ブルーノート

~宝塚南高校ジャズ研究会~
伊勢祐里
伊勢祐里

三幕10話「特別」

公開日時: 2020年12月2日(水) 20:30
文字数:6,919

 最後は盛大な拍手が送られた。全員で手を繋ぎ、カーテンコールをする。終演と同時に観客がまばらになったせいだろう。客席の後方で祖父母が椅子に座っているのが見えた。その隣には両親もいる。椅子は、年配の方のためにと、実行委員の誰かかOB、OGの方が用意してくれたのかもしれない。椅子に座ったままで、ちゃんと自分の姿は見えただろうか。そんなことが心配になった。


「本日はありがとうございました!」


 知子の挨拶に、また拍手が送られた。それに答えるように、みなこは丁寧に頭を下げる。人前で演奏する楽しさ、それをまたより一層感じられたステージだった。それと同時に、今の自分に足りないことも見えた気がした。秋の大会まで時間はない。ほんのひと月ほどで、どれだけ上手くなれるだろう。ビッグバンドで参加予定の『Rain Lilly』のクオリティーだってそうだ。なにより、コンボでも大樹に勝てるくらい上手くなりたい。たとえ大樹に勝てなくとも、その努力は必ず身を結ぶはずだから。そんな思いがみなこを支配していた。


 だけど、同時に杏奈の顔が浮かぶ。カーテンコールの端で、観客に手を振りながら、杏奈は笑顔を作っていた。


 彼女の努力はどうなるのだろう。中学生の頃から上手くなりたい一心でトロンボーンを続けて、この文化祭のステージに憧れてジャズ研に入った。だけど、その思いはたった一人の圧倒的な才能に潰されてしまったのだ。


 そしてベースへと移った彼女は、奏と戦うことを諦めている。もちろん奏は上手だ。だけど、桃菜ほどの才能があるかと言われると、言葉に詰まってしまう。杏奈の心を、上手くなるための闘争心を、へし折ったのは間違いなく桃菜なのだ。


 *


「おつかれー」


 楽屋に戻るや否や、炭酸ジュースが配られた。みちるの音頭と同時に、プシュとプルタブが開く音が弾ける。どうやら打ち上げのために、川上が買って来てくれたらしい。キンキンに冷えた缶が、興奮して熱くなっていた肌を冷やした。


「今日の演奏、みんなとっても良かった! みんなで案を出し合ったセットリストもすごく楽しかったし、一人ひとりがしっかり成長してた! とっーても楽しい最後の文化祭でした!」


 みちるは少々興奮気味だった。胸元のストラップと赤いリボンが愉快に揺れる。そんな自分を自嘲するように頬を赤らめ、みちるは知子の方へ視線を向ける。


「それじゃ知ちゃんも挨拶お願いね」


 ニッコリと微笑むみちるに知子は肩をすくめる。その目は幸せそうな弧を描いていた。


「みちるが言ってくれたように素晴らしいパフォーマンスだったと思います。個人の成長、特に一年生は入部の時に比べて格段にクオリティーが上がっていました。初心者だった高橋くん、経験者だった伊藤さんも清瀬さんも、すっかりジャズが身体に染み付いて、井垣さんや大西さんはもうソロを任せられるし、谷川さんはウッドベースをものにしてくれた。もちろん、二年生の成長も決して止まってはいません。私たち三年生はこれで秋の大会を残すだけやけど、その前に素敵な思い出に残る文化祭になりました。ありがとう」


 知子の挨拶に部員から拍手が送られる。知子は少々恥ずかしそうに頭を下げた。それを微笑ましそうに見つめたみちるが「私も褒めてくれてええんよ」と口端を緩める。 


「みちるも褒める側の人間やろ」


 つんとした知子の言葉が甘ったるく聞こえるくらいに、みちるは嬉しそうにしていた。なんとなく、将来お酒の席で二人はこんな会話をしているんだろうなあ、とみなこは思った。つまりは、二人の関係性が微笑ましかったのだ。


 そして、不安や悩みというものは忘れた頃にやってくる。意識のどこかにはあったはずだ。視界にはずっと彼女が映っていたし、奏がこの場を素直に楽しめていないことも分かっていた。けれど、まさかこのタイミングでその瞬間が訪れるとは思っていなかったのだ。打ち上げが一段落して、そろそろ片付けに取り掛かろうかという時、ふと真面目な顔をした杏奈が手を上げた。


 全員の注目が集まったのを確認して、彼女は恥ずかしそうに口元を緩めた。


「みんなに話があるんやけど」


「なになに? どうしたん?」


 みちるが明るい声で杏奈に訊ねる。彼女が杏奈の神妙な雰囲気を読み取れないのは、ステージで興奮していたせいだろうか。それとも、はぐらかそうとしている杏奈自身の問題だろうか。きっと、どっちもだ。


 少なくとも、杏奈がこれから話そうとしている内容を知っているのはみなこと里帆、それに奏と桃菜だけ。彼女たちの表情を確認する余裕も、杏奈が紡ごうとしている言葉を遮る余裕も、みなこにはなかった。砂の城が波に壊されていくのを止められないように、ただ淡々と目の前の状況が悪化していく。


「……今日をもってこの部を辞めようかなって思います」


 杏奈が放った想像だにしなかった言葉に、盛り上がっていた空気は一瞬にして凍りついた。「え?」とみちるが驚いたように瞠目する。


「どうして?」


 知子がひどく落ち着いた声で杏奈に訊ねた。カツン、とほとんど空になったジュースが机に置かれて音を立てる。空調の音がやけに耳についた。


「それは……」


 言葉を濁したのは、桃菜のせいにしたくない杏奈の優しさだろうか。それとも、負けて部を去ることを知られたくない保身だろうか。たとえどっちであったとしても、そもそもこの場でこの話題を出すことが正しい選択には思えなかった。盛り上がりに水を差した彼女の意図はまるで理解できない。


「なにか悩んでることとかあるん? 私たちに至らないことがあるなら改めるけど……」


「……いえ、先輩方に問題があるわけじゃないです」

 

 みちるの眉が困ったようにハの字に垂れる。先輩方には問題はない。それは別のところで問題が起きているということだ。「ほら、もう少し考えてからでも、相談なら……」とみちるが言葉を続けると、それを拒むように杏奈が語気を強めた。


「十分に考えた結論です」


 怯えた様子のみちるをかばうように知子が前に出る。鋭さを持って細くなった双眸が杏奈を見つめた。


「鈴木さん。そういう話はみんなの前でするべきじゃないと思う。部長の私や川上先生に直接言われへんかった? これじゃまるで辞めないでって止めてほしいみたいやで?」


「そんなつもりじゃないです」


「鈴木さんがそういうつもりじゃなくたって、他人から見ればそう映る。それじゃ、みんなの前でわざわざ言った意図はなんなん?」


 決して責め立てるような口調ではなかった。だけど、知子の言葉の節々から怒りを感じる。見慣れない雰囲気の彼女に、部員たちに緊張感が走った。


「特に意図はないです。ただ、この文化祭で辞めると決めていたので。タイミング的にみんなに伝えられるかなと思っただけです」


「前もって言っておいたり、私に相談してから後日みんなの前で報告することも出来たんちゃうかな? 今はライブの直後。みんな楽しかったライブの余韻を楽しんでる。鈴木さんは、今日のライブ楽しくなかった?」


 優しさを孕ませた言葉遣い、柔らかい吸収剤で包まれたはずの言葉は、逆に鋭さを持って杏奈に突き刺さる。その鋭さは杏奈の心をえぐったはずだ。弱く脆い心を。


「ごめんなさい……」


「別に謝る必要は」 


 目の前にいる杏奈は、みなこが想像していた明るく接しやすい先輩ではなかった。きっと彼女は弱い人間なのだ。自尊心を守りたい為に、間違った選択肢を選んでしまう。子どもっぽい色をした杏奈の瞳が右に左に揺れ動く。まるで理性と感情が揺れ動いているようだった。


「……でも、もう辞めますから!」


 自らが招いた空気感に耐えられずに、彼女は出口の方へ向かい歩き出す。「待って鈴木さん」と、呼び止めた知子の声は、思いもしない声にかき消された。


「待ってください!」


 静かな楽屋に、華奢な叫び声が響く。まるでピッコロのような可愛らしい叫び声だった。


「待ってください杏奈先輩……」


 そう繰り返された言葉に、杏奈はドアノブに手をかけたまま立ち止まり振り返った。頬の筋肉が固まった下手くそな笑みを浮かべて、彼女は作り込まれた優しい声を紡ぐ。


「どうしたん? 谷川ちゃん?」


 胸に手を当てて、奏は荒い呼吸を繰り返していた。肺に入った空気が口から出ていくたびに、彼女の柔らかい髪が揺れる。長い睫毛に縁取られた双眸は僅かに潤んでいて、ただ真っ直ぐに扉の前の杏奈だけを見つめていた。


「私は先輩に辞めてほしくないです」


「……そう言ってくれるのは嬉しいけど、もう決めたことやから。みんなにも報告してもうたし……織辺先輩にも怒られちゃったし……」


「それは先輩が辞めることと関係ないことですよね」


「そうかな? 私が決めてみんなに報告をした。もう十分に辞める理由になってると思うけど」


「違います。それは、決心が揺るがないように外堀を埋めているだけです」


 胸の底が痛い。吸い込むたびに、肺の中が鋭い空気で満たされていく。空気中に漂っているのは、棘の生えた言霊たちだ。オブラートに包まず、奏がここまでハッキリと物事を言うとは思わなかった。杏奈も同じことを思ったのだろう。「どうしたん? いつもの谷川ちゃんぽくないで」と、おどけてみせたが、奏は真面目な面持ちを崩すことなく、毅然とした態度で杏奈に向き合った。


「先輩が私に心を開いてくれなかったからです」


「心を開く? 谷川ちゃんが、私のことをどう思ってたかは知らんけど、私はいつだってありのまま。ちゃんと後輩としてベースの指導はしてたし、みんなに接するように谷川ちゃんにも接してたやろ?」


 確かに杏奈の言う通り、みなこの記憶の中の彼女は、誰にだって変わりなく接していた。先輩だろうが、後輩だろうが。それは七海やめぐも同じように思っていたはずだ。だけど、奏だけは違った。きっと奏だけが、杏奈の本質を見抜いていたのだ。


 胸元で握り込まれていた奏の手がふっとほつれる。


「嘘です」


「嘘じゃないよ」


「いいえ、先輩は嘘ばかりです。本音で何も話してはくれませんでした」


「それは、谷川ちゃんが私を買いかぶりすぎてるだけやって」


 奏の追求から逃れるように、杏奈の視線がそらされる。僅かに緩んだ口元には自嘲の念が込められている気がした。


「卑下するのはやめてください」


「別に卑下なんかしてないやろ?」


 コクリ、と杏奈の首が傾く。肩まで伸びた髪が、彼女の細い首筋をなで上げた。筋の通った鼻先がヒクリと疼く。


 奏は吐息を漏らすように言葉を紡いだ。


「……してるじゃないですか。私、知ってるんです。どうして杏奈先輩が部活を辞めるのか」


 杏奈の眉間に寄った皺には、警戒心が滲み出ていた。これまで守ってきたものがさらされる恐怖。里帆やみなこは、他言しないとたかをくくっていたのだろう。低い重低音が壁の向こう側から響いてきた。有志バンドのライブの音だ。歓声と静寂が楽屋の中で気持ち悪く混ざり合う。


「清瀬ちゃんに聞いたん?」


「それは答えられません」


「……別にええわ。谷川ちゃんが知っていたとしても私の答えは変わらへん」


「どうしてそんなこと言うんですか?」


「どうしてって……知ってるんやろ? それをわざわざみんなの前で言わせたいん?」


「この話を切り出したのは杏奈先輩です」


 奏はひどく落ち着いた声だった。だけど、彼女の内心は震えている。大勢の前で先輩に向き合うことは、奏にとって勇気のいる行動だったはずだから。赤いラインの入った上履きの底が、力強くフローリングを踏みしめている。床の振動は、視聴覚室のドラムの地響きだ。


「そうやで……そうやけど……」


 杏奈の手がドアノブから離れた。プツッ、と何かが切れたように表情が緩む。次の瞬間、ダムが決壊するみたいに、どっと感情が溢れ出してきた。


「……私はあの子に負けた! どれだけ頑張っても、頑張っても、頑張っても、……勝てへんねん。私の努力は特別な才能の前ではあまりにちっぽけで無力やった! それでも諦めきれなくて……ベースに移った時、私がどんな気持ちやったか分かる? 簡単に実力を抜かれて、どれだけ惨めな思いをしたか、どれだけ悔しかったか。それでも、あのステージでトロンボーンのソロを吹くことが入部した時からの目標やったの! それがもう叶わなくなった今、この部活を続ける意味なんてない」


 杏奈が壁の向こうを指差した。同時に、視聴覚室から歓声が上がる。それは杏奈が受けるはずだった歓声だろうか。まんまるとした双眸には涙が潤んでいた。「これを言わせたかったんやろ? 満足?」と彼女が息をこぼせば、拍子に眼の奥で膜を貼った涙が煌めいた。


 奏がかぶりを振って一歩前へ出る。杏奈は後ずさりをするように扉に背中を付けた。


「負ける時だって、悔しい時だってあるに決まってるじゃないですか!」


 奏は大きく身体を震えさせた。肺いっぱいに息を吸い込み、勢いよくそれをまた吐き出す。


「この子には敵わないって思うことくらい誰にだってありますよ! 練習して、練習して、どれだけ努力しても、追いかけていた背中がずっと遠くにあって。一生懸命走っているのに、追いつけない悔しさやもどかしさで、心が折れそうになる時は誰にだってあるんです。……だけど、それで諦めたら本当に何もかもおしまいじゃないですか」


「そうやで。もう私にとってはすべてが終わったの」


「それじゃ、私の気持ちはどうなるんですか?」


「なに? あんたの気持ちって。この問題と関係ないやろ」


「いいえ、関係あります」


「意味分からへん。たちの悪い嫌がらせ?」


「違いますよ」


 奏の言いたいことが分からず、杏奈は髪をかき乱す。乱暴に振り下ろされた手が、扉に当たり激しい音を立てた。


「何が言いたいん? 言いたいことがあるならハッキリ言って!」


 見せかけだけの威勢を放つ杏奈の目を、奏は真っ直ぐに見つめていた。その目は一度もそらされていない。小さく息を吸い込むと、奏の胸が僅かに膨らんだ。それから奏が紡いだ声はあまりに穏やかで、空調と遠い歓声にかき消されてしまうんじゃないかと思った。


「私がこの部活に入ったのは、去年の文化祭で杏奈先輩のベースを聴いたからです」


 奏の言葉に、杏奈の表情から張りが抜けていく。小石を投げ込んだみたいに、涙がポツリと一粒だけ溢れ出した。


「なんで……どういうこと?」


「そのままの意味です。杏奈先輩のベースに憧れて、私は宝塚南を受験しました。ここで、杏奈先輩と一緒に演奏がしたい。杏奈先輩のような格好良いベースを弾きたい。だから、ジャズ研に入ったんです」


 それはかつての杏奈と同じ動機だった。張り詰めていた空気がすっと軽くなっていく。


「なんで私なんか」


「それは……」


 奏はそこで初めて目をそらした。照れたようにほんのりと頬が赤くなる。


「……杏奈先輩のベースの音がお姉ちゃんに似てたからです」


 奏の言葉を聞いて、杏奈の腕が力を失いだらんと下がった。今にも膝から崩れ落ちるんじゃないか。そんな杏奈に畳み掛けるように奏が言葉を続ける。


「私にとって杏奈先輩は特別です! だから、」


 それは杏奈がなりたくてもなれなかったものだった。彼女が望んでいたものとは違うかも知れないけど。だけど、杏奈に奏の気持ちが分からないわけじゃないはずだ。あの頃の自分と奏を重ねているのだろうか。潤んだ杏奈の瞳の奥に、幼い彼女が潜んでいる気がした。


 ――だから。奏の思いは止まらない。


「まだ戦って欲しいんです!」


 楽屋に響いていた重低音はいつの間にか止んでいた。


 奏が自分のお姉ちゃんと杏奈を重ねていたとすれば、杏奈は優しく真っ直ぐで戦いから逃げない先輩であって欲しかったのだろうか。でも、それだけじゃないはずだ。ただ純粋に杏奈のことが好きだったのかもしれない。きっと、お姉ちゃんと同じくらい。


「後輩がここまで言ってくれてるんやで?」


 里帆が杏奈の肩に手をやり、強張った筋肉をほぐすように優しく揉んだ。声にならない声を出しながら、杏奈は首を縦に振る。


「ごめん……私……」


 杏奈の双眸からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。たとえ、杏奈は惨めな敗北者だとしても、それを笑うものはこの部にはいない。誰もが勝つために努力をしている。だけど、残酷にもオーディションはその努力を結果で示さなくてはいけない。そして、その結果は必ず二極化されるのだ。

 

 目を伏せながら、杏奈は知子に向かい声を振り絞った。


「もう少しだけ考えさせてもらっていいですか」


「後悔しない選択肢をして。鈴木さんにはまだ一年も時間がある」


 知子の言葉に杏奈は深く頷いた。それから言葉はなく、杏奈は部員たちに頭を下げる。言いたいことはあるだろうけど、きっと言語化出来ないのだ。この問題は、杏奈自身の問題だ。こちらに謝罪する必要なんてないし、誰もそれを望んでいない。杏奈はそれに気づいているはずだ。ここに残るには、彼女自身が戦い続けようと決めるしかないのだから。


 退出した杏奈と入れ替わりで、ライブを終えた有志バンドの子たちが楽屋に戻ってきた。


「それじゃ、そろそろ視聴覚室の片付けしようか」


 知子の声は少しだけしょんぼりとしていた。不甲斐なさを感じているのかもしれない。


 奏にかけるべき言葉を探しながら、みなこは「はい」と返事を返した。


 特別だった文化祭が終わりを迎える。


  


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