冬休み前は、短縮授業のおかげで練習時間を多く取れるので有り難い。昼過ぎから下校時間までみっちりと活動することができる。
そんな余裕のある練習時間の間を縫って、クリスマスライブがついに週末に迫ったこの日、本番で使用する視聴覚室をライブ仕様へと切り替えるセット作りが行われていた。
「こっちをカウンターにするからテーブルを三つ並べてー」
里帆の指示で七海とめぐが白いオフィステーブルを運んでいる。キャスター付きなので力仕事ではない。
「でもこのテーブルじゃ雰囲気出ないですよね?」
「七海ちゃん、心配しなくてもちゃんと考えてあるで」
七海が訊ねたのは里帆だったが、答えたのは、その背後にいた美帆だった。美容院に行ったのか、髪は少しだけ短くなっていて、今日はアレンジされていない。いつものことながら、姉である里帆も同じ髪型になっていた。もしかして、二人で同じ日に、同じ美容院へ行っているのだろうか。
美帆の手には何やら布が握られていた。
「じゃじゃーん!」
自ら明るい効果音をつけ、美帆が手に持っていた布を運ばれてきた机の上に広げた。
「おぉ! 木目柄の生地ですか!」
「そう! 明るいとちょっと安っぽく見えるけど、本番では照明も暗くなるし、雰囲気出るんじゃないかなって」
「いいアイデアです!」
七海の称賛に美帆が小鼻を膨れさせる。どうやら、これは彼女のアイデアだったらしい。木目柄の生地を纏ったテーブルは、確かにバーカウンターを思わせた。
着々と準備は進んでいく。先程のカウンターの上や背後に並べた小棚に、百円均一で売っていた小洒落た小物たちや空のお酒の瓶などを並べていく。お酒の瓶は、みなこの家の近所の酒屋さんで航平が貰って来てくれたものらしい。ペンダントライトを天井からいくつか垂らして、間接照明を設置すれば、視聴覚室はすっかりジャズバーだ。
ステージの方は文化祭の時と同様の作りになっている。パーテンションを利用した簡易なものだけど、今回はジャズ研が用意した小物のおかげで、文化祭の時とはまた少し雰囲気の違うものとなっていた。
「結構いい感じになりましたね」
「悔しいけど、美帆のアイデアのおかげやなぁ」
短くなった前髪を指でなぞりながら、里帆が言葉通り悔しそうな声を出した。雰囲気の確認のために落とされた照明の中で、つんと張られた彼女の口元の綻ぶ瞬間が、黄色い間接照明に照らし出されて、はっきりと見えた。
「ほら、準備も済んだから練習に行くで」
見られたことに気づいていないであろう里帆は、不機嫌なフリをしながら、何食わぬ口調でみなこに背を向けた。視聴覚室の照明をつけて、注目を集めるように「はーい」と声を上げる。
「それじゃ明日からここでゲネプロしていきます。今日の練習終わりに機材の運び出しも行っちゃうので三十分くらい早めに切り上げるようにしてください」
部員たちの一斉の返事が、ジャズバーに響いた。
*
里帆の言いつけ通り、早めに練習を切り上げた一年生は、つかの間の休息を取っていた。陽葵が来ると知ったせいか、佳奈だけは小スタジオで個人練習を続けているけど。やはり、かなりライバル視をしているらしい。
二年生たちも既に練習を切り上げていたようで、大スタジオには誰もいなかった。同じく休息を取っているのかもしれない。機材を運ぶ労力を、上級生は一年生よりもよく知っている。
お手洗いへ向かおうとしていたところ、ふと三年生の教室から話し声が聞こえてきた。覗き見るつもりは無かったのだけど、お手洗いに行く為には、そこを通らねばならず、その上、半開きになっていた扉から中の様子が偶然見えてしまった。
教室では引退した三年生のトロンボーン奏者、健太と美帆が仲睦まじく話をしていた。二人が付き合っていることは自明のことだったので、それ自体に驚きは無かったのだが、みなこの心が動揺したのは、二人のその関係をどこか羨ましく見ている自分がいたことに気づいたからだった。
もちろん、仲の良いカップルを見て、羨ましく思うのは特別なことでも可笑しなことでもない。奏や佳奈だって、いつか二人をそういう風に見ていた。自分が一般的な女子高生であればあるほど、そういう願望をうちに秘めているという事実は否定できなくなる。
ことさら、みなこはそういうことに興味がある方では無かったし、難しいものだと認識していたが、彼氏が欲しいか欲しくないか、と問われれば、「まぁいても良いのでは?」くらいの回答をするくらいには思っていた。
けど、教室で話す二人を見て、過ぎったのは先日のコートを着た大人っぽい航平の姿だった。二人で歩く姿は恋人同士には見えていなかったはずだけど、そう思っているのはそうであって欲しいと自分が望んでいたからなんじゃないだろうか。
そして、それは、そう見られたくないではなく、そう見られると困るからだ。航平のことを意識していないつもりの心と第三者の意見がちぐはぐでは困るから。
「清瀬ちゃん?」
後ろから声を掛けられ、思考が遮られる。振り返ると杏奈がすぐ側にまで来ていた。これから運搬を行う為か、髪が一つに縛られている。
「お手洗い?」
「あ、そうです」
「私もや」
ニコニコと口元を綻ばせながら、杏奈は教室の方を指差した。杏奈の表情は、からかいではなく、微笑ましさをより含んでいた。
「美帆先輩ですか?」
「そうそう、ホント仲ええよなぁ」
「そうですね」
「あれぇ、羨ましそうな顔してるでぇ」
「別にそういうんじゃないですから」
「そうなん?」
杏奈はつまらなさそうに声を平たくした。こちらの心象を探るように、目を細めていたけど、「杏奈先輩はどうなんですか?」と歯向かったみなこの言葉を受けて、逃げるように夕陽が差し込む教室の方を切なげに見つめ、浅いため息を漏らした。
「私は羨ましいって感情が芽生えるほど、誰かを好きになったことがないかな」
存外の真面目な回答に、みなこは少し面食らう。一瞬、チクリと胸に棘が刺さった感覚になったのは、その言葉がみなこのような強がりや嘘、ましてや冗談などでなく、本音のように聞こえたからだ。「ほど」という言葉に込められた真意は、羨ましいと思うために資格が必要だということだろうか。
それに、と彼女は続ける。
「私が誰かを好きになるなんておこがましいやろ?」
自嘲気味に笑みを浮かべて、杏奈は軽く上履きを鳴らした。廊下の奥へかけていきたい気持ちを抑えているように見えた。
「どうしてですか?」
「後輩にも迷惑を掛けてしまうような私が恋をするなんて百年早いかなって」
「百年待ったら死んじゃいますよ」
「もー、清瀬ちゃんは真面目やなぁ」
冗談混じりに告げたみなこの言葉に、杏奈も冗談混じりで返してきた。普段はそこにはない束ねられた髪を指先に巻きつけながら、杏奈はとつとつと真っ赤に染まった廊下に言葉をこぼす。
「一度でも誰かを好きになれば、羨ましいって感情を抱くんやろうけど」
「杏奈先輩はそういう人いそうに見えてました」
「彼氏がいないのは寂しぃから付き合っちゃえ、みたいな?」
「そうですね。ちょっと、遊び人みたいな感じです」
みなこの言葉を受けて、杏奈がぷっと笑いを漏らす。「恋愛体質みたいなことを言いたいんやろ? まぁでも否定は出来んかな」、と目元を拭った。
「好きだの嫌いだのと盛り上がるのは元々嫌いちゃうし、そういう風になってないのは偶然なんやろなぁって思う。これまでは、ベクトルが恋愛に向いていなかっただけ。中学の頃は吹部があったし、高校ではジャズ研に邁進出来てたから。だから、谷川ちゃんに退部を止められてなかったら、持て余した時間で恋愛をしていたかもしれん」
腕を腰の後ろで組んで、杏奈は消えた蛍光灯を見つめた。薄暗さが窓の向こうから夕陽に身を潜めて忍び寄る。
「でも、もし辞めていた未来があったとして、本当に好きって気持ちで恋愛を出来てたかは分からんな。だって、そういう人たちは寂しさを恋心で埋めたがるものやろ?」
杏奈の双眸がゆっくりと細くなった。笑みとは呼べないほどの僅かな綻びが、みなこの返答を待っている。
「美帆先輩もそうだと言いたいんですか?」
「ううん。あの子は違うかな。そういう人っていうのは私みたいなヤツのこと」
長い影の首が左右に揺れる。
「美帆はきっと、与えること、与えられることの分別がちゃんとついてる。自分の欠けた箇所を埋め合わせるんじゃなく、相手の心の隙間を埋めて上げたいと思ってるはず。だって、恋人なら彼氏のあとを追いかけたいと思うはずやと思わへん? けど、美帆の希望校は、中村先輩が進学する大学じゃない」
閉じた瞼が夕陽の赤に染まっている。ひんやりとした廊下に僅かな温もりが溶けていく。
「来年は大学生と高校生、自然と会う機会が減っていく。その一年を乗り越えても、二人は同じキャンパスで再会するわけじゃない。別に遠距離ってわけちゃうけど、いまの二人からすれば随分遠い距離に思わん?」
淡々と杏奈の口から告げられる二人の未来予想図は、どこか寂しくて切なくて。卒業までのカウントダウンが、まるでこの世の終わりのように感じられた。二人に取って、いまこの瞬間の教室での時間がどれだけ大切なのか。想像をするだけで心臓の底がそわそわと綿毛で撫でられたような違和感を覚える。
「……あの二人は、いつか自然消……、」
みなこの言葉を遮るように杏奈が首を振る。
「それなのに、二人はどこか長続きしそうなんよなぁ。それはやっぱり、愛の在り方を分かってるからちゃうかな。求めてばかりだと、相手から与えられないと嘆きや寂しさが増していくけど、与えるものだって分かってるから、苦痛にならへん。それを分かっていない私は、人を好きになる資格がないってわけ。よく聞く話やろ? 相手に与えようとしない人の話。それなのに求めてばかりで泣き叫んで、自分の痛みだけを主張するタイプの人。私はそうなりそうな気がするから、無意識のうちに恋愛を避けてるのかも」
杏奈の言葉に、みなこは自然と頷いていた。それは杏奈の言うことが正しいと肯定したからなのか。自分にもそういう所があるかもしれないと思ったからなのか。
求めてばかりの人の話は確かに良く耳にする。それはクラスメイトや中学の知り合いという身近な所で。そういう話を聞くたびに、どこかに違和感を覚えていた。そうであるべきではないという漠然とした認識と自分がそうではないと言い切れない恐れが、恋愛というものをみなこからさらに遠ざけていた。自分が恋愛というものを尊く見すぎているのかもしれないけど。
「恋に臆病なのは弱い人だって思われるかもしれんけど、自分の愚かさに気づいてのことなら、無鉄砲に相手に求めてばかりの人よりも賢いと思わへん? まぁ、そうであって欲しいと思ってるだけかもしれんけど」
杏奈は言葉尻に自嘲を込めた。それから思い出したように「あ、お手洗いに行くんやった」とおどけた表情で廊下を進んでいく。
みなこも自分の本来の目的を思い出し、杏奈のあとに続いた。夕暮れの教室で話す二人の姿を扉越しに振り返り見て想像する。杏奈はきっと、自分たちが想像する恋愛像は子ども地味たもので、二人はもっと大人な関係にあると暗に言いたいのかもしれない。
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