」
先程よりも「士気が下がる」にかかる言葉が大きくなっているのは、具体的な相手を想像して感情的になってしまっているからかもしれない。いつも通りの上品な口調の中にも明確な苛立ちが込められていた。
「それに笠原先輩もそう感じているんじゃないですか? あれだけの実力者ならモチベーションも相当なものがあるでしょうし。入部してきた一年生があんな感じだったら、気持ちも落ちてしまいます。イベントの時も演奏にどこか覇気が無かったですよね。最近、休みがちですし」
「すみれちゃんもそう思う?」
みなこが同意したのは、桃菜が竜二に対して嫌悪感を抱いているという話ではなく、演奏自体に不調の気配があったというところだ。気にしないようにしていたけど、イベントのあとの練習でも桃菜が奏でる音はどこかいつもと違っていた。
「はい。佳乃が心配してましたので」
「そっか、佳乃ちゃんが」
イベント終わりに桃菜が立ち去った場面が脳内に再生された。心配そうに桃菜を見つめる佳乃の表情は、先輩を思いやる良い後輩のものだ。
「みなこ先輩も笠原先輩のことを心配してるんですか?」
「心配というほど大層なものじゃないけど。少しおかしいとは思ってた。けど、その原因が井上くんだとは思えないかな」
燃え盛っていた線香花火が燃え尽きて落ちるように、すみれの視線がミックスジュースの方へ下がる。からん、と風鈴のような音を鳴らして崩れる氷が、穏やかだった黄色い水面を揺らした。
「そうですよね。すみません、少し感情的になりました。佳乃が困っていたので、つい……」
「ううん。気にしないで。それよりも相談してくれてありがとうね。また何かあったらいつでも話聞くから」
感情的になったのは、本当に佳乃のためだろうか。浮かんだ疑問は口に出すのは憚られて、みなこはそっと胸のうちにしまう。今はまだ踏み込みすぎない方がいい。さらに強くなって来た雨脚を眺めながら、みなこは残りのコーヒーを一気に飲み干した。
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