楽屋は緊張感混じりのざわめきで満ちていた。オーディションは全員の番が終わり、里帆たちが選考を行っている。キャラメルマキアートの甘い香りが鼻をかすめるのは、選考を待っている間、カフェの飲み物を買っても良いことになったからだ。店が儲かるのは横山としてはありがたいことらしい。
「すみれちゃんも何か買ってこれば良かったのに」
「あ、めぐ先輩。ちょっと胸がいっぱいで」
「緊張してるん?」
「……はい」
「私の一口いる?」
「それじゃ」
めぐがほうじ茶ラテをすみれに手渡す。真っ白な湯気がすみれの眼鏡のレンズを曇らせた。温かいです、と吐き出した吐息が黄ばんだ天井に消えていく。
すみれがビッグバンドに受かれば、めぐはどうするつもりなのだろうか。もちろん、実力的にコンボはめぐが勝ち取るはず。だけどビックバンドのピアノの座席は一つしかない。去年の知子はトロンボーンの演奏が出来たけれど、めぐが他の楽器を扱えるという話は聞いたことがない。
すみれがビックバンドに受かるということは、ジャズ研の求める人前で演奏し得る最低限の実力が備わったということになる。人数の少ない宝塚南にとって、ビックバンドを成立させるために演奏者の確保は必要不可欠だ。
もちろんコンボだけで出演することも出来るのだけど。それは全員で最優秀賞を勝ち取るという自分たちの信条に反することになる。誰も仲間はずれにはせず、部員全員の音を一つにしなくてはいけない。
楽屋の扉が開き、先行を終えた里帆と大樹が楽屋へ入って来た。少し賑やかだった室内がしんと静まり変える。
「それでは、週末のイベントに出演するコンボとビックバンドのメンバーを発表します。呼ばれた人は返事をしてください」
優しい里帆の双眸が部員を睥睨して、ゆっくりと手元の紙に視線が落ちる。A4のルーズリーフに手書きでイベントのメンバーが記載されているらしい。
「まずはビックバンドに追加合格したメンバーがいますので発表します。ピアノ、雨宮すみれ」
「はい!」
通りの良いハツラツな声が楽屋に響く。安堵したすみれの肩を、めぐがポンと一つ叩いた。
「それに伴って伊藤ちゃんには、ビックバンドではサックスセクションに回ってもらいます」
「えっ! めぐちゃんってサックス吹けるん?」
思わず声を出してしまったみなこの方へ里帆の視線が動く。知らなかったことが意外だったと言いたげに眉根がピンと跳ねた。
「ちなみに、伊藤ちゃんにはオーディションとは関係のないところで、サックスの演奏を聴かせて貰ってるから、腕の方は問題なし」
「めぐちゃん、いつから練習してたん?」
「少し前から佳奈にサックスの練習付き合ってもらっててん。それに音楽教室も紹介してもらって」
二人が度々、先に帰ったりすることがあったことに納得がいった。すみれの入部からビックバンドでピアノのポジションが被ることを見越して準備していたらしい。話が聞こえたのか、佳奈はこちらをみやって、恥ずかしそうに頬を掻いた。
「それじゃ、続いてコンボのオーディション結果に参ります」
先程よりも一層緊張感が高まった。里帆の唇がわずかに開き空気を吸い込む。紡がれる声に全員が耳をすませた。
「ピアノ、伊藤めぐ。サックス、井垣佳奈。ドラム、大西七海。トランペット、沖田美帆。ベース、谷川奏。ギター、伊坂大樹」
次々と呼ばれていくコンボメンバーの中に自分の名前はなく、みなこは肩を落とした。まだまだ大樹に及んではいないことは分かっていたけれど。受かるつもりで望んでいるオーディションに落ちるのは、精神的なダメージがゼロなわけじゃない。
みなこの落胆を他所に里帆が最後の合格者を告げる。だけど、里帆の口から紡がれた名前に空気が一瞬にして凍りついた。
「……トロンボーン、鈴木杏奈」
「え?」
感嘆の声は杏奈から漏れたものだった。前回の花と音楽のフェスティバルの時と変わらないメンバー。いつも通りの布陣。それを予想していた誰もが驚いたはずだが、名前を呼ばれた当人は驚きを隠しきれなかったらしい。
「ちょっと里帆、間違えてない?」
自分が呼ばれるわけがない、とたかを括っていた杏奈が座椅子から立ち上がる。ギギーと金属の足が床に擦れて鈍い音を立てた。
「大事なオーディション結果、間違えるわけないやん」
「いやいや、待って、待って。トロンボーンやで」
「そう。今回のイベントには杏奈に出てもらう」
「いや、わけわからんって。いつも通り桃菜でええやろ」
全員の目が楽屋の隅にいた桃菜の方へ向いた。化粧台の蛍光灯がまばゆく青白い肌を照らしている。
その視線を引き戻すように里帆が声を発した。
「杏奈はオーディションの審査員じゃない」
「やとしても。自分で言うのもなんやけど、私と桃菜の実力が違うのは明白やろ」
「これは決定事項やから」
杏奈が下級生をかき分けて、食い下がる里帆に詰め寄る。徐に伸びた手は胸ぐらではなく、里帆の二の腕をTシャツ越しに掴んだ。薄桃色の生地に皺が寄る。
「この部の音楽に桃菜の音がどれだけ大切か分かってる?」
「もちろん」
「だったら、私を選ぶ理由が分からない」
ひどく冷たい目が杏奈を見つめていた。手に持っているルーズリーフは震えている。その震えの正体は腕を掴む杏奈の緊張だった。長い睫毛で双眸を覆い隠してから、里帆は迷うことなく訊ねられた理由を告げた。
「今の桃菜にコンボのトロンボーンを任せることは出来ない。ただ、それだけ」
「そもそも、私はトロンボーンでオーディションを受けてないやろ。桃菜がどうしてもというなら佳乃ちゃんにするのが筋なんちゃうの?」
「桃菜の次にトロンボーンの実力があるのは杏奈。それはビックバンドの演奏で分かってる。佳乃ちゃんも上手やけど、まだ杏奈の実力には届いてない」
杏奈がコンボのトロンボーンを拒む理由をみなこは理解しているつもりだ。どういう思いでベースに移り、ベーシストとしてオーディションに望んでいるかを分かっているから。それにこんな形で桃菜に勝ちたいと思ってなどいなかったはず。それを里帆も分かっているはずなのに。
「……納得できない」
里帆の腕から離れた杏奈の手が力なく下がる。彼女は振り返って楽屋の隅にいる桃菜を見つめた。
「桃菜もなんとか言ってぇや! このままじゃ桃菜はコンボでイベントに出られへんねんで」
荒らげられた声を聞いて桃菜は目を伏せた。震える唇を白い歯が噛みしめている。細い腕を束ねる肌に張り付いた澄んだ冷気は、やたらめったら透き通っていて、彼女の身体の中に巡っている機微を顕にしているように見えた。何かを告げようと思ったのか、桃菜は肺に空気を取り入れて、胸がわずかに膨らむ。けれど、吐き出された息は言語化できていないうめき声のような小さな声だった。
「……桃菜!」
まるで杏奈の催促を合図にしたみたいに、桃菜は楽屋を飛び出した。その際、杏奈が座っていた座椅子に衝突したのか、ひどく痛々しい音を立てて椅子が床に倒れ込む。
「美帆、一応追ってくれる?」
「うん。任せて」
化粧台の上に置かれていた桃菜のカバンを手に取って、美帆が桃菜のあとを追う。「ごめんね」と謝罪を告げた里帆に、「オーディションの結果は妥当やと思うで」と美帆は言い残して行った。
「笠原先輩、大丈夫ですか?」
練習を再開するように促し始めた里帆に、佳乃が問いかける。桃菜のことをずっと気にかけていた彼女は、今回の結果に責任を感じているのだろう。それを分かってか、里帆は「美帆が追ってくれてるから大丈夫」と明るい笑顔を作った。
「この辺に明るくないし、たぶんホテルに戻ったんやろと思う」
「そうですか」
「ほら、佳乃ちゃんも週末イベントやで。頑張らないと」
貴重な合宿の時間を無駄には出来ないと、部員たちは気持ちを切り替えて、ステージの方へと向かう。杏奈が抗議しても覆らなかったことをとやかく言っても、どうしようもないことを分かっているらしい。
「本当に私でええの?」
「今の桃菜の音をお客さんに聴かせるわけにはいかない。本当の姿じゃないあの子を晒すのは……」
「私は身代わりってことか」
「その言い方は悪過ぎるでしょ」
他の部員に聞かれないようにヒソヒソと行われた会話を、みなこはまた聞いてしまった。盗み聞きが得意だというのは、否定できなくなりつつあるらしい。
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