熱々の鉄板の上でデミグラスソースが元気に飛び跳ねている。ワゴンに乗って運ばれてきたハンバーグを見て「ようやくご飯やー」と七海が舌鼓を打つ。午後の練習は適度な休憩をはさみながら、二十時手前までみっちり行われた。そこからホテルへチェックインに向かい、ようやく夕食の時間だ。七海じゃないが、さすがにお腹が空いた。
チェックイン後は自由時間になっていて、晩御飯は各自に任されていた。外食する場合は複数人で、十時過ぎまでにホテルに戻り、川上にしっかりと報告をすること。それを守れば、どこへ食べに行っても構わない。コンビニで済ませる者もいるし、スーパーに惣菜を買いに向かった者もいる。みなこたちは、近くのハンバーグレストランへ来ていた。
「チーズ入りはみなこやろ?」
「あ、うん」
佳奈が「それはこっちです」と店員に指示を出す。彼女は意外と鍋奉行タイプかもしれないとみなこは思った。
「店が空いてて良かったね」
「さすがにもう九時前やしな」
ナイフとフォークを隣に回しながら、奏とめぐがそんな言葉を交わす。その間に挟まれた七海は、肉汁が溢れるハンバーグの方しか見ていない。まるで餌を前に待てをさせられている犬のようだ。全員にナイスとフォークが行き渡ったところで、奏が「いただきます」と手を合わせた。それを合図に可愛らしい犬は、待ち遠しかったとハンバーグを切り分け始める。
「さぁ、練習のあとの美味しいご飯ー」
「七海は食べるの好きやな」
「そりゃこの時間の為に生きてるんやから」
「太りにくい人はええよね」
いやみったらしいめぐの言葉などなんのその、七海は美味しいそうにハンバーグを頬張る。切口から垂れた肉汁が、熱々に鉄板に触れて、ジリジリと火花のように飛び散っていた。
「佳奈はライブハウスで演奏してどうやった?」
隣に座る佳奈の方を向いて、みなこはそんな質問をした。佳奈の前に置かれているのは、大根おろしの乗った和風ハンバーグだ。佳奈はナイフとフォークを鉄板の上にハの字で置いた。
「楽しかった。みんなと演奏も出来たし。でも、私もまだまだやなって思った。上手くなるって難しい」
黒く澄んだ瞳の中で店内の明かりが静かに揺れる。佳奈の中にあるのは、練習中、川上に言われた言葉だろう。まるで、あの日のやり取りを見ていて、佳奈のうまくなりたい気持ちを理解しているように、最近になってから川上の佳奈に対する指導のギアが上がっている気がした。
「佳奈は十分に上手いって。むしろ反省しなあかんのは私らの方やから」
フォークで上手くグリーンピースとコーンの添え物をすくい上げた七海が、照れながらそう告げた。彼女なりに励ましているつもりなのだろう。
「ううん。私、もっと上手くないたいねん。それでもっとすごい舞台で演奏がしたい」
上手くなることへの執着。佳奈はそいつに取り憑かれてしまったようだった。その事実をみなこは嬉しく、そして少し誇らしく思う。だってそれは佳奈と言葉を交わしぶつかりあった結果だから。だけど、同時にその感情は恐怖にも似ていた。自分は、佳奈の考えを大きく変えてしまったのだ。あの時の言葉たちは、感情だけで折りあげられたもの。感情はいずれ理性によって燃やされる時が来るかもしれない。だから少し恐ろしい。
「あーやっぱり佳奈はすごいな」
七海は佳奈の心境の変化に気づいてなどいないだろう。みなこが上手く間を取り持ってくれたくらいの認識のはずだ。その気楽さが彼女のいいところなのだが。言葉を続ける七海の表情は、呑気なものから少しだけ凛々しくなった。
「でも、うちもがんばらんと! 今は健太先輩にドラムを任せる曲も多いけど、そのうちどんな曲でも任せてもらえるようになるで!」
「うん、がんばろう」
佳奈が優しげな笑顔を七海に向けた。春先では考えられなかったことだ。みなこが切ったハンバーグの切り口からチーズがとろける。それを口へと運び飲み込めば、空腹の胃袋にほんのりと甘い肉汁が染み込んでいった。
*
「ちょっと相談があるんだけど」
奏が至極真面目な顔つきでそう言ったのは、ハンバーグのプレートがすっかり空になった頃合いだった。ほんのさっきまでご飯を食べながら馬鹿げた話をしていたので、みなこは少し面を食らった。
「どうしたん?」
めぐが七海の肩越しに奏の方を覗き込む。勇気をもって切り出したのだろうけど、テーブルを囲む四人の目が一斉に奏に向き、彼女は少し恥ずかしそうに俯いた。
「相談があるなら聞くで。話してくれて嬉しい」
みなこがそう言うと、奏は「本当?」と少しだけカールした髪を揺らした。
「うん。もちろん聞くで! うちがどんな悩みも解決したる!」
「あんたは黙って聞いてればええの」
「なんでうちに発言権がないん?」
めぐが七海のTシャツの襟を掴み、自分の方へ引き寄せた。今度はまるで仔猫だ。細い指をなめらかな髪に滑らせながら、「上手くは言えないんだけど、」と奏は話し始める。
「実はね。杏奈先輩のことで悩んでて」
「杏奈先輩ってベースの?」
「うん」
めぐの問いに奏が頷く。杏奈は奏にとって直属の先輩だ。そこで言葉を詰まらせた奏に、みなこは訊ねる。
「その杏奈先輩がどうしたん?」
「なんというかね。ちょっとだけそっけないというか」
「そっけない?」
基本的に奏は可愛らしく誰からも好かれるタイプの人間だとみなこは思っている。それに気を使う性格だからあからさまに人から嫌われる感じでもしない。奏が一方的にそう感じているだけなんじゃないか、と思ったところで、七海がお気楽な声を出した。
「そっけないって昼間の注意みたいなこと? あれは仕方ないんちゃう? みなこだって伊坂先輩に結構言われてたで!」
「私のことはええやろ」
「チャレンジせな成長できひんでー」
七海はわざと声を低くした。真似しているつもりなのだろうが全然似ていない。奏が少し困った顔を浮かべたのを見て、めぐが七海の口を手で塞いだ。
「この子の話は無視して。奏、続けて」
「昼間のは違うくてね。七海ちゃんの言う通り、ちゃんとしたアドバイスだと思ってる。むしろ、セッションの時とかは普通なんだよ。……だけどそうじゃない普段のちょっとした仕草とかが……」
奏の言葉尻がしぼんでいく。確かにセッションの時、奏にアドバイスをする杏奈の様子は他の部員に対するものと変わらないものだった。杏奈は先輩後輩に関係なく誰にでもちゃんとアドバイスをするタイプだ。
むしろ昼間は、杏奈がそっけないというよりも、奏が杏奈に対して気を使いすぎている印象を受けた。
「鈴木先輩ってどんな人なん?」
デザートに運ばれてきていたパフェを突きながら、佳奈が小首を傾げた。てっぺんから垂れた真っ赤なチョコレートソースが白い生クリームをじわじわと侵食している。その視線はこちらに向いていた。
「うーん。私もそんなに話したことないけどさ」
セクションが違うと、どうしても話す機会は多くない。二人きりになったのだって、合宿前の朝早くにたまたま部室で居合わせた時くらいだろうか。それでも普段は小スタジオで練習している佳奈よりかは接する機会が多いかもしれない。
「でも明るい人やんな。後輩にも分け隔てなく接してくれるというか」
もたれ掛かっている七海の髪をそっと撫でながらめぐが呟いた。ふーん、と喉を鳴らしながら、佳奈の視線が今度は奏の方に向く。
「谷川さん、そっけないって具体的にどんな感じなん?」
「うまく説明出来ないんだけど、話しかけても本音で話してくれていない気がするというか。距離を置かれている気がするというか」
そういう違和感に対して奏は人一倍敏感なのかもしれない。転校が多かった彼女は、いつも人の顔色を伺う性格なのだ。それは奏のいいところ。そうと分かっているのだろう、めぐが困った様子で眉根を下げた。
「奏の気にしすぎなんかな?」
奏は相手が気を悪くしていないかを考え、慎重にコミュニケーションを取る。だから逆に意図のない相手の仕草を、必要以上に気にしてしまっているんじゃないか。めぐの言葉にはそういうニュアンスが込められている気がした。
「そうだといいんだけど。きっと、杏奈先輩も私のこういう性格に気を使ってくれてるのかも」
奏は口端を重々しく持ち上げた。無理に作った笑顔に違いない。それに気づいたのか気づいていなかったのか、佳奈がポニーテルを揺らす。
「でも、その先輩って人に気を使うタイプの人なん?」
「うーん。そういう印象はないかな」
少ない会話から推測するだけで申し訳ないが、むしろ土足でズケズケと入り込んで来るタイプな気がする。それを不快に思わせないのは彼女の本質的な才能だと思うけど。真似しようとは思えない。
「ごめんな、変なこと言って。きっと私の気のせいだと思うから」
そう言って、奏はメニュー表を手に取った。「私もデザート食べようかな。みんなも一口食べる?」とわざと声を弾ませた。それは空気を重たくしてしまった罪への報いなのだろうか。メニュー表で隠れた奏の表情は分からない。
だから奏がわざわざ相談だとしてきてくれたことを、気のせいで収めるのは少しだけ気が引けた。彼女の性格を考えれば、こうして切り出すのはかなり勇気がいることだと思う。それでも、今のみなこには出来るアドバイスは無いように思えた。そんな自分が不甲斐ない。
落とした視線の先で、冷めたプレートに乗ったチーズのかけらが茶色く焦げていた。
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