ブルーノート

~宝塚南高校ジャズ研究会~
伊勢祐里
伊勢祐里

一幕8話「心配」

公開日時: 2020年12月29日(火) 19:10
更新日時: 2020年12月31日(木) 23:56
文字数:3,321

 机の上に置いたスマートフォンが煩く振動したのは、夜の九時を過ぎた頃だった。お風呂上がりでまだ髪も乾ききっていない状態のまま、ベッドの上に腰を下ろしていたみなこは、柔らかいマットレスで「よいしょっ」と弾みをつけて立ち上がる。


 画面に表示されていたアイコンは佳奈のものだった。佳奈から電話なんて珍しい。全くないということはないけど。連絡を取り合うのは、どこかへ出かける時や練習の確認事項がある時など、業務連絡が多いのは確かだ。


 七海のように用もないのにかけてくる人もいるけど、それとは真逆の人だっているわけで。おそらく自分は七海とは反対側の人間だ。それに佳奈から電話が少ないのも意外じゃない。春先のイメージだと孤高な雰囲気で人とつるむタイプじゃないから、わざわざ積極的に電話をしてくるタイプには見えなかった。けど、今なら分かる。佳奈からの電話が少ないのは、シンプルに照れくさいだけなのだ。 


「もしもし、どうしたん?」


 スマートフォンが濡れないようにバスタオルで髪を拭きながら電話に出る。ひんやりとした感触がほわほわとした手と頬の熱を奪っていった。


「用ってほどのことちゃうけど」


 照れた彼女の表情が思い浮かぶ。ちょっとだけ意地悪なことを言いたくなったけど、みなこはその言葉を飲み込んだ。わざわざ佳奈から電話をかけてきたということは、それなりの理由があるからだ。そして、その理由は用意に想像がつく。


「オーディションのこと?」


「うん」


「やっぱりなんかおかしいよな」


 何時間も待たされた末の合格発表延期。それに不可解なのは、めぐが最後まで戻って来なかったことだ。結局あの後、一、ニ年生は帰らされて、三年生は会議という名目で学校に残っていた。そしてどうしてか、そこにめぐも同行した。


「伊藤さんから何も聞いてないん?」


「メッセージは何も来てへんよ」


 心配になってアプリ内に打ち込んだ文章は、まだ書きかけのまま保存されている。送信できなかったのは、何を心配しているのか自分でも分からなくなったからだ。どうして合格発表が遅れたのか、どうしてめぐだけが三年生に混ざって会議に出席しているのか。聞きたいことはたくさんあったけど、それは自分のいやらしい興味にしか思えなかった。


 そして、それを無頓着に聞くことはすごく不躾なことのように思えた。


「なんで伊藤さんは残ったんやろ?」


「うーん。学年リーダーやから? でも、それなら里帆先輩も残らなあかんし」


 きっと、佳奈がこうして電話してきたのは、めぐのことを心配してのはずだ。だけど、自分と同じようにめぐには直接聞くことは出来ないと思ったのだろう。額にじんわりとかいた汗を拭い、みなこはまたベッドに腰を下ろす。耳元に佳奈の甘い吐息が吹きかかった。


「去年はこんなことなかったって里帆先輩は言ってた」


「大会やから選考が難航してるってわけじゃないってこと?」


「うん。それに、仮に選考が難航してるにしても、どのみち説明がないのはおかしいと思う」


 どうして会議をしているのか、何を迷っているのか、その辺りの説明が知子とみちるからなかった。けど、それには説明を出来ない事情があるのかもしれない。少なくとも、三年生は招集されているので、最上級生の間では情報の伝達は行われているはずだ。それが自分たちに降りてくるのは明日なのか、明後日なのか。理由はどうあれ、上級生だけで会議をすること自体は悪いことではないはず。


 佳奈が言っているのは、やはりそこにめぐだけがいることだろう。だけど、それは自分も参加したいだとか、不平等だとかと言っているわけじゃない。強くなった佳奈の語気には、優しさが込められている気がした。


「めぐちゃんのこと心配してるんやな」


「私が伊藤さんのこと心配してたらおかしい?」


「ううん。佳奈は優しいから」


 褒められたことが恥ずかしいらしく、佳奈の声が途切れる。少し荒くなった息が、スピーカー越しに聞こえてきた。思わず、悪戯な言葉が口から飛び出す。


「照れてる?」


「別に照れてへんから」


「ふーん」


「本当に照れてへんから」


 怒った口調に変わって、佳奈は「もー」と牛のような怒りを吐き捨てた。立ち上がったのか、電話越しでゴソゴソと音が聞こえる。


「伊藤さん一人で大丈夫やったかな」


「そう思うんや」


「やっぱり私が心配してるのはおかしい?」


「そうちゃうって」


 おかしいというよりは、嬉しいに近い感情だろうか。こうして、みんなと佳奈との距離がぐっと近づいていることを実感すると、胸がドキドキと高鳴る。身体を満たす幸福感は、なんとも形容し難いものだった。


「みなこは心配じゃないん?」


「どうやろ。めぐちゃんは、何かあったらちゃんと相談してくれる子やと思うから、とりあえず様子を見ようかなって」


「まあ、みなこがそう言うなら」


 浅いため息と一緒に、紙の擦れる音が聞こえた。捲れているのは、ノートか楽譜だろうか。プロになるためには実力だけではなく、音楽理論を理解することも必要。佳奈は学校の勉強はもちろん、相当な時間を音楽の勉強に使っているようだ。


「でも、リーダーに選ばれて色々背負ったりしてへんかなって心配で」


「保育園の演奏会のこととか?」


「それもかな。曲決めの会議の時とかも頑張ってたし。それに、伊藤さんは当日も中心になって色々やってくれそう」


「そうかもしれんけど、佳奈はアレンジとかやってたやん。私なんか、実質副リーダーのはずやのに、名目通り書記しかしてへんし」


 里帆に演奏会のことを聞いてから、一年生だけで行った会議。航平や七海は、積極的に意見を述べるタイプで、その意見を中心になってまとめるのがめぐの仕事だった。それに比べてみなこは、色々考えることはしてたものの、いざ会議の場になると発言することが出来ず、ホワイトボードにみんなの発言を淡々と板書していただけだった。


「それだって、重要な役割やと思うけど?」


「板書するくらい誰にだって出来るって」


「そうかな」


「変なお世辞はええから」


「そういうつもりじゃないんやけど」


 ムッとした佳奈の表情を想像して、みなこはベッドの上に倒れ込む。柔らかい毛布の感触が、濡れたバスタオル越しに首元を撫でた。  


「じゃあ、どういうつもり?」


「それは……」


 思わず口調が喧嘩腰になってしまい、「いや、そういうつもりちゃうかってんけど」とみなこは慌てて取り繕う。電話越しの彼女の表情は、ムッとしたものではなく困り顔だったらしい。


「ううん。上手くは言えんけど、みなこも頑張ってると思う。私と大西さんの時もそうやったし、この間の鈴木先輩のことだって」


「佳奈と七海の時はそうやったかもしれんけど」


「やろ?」


 少しだけ佳奈の声が明るくなった気がした。


「なんで嬉しそうなん」


「だって、私がみんなと仲良く出来てるのはみなこのおかげやから」


「どうなんやろな」


 確かに、佳奈がみんなと仲良くなったのは、自分のおかげなのかもしれない。でも、それはたまたま上手くいっただけだ。杏奈と奏の時は違う。自分はただの傍観者の一人だった。


「でも、心配してるんはそれだけとちゃうくて。伊藤さんは学年リーダーになって普段から気を張ったりしてるんちゃうかなって」


「それはあるかもしれんな」


 きっと、めぐは真面目で頑張りすぎる性格だ。佳奈が心配しているのはそういうとこなのではないだろうか。だったら副部長になる自分は、めぐのサポートをしなくてはいけない。それが先輩から与えられた役割ならば、「大丈夫?」とめぐに声をかけるべきなのだろう。


 でもやっぱり、それはいつもの自分らしくはない。先輩からの期待のプレッシャーは背中を押してくれるけど、やっぱり積極的に動けるタイプではないのだ。


 身体を横に倒せば、腕に濡れたバスタオルが纏わりついてきた。それ以上、踏み込まないでと誰かに腕を掴まれているみたいだと思った。


「……とりあえず、また明日。朝にはめぐちゃんからメッセージ入ってるかもしれんし」


「うん。おやすみ」


 机の上に飾っている写真に目が行く。五月にあった「花と音楽のフェスティバル」で撮った写真は、ラベンダーの花の前で四人がぎこちない笑顔を浮かべている。確か、めぐから教えられたラベンダーの花言葉は「期待」だった。


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