つぐみが見学へ来た日の帰り、校門までやって来たところで、めぐに「カバンは?」と言われ、みなこはうっかり部室にスクールバックを忘れていたことに気がついた。
今日はやけに七海から笑われる日だ。日頃の恨みと言わんばかりのからかいは甘んじて受け入れるべきだろう。新入生に浮かれていたことは否定できない。
慌てて職員室で鍵を借りて、音楽室へ続く階段を上っていく。
窓からは六甲の山脈の向こうに夕陽が沈んで行くのが見えた。大阪平野へと吹きおりる風は、まだ少しだけ冬を思わせる冷たさを持っていて、オレンジ色に染まる校門の桜の木だけが春であることを告げていた。
アンプにちょっこり持たれかかっていたカバンを無事回収し、校門で待たせてしまっているみんなの元へ向うため、階段を降りようとしたところ、踊り場で女子生徒と鉢合わせた。
「ひゃっ」と間の抜けた声を出したみなこに、相手の女子生徒はすぐに謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい」
「ううん。こちらこそ、ごめん」
みなこの謝罪が砕けた言い方になったのは、彼女の上履きが緑色だったからだ。でも、この先はスタジオと音楽室しかないため、放課後のこの時間に一年生がここを訪れるのは少し不思議だった。
「どうしたん? こんな時間に」
「あの、」
ほんの少し上向きの目尻に力を込めながら、新入生の彼女はこちらを見つめる。ウルフカットの髪を、しなやかな指に滑らせ、遠赤外線をたっぷり含んだオレンジ色に染まるぷっくりとした唇を開いた。
「部活の体験入部なんですけど」
「えーっと、吹奏楽部の体験かな?」
この先には音楽室もあるので、吹奏楽部の体験入部生なのだろうと思った。体験入部の時に、みなこと同じように忘れ物をしたのかもしれない。それで忘れたことを校門で友達に知らされて、取りに戻ってきた。そういう寸法じゃないだろうか。彼女はスクールバックを肩から掛けているので、忘れ物をしているとしても、もっと小物だろうけど。
「いいえ、ジャズ研です」
「え、ジャズ研?」
驚きのあまり、つい大きな声を出してしまった。新入生の彼女は間違えてしまった、と不安気に春の空気を吸い込みながら、「ここじゃなかったですか?」と、産毛のような細やかな眉根を困ったように下げた。
「ううん、ここであってる」
まさかこのタイミングで、体験入部生がやって来るとは思いもしなかった。目の前の新入生がこちらの反応を待っていることに気がついて、みなこは慌てて、「あ、私はジャズ研の部員やねんけど」と自分が何物なのかを告げる。先輩に対しての緊張もあったのだろう、彼女は安堵の表情を浮かべた。
ただ、如何せんもう部活は終わってしまっている。断るのは悪いと思いつつ、みなこは今日の体験は締め切ってしまったことを伝えた。
「でも、今日はもう下校時間やから」
「そうですよね……」
「でも、なんでこの時間に?」
「えっと、友人に別の部活の見学に誘われてしまって」
「そうやったんや。体験入部の期間はまだあるし、来てくれるならいつでも歓迎やから」
「ありがとうございます」
彼女は遠慮気味に頭を下げた。踵を返そうと足が浮いたのを見て、みなこは彼女を呼び止める。
「あ、お名前だけいいかな?」
「すみません。灰野愛華です」
「愛華ちゃんね。また時間のある時に来て」
「よろしくお願いします」
愛華はまた頭を下げると、足早に階段を下っていった。窓の向こうに広がる緑色のネット越しに続く坂の向こうには、暗い夜が訪れはじめていた。
*
体験入部希望者が二人も訪れてくれた日の夜。お風呂から上がり、ベッドの上に投げ置いていたスマートフォンを確認すると、七海からの着信がいくつか入っていた。
電話が来ること自体は珍しくなく、さらに泣き顔のスタンプが直後に送られて来ていたことから、大方の内容は想像できたけど。見学者が来てくれたことでみなこは気分も良くすぐに折り返した。
「みなこー、宿題見せてー」
みなこの予想通り宿題のことだった。七海の声色は人に頼む態度ではない上に、それほど緊急性が感じられない。
「見せてって何の宿題よ?」
「数学!」
「数学ぅ?」
「そうやで?」
何を不思議がることがあるのか? と言いたげな溜め息が、スマートフォンのスピーカー越しにみなこの耳殻に掛かる。
「そもそも、クラス違うんやから無理やろ」
「えぇー、なんで?」
頭に巻いたポカポカと熱を持つタオルほどき、額から落ちる汗をみなこは拭う。
「出されてる宿題がちゃうし、三組がやってるのは数Ⅰやろ? 私は数Ⅱ!」
「どうして、そんなことに……」
「七海が文系を選択したからでしょうが」
「だって数学苦手なんやもん」
それはそうなのだろうけど。宝塚南は一年生の二学期に文理選択を迫られ、二年生からその選択が適応される。ちなみに、みなこと奏と航平が理系を選択し、今年から同じ一組になった。一組の半数は理系選択者で構成されていて、三年生になってもクラスが分かれることはない。
「あー、七海が理系やったら宿題見せられたのになぁ」
「数学できる自慢ですか?」
「いつから、そんなひねくれた言いましが出来るようになったのかなぁ?」
「みなこが、めぐみたいなこと言うー」
分かりやすいような嘘泣きに、みなこは七海に聞こえないように笑みを溢す。折り曲げた足を胸に手繰り寄せて、まだ温もりの残るつま先を握った。
「そのめぐに見せて貰えばええやん。クラス一緒やったやろ?」
七海とめぐが三組で、佳奈だけが二組。別のクラスになったせいで、クラス発表の日、佳奈はすっかり拗ねてしまっていたけど。一組と二組が選択科目と体育が合同であることを知り、翌日には機嫌を戻していた。
「めぐは、ケチやから見せてくれへんの!」
唇を尖らせているらしく、七海の声は随分嫌味の含まれたものとなった。めぐだって意地悪で見せないわけじゃないはずだ。宿題は自分でやってこそ意味がある。
足をバタバタと揺らす音とノートにシャーペンが転がる音が聞こえた。どうやら、机に座ってノートを広げるところまではいっているらしい。必要なのは、後押しだろうか。
「テスト前でヤバくなったらちゃんと教えたるから。宿題はちゃんと自分でせんとな。ほら、今年から先輩なんやし」
先輩という言葉が七海の胸に刺さったらしい。呼吸が僅かに激しさを持って、「せ、先輩!」というやる気に満ちた声が聞こえてきた。
「今日も見学の子来てたやん。それにあのあとも、帰り際にもう一人来てくれたって言ったやろ? そういう子たちにかっこ悪いところ見せられへんのちゃう?」
「ホンマや! うち、頑張る!」
なんとか七海のやる気スイッチを押すことに成功したらしい。ドラムに関しても言えること、……いや、七海の本質的な性格に言えることだけど、彼女は非常に気分屋なところがある。演奏からも分かるように、楽しいことはより積極的に食らいつき、勉学に対してのスタンスから分かるように、苦手なことには消極的でギリギリまで溜め込む。
小学校の給食の時は、好きな食べ物は真っ先に平らげて、嫌いな食べ物と睨み合いをしたまま、昼休みに突入するタイプだった。ムラっけというべきか、我儘というべきか。やる気さえあれば、勉強だってちゃんと出来る子のはずなのに。面倒くささに打ち勝ち、苦手な方向へベクトルを向けるのが苦手なのだ。
でも、おおよその人はそういうものだろう、とみなこは思った。勉強よりも部活は楽しく、嫌いな食べ物はなるだけ食べたくない。
それに自分だって人のことは言えない。みなこは、問題を先回しにするタイプだから。……嫌いな食べ物は先に食べてしまう派だけど。給食の時間の終わりというのは、みなこに
取って先のことではなく目の前の問題だったから。
つまり、七海は苦手なものならば、目の前の問題からも目を反らしてしまう嫌いがあるということだ。
「いつもそれくらい勉強に前向きならね」
過保護な吐息を漏らしたみなこに気づいてか、七海が「ふふん」と甘い声を出した。調子の良い言葉が電波に乗って津波のように押し寄せる。
「今はちゃんとやる気が漲ってますよ! と、言えるくらいには、うちはやる気になってるから。ちょっとくらい解き方教えてよ!」
「まぁ、それくらいなら」
なんとなくこちらが言いくるめられた気になるのはどうしてだろう。けど、やっぱり体験入部に二人も来てくれたことが嬉しく、みなこは快く七海の宿題に付き合うことを承諾した。
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