大会まで二週間となった日曜日、練習には普段とは違う妙な緊張感が張り詰めていた。その緊張感が良い方向に気を引き締めてくれているのか、めぐのオーディションの件で浮ついていた一年生の演奏も、徐々に地に足ついたものとなりつつあった。
「井垣さん、今のアドリブすごく良かった」
「ありがとうございます」
知子に褒められて、佳奈が素直に照れた仕草をした。めぐのことが気になって本来の力を発揮しきれていなかった佳奈の演奏も、ここに来てようやく本来の姿に戻りつつある。それは良いことであると同時に、めぐの問題が有耶無耶になってしまっているのではないかという心配がみなこの胸を突いた。
佳奈はちゃんとめぐのことを考えてくれているはずだ。航平と三人で話した時も親身になってくれていた。けど、佳奈の演奏からはそれを感じ取ることが出来ない。
「毎回、しびれさせてくれるなー。大胆かつしっとりと。曲の良さを最大限に出してるし、大人なエロさもあるねー」
アンプに座っていた杏奈が、おどけた声でガヤを飛ばす。困った佳奈の反応を見かねて、「行儀が悪い!」と美帆が杏奈のおでこを指で弾いた。
この時間は、コンボの『Tenderly』のセッションが行われている。みなこは先程まで小スタジオで個人練習をしていたのだが、このあと行うビッグバンドのセッションの準備のために、早めに練習を切り上げて見学をしていた。
「そろそろ時間ちゃう? わりと集まって来てるで」
祥子にそう促され、知子は時計を見遣る。「そうやな。一旦休憩にしようか」と言って手を打った。
「それでは、十分後に『Rain Lilly』で再開します」
時計が時間を進めるたびに、オーディションのことがなかったことになっていく気がしていた。佳奈の演奏もそうだが、それは根本的なメンタリティーの成長から来る巻き返しで、めぐの件を軽視しているわけじゃない。それくらい分かっているつもりだけど、そのことが頭をめぐるたびに、みなこは練習に身が入らなくなっていた。
現に、ざわめきが戻った部室は、いつもと変わらない雰囲気に包まれていた。みなこにそれを痛感させているのは、当事者のめぐのせいもあるはず。彼女は、あまりにいつも通り過ぎる。
ビッグバンドから外されて、なんともないということがあるのだろうか。この半年間、めぐは懸命に練習に打ち込んでいた。コンボは無理だと心のどこかに思っていたみなこに比べて、めぐは知子からポジションを奪うつもりで真摯に音楽に打ち込んでいたのだ。
でもこれは、らしくない考えだと思う。あの日の会議の内容を知らない自分が、めぐの気持ちに共感しようなどと思っているのは間違っているはずだから。めぐは納得しているし、みなこが思うほど、一年生の演奏にも影響は出ていない。あとは、自分が気持ちを切り替えれば、この問題は滞りなく解決されるのではないだろうか。
「清瀬、おつかれー」
急に声をかけられて、驚いた拍子に手に持っていたシールドを落としそうになる。どうやら、準備をしていて屈んだまま、考えに更けってしまっていたらしい。
「お、おつかれさまです」
「なんやボーっとしてたな」
呆れた様子で椅子に腰掛けると、大樹はギターのチューニングを始めた。弦を弾いてペグを回せば、デジタルの針が左右に振れて、チューナーのメーターが赤色の表示から緑色へと変わっていく。
「……すみません」
「俺に謝られても困るんやけどさ。練習に集中せな、痛い目に合うのは清瀬やで」
「はい。……すみません」
「だから謝られてもさ。……中々踏ん切りがつかへんのか?」
お尻を浮かせたまま膝を抱え込んでみなこは頷いた。先輩を前にしてあまり良い態度ではないことは重々承知しているが、ずっしりとのしかかった悩みが身体を随分と重たくしてしまっていた。
「この問題を引きずっているのは自分だけな気がしていて」
「みんな演奏がちゃんと出来てるから?」
「はい。でも分かってるんです。それはそれぞれの中でちゃんと消化して、音楽に集中しているからだって」
「やったら清瀬もそうせんとな」
分かっているけど、気持ちに整理を付けるのは難しい。技術でメンタルをコントロールしながら演奏することが出来ればいいのだろうけど、それだけの力は自分にはまだない。こちらの気持ちを汲み取ったように、大樹は弦を弾きながら言葉を紡いだ。
「誰もがそれなりに色んな問題を抱えてるんやと思うで。三年生は受験だってあるし。日常生活で腹の立つことや嫌なことだって当たり前のように起きる。友人関係や家族の問題だってゼロじゃないやろうし。それは分かってるよな?」
「はい。でも、私は頭の中から消すのが苦手なのかもしれません」
「そういうのは人それぞれやからな。それに今回の件に関しては、自分のことじゃないっていうのも清瀬の中で踏ん切りがつかへん理由かもな。それは、清瀬が優しい証拠で。端的に言うと友達思いなわけや」
「そうだといいですけど」
「あんまり納得してなさそうやな」
「もし、そうなら、演奏に向いてる性格じゃない気がして」
大樹はチューニングを終えたギターをスタンドに立て掛ける。しゃがんでいるこちらを見下ろしながら、膝に肘を付いて姿勢を低くした。
「演奏に向いてない性格かどうかは早計な判断やと思う。そういう不安定な気持ちも音に乗せられるようになれば、演奏の幅は広がると思うし、何をプラスに変えるのかは演奏者次第ちゃうか?」
「この気持ちを音に乗せるんですか」
「そうそう」
言葉では簡単だが、それは気持ちを消化するよりも難しい作業のように思えた。曲の意図を汲み取り自分の悩みと重ねる。暗く陰鬱な曲ならまだしも明るい曲ならどうしろというのだろうか。
そういう悩みをステージに持ち込むのは良いことのようには思えない。けど、向いているかどうかは別として、そういう性格なのだとすれば、それを受け入れて演奏するしか無い。
「……頑張ってみます」
「うーん。清瀬のあかんところは、やっぱり真面目過ぎるところかもな」
可笑しそうに大樹は目元に皺を作る。真面目に考えたのに、大樹のアドバイスは冗談だったのだろうか。――そりゃ真面目に考えているに決まっているじゃないか! とみなこは反抗的に心の中でごちる。
それが表情に出てしまっていたのか、大樹は愛らしい目をこちらに向けた。
「アドバイスは本音やけどさ。そんなに難しく考え込まんでもええから。清瀬のそういうところは良いところでもあるんやけど。でも、副部長には向いてるかなぁ」
「だとすれば、大樹先輩はそういう副部長じゃないですよね」
出た言葉は強がりや反撃の思いを込めたものだった。だけど、大樹はそれを簡単に躱し、ケラケラと笑ってみせた。
「言ってくれるなー。まぁ、これも人それぞれやから。清瀬は清瀬らしく副部長になればええって。少なくとも俺みたいなのよりかは、ええ副部長になれるんちゃう?」
「なんで最後疑問形なんですか」
「これからの清瀬次第やし」
それはそうなのだけど。ムッとして立ち上がったみなこに、「ちょっとは表情緩くなってきたな」と口元を綻ばせる。それにな、と大樹は言葉を続けた。
「清瀬次第っていうのは、演奏の部分でもそうなわけや。やっぱり、みんな同じように悩んでるんやと思うで。演奏に影響が出ているかどうかは個人の技量の差やから。結局、その術を清瀬が身につけるられるかどうかって話やろ」
「やっぱりそうなんですよね」
これは個人の問題だと大樹は言いたいのだろう。またしょんぼりと声のトーンを下げたみなこに、「俺が言いたいのは、今の清瀬にそこまでは求めてないってこと!」と大樹は続ける。
「期待されてないってことですか?」
「あーそうじゃなくてさ」
伝わらない歯がゆさを全面に出すように、大樹は耳の裏辺りの髪を掻いた。
「今の清瀬にはもっと他の解決方法があるんちゃうか。そりゃ、清瀬がそういうメンタル面の技術を身につけるに越したことはない。けど、そこを分かった上で、まだ悩んでるってことは、このオーディションの問題に根本的な不合理を感じているからやろ?」
「根本的な不合理ですか?」
「清瀬はそれに気づけてない」
気づけていないこととはなんのか。大樹が話してくれたのだから、部の方針と矛盾が生じていることとは別のことなのだろうと思う。こちらの気持ちを代わりに整理するかのように、大樹はいくつか質問をぶつけてきた。
「この問題は、時間の流れの中で忘れられていくものじゃない、みんな気持ちに整理を付けて演奏しているだけやっていうのは、清瀬も分かってるんやんな?」
「はい。みんな、メンタルをコントロールしているからしっかりと演奏出来ているだけで、ちゃんと考えてくれているんだと思います。けど、そうやって消化できているなら問題は解決されているんじゃないかなとも思うんです。私がこの問題を解決したいと思ったのは、みんなの演奏に影響が出ると思ったからで」
「清瀬だけがうまくいってない現状では、この件に首を突っ込む動機づけとして弱いと」
「はい。自分のためだけに動くのは……気が引けるというか。私の実力がない問題に、めぐちゃんやみんなを巻き込むのはどうなのかなって」
「なるほどな。でも、清瀬には確かな違和感があるんやろ? それにオーディションがきっかけの問題を有耶無耶にはしたくないっていう気持ちも」
「はい。自分の実力があれば済む話なのに、どうしてそういう気持ちになっているのかが分からなくて」
「それこそが不合理の根源なんちゃうか?」
「どういうことですか?」
「清瀬が感じているのは、そもそもこの問題は存在しなくていいものやってことなんちゃうか? この問題が生じなければ、もっといい演奏が出来るはずやって思ってる」
腑に落ちなかった部分が明瞭になった気がした。どれだけみんなの中で消化できる問題だとしても、影響がゼロになるなんてことはない。少なくともそれぞれの中に蓄積して、奏でる音に影響する。どうして自分は、みんなの音が戻りつつあるからといって満足していたのだろうか。存在するべきでない問題は、解決できるに越したことはない。
こちらの表情を見て、「そうやろ?」と大樹が満足気に頷く。
「そうなんだと思います」
もしかすると自分はどこかで動かない理由を探してたんじゃないだろうか。鳴りを潜めていたと思っていたいつもの自分は、密かに心を侵略しはじめていたらしい。
めぐを支えると覚悟を決めたはずなのに。臆病な自分がつくづく嫌になる。
「それにこの問題を重たく見ているやつはもう一人おるからなー」
「もう一人ですか?」
「そうそう。お、噂をすれば」
大樹の視線が部室の入り口の方へ動く。入室してきたのは、空き教室に練習しに行っていた里帆だった。
「里帆ー」
「なに?」
大声で呼ばれたことが恥ずかしかったのか、顔をしかめながら彼女はこちらに寄ってきた。手にはサックスが抱えられている。
「清瀬が話あるって」
「清瀬ちゃんが? あーでも、ちょうど良かったわ。私も清瀬ちゃんに話あるから。このセッション終わり、ちょっといい?」
「はい。もちろんです」
金色の光沢に写り込んだ自分の表情は、ちゃんと覚悟を決められたものだった。
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