セッションは十八時半頃に終わり、そのあとは個人練習となった。大会が近いということで延長されているが、通常の下校時間はちょうどこの時間。用事のある部員は、ちらほらと帰宅の準備を整えはじめていた。
「清瀬ちゃん」
手早く片付けを終えた里帆がこちらに寄って来た。今日の彼女はヘアアレンジがされていない。胸元の辺りまで真っ直ぐ伸びた髪は、一度も染められたことのない綺麗な黒色をしていた。
さっきの話だろうと思い、「今、片付けるので少し待ってください」とみなこはギターのソフトケースのチャックを開く。丁寧に仕舞いながら、「どうしますか?」と目線を彼女の方に持ち上げた。
「どうしようか? 教室も鍵かかってるやろうし、外やと流石に寒いやろうから。どっかお店行く?」
「そうですね。それでいいと思います」
片付け忘れているものが無いかを確認して、アンプに立て掛けていたスクールバッグを手に取る。熱心に練習しているところに声を掛けるのも悪いので、目があった奏にだけ手を振って別れを告げた。
「清瀬ちゃんって家、川西市の方やんな?」
「はい」
「ほんなら駅近くの所でええかな?」
「あの辺りってお店ありますか?」
雲雀丘花屋敷駅の周辺は住宅街で、ファミレスやファストフード店がある印象はない。コンビニはあるけれど。いつも利用している改札の反対側も、同じように家々が立ち並んでいるはずだ。
「喫茶店ならあったはず」
*
やって来たのは、雲雀丘花屋敷駅のほど近くにあるレンガ調の小さな三階建てのオフィスビルの一階に入った喫茶店だった。
赤いテント屋根の上に灯る紫色の細いネオンが、薄暗い線路道を照らしている。シックなメニューボードとレンガ調に馴染む茶色で統一された外装は、所謂純喫茶だった。
大人っぽい装いと夜闇の中に佇むどこか不思議な空気感に、みなこが入ることを躊躇していると、里帆が率先して店の中へと入って行った。カラランと音を立てた扉が半端な所で止まったかと思えば、「心配せんでもお金は出すから」と里帆がこちらを見て笑みを浮かべた。
「よく来られるんですか?」
「ううん。存在は知ってたけど、来るのは初めてやで」
店内も外観通り、落ち着いた雰囲気だった。臙脂色の革が張られた窓際の席に座り注文をする。里帆はオレンジジュース、みなこはホットコーヒー。メニュー表に写真が載っていた苺ムースの乗ったホットケーキが気になったけど、奢って貰えるということで遠慮した。
「そう言えば、伊坂が話あるって言ってたけど」
ぼんやりと眺めていたメニュー表を、プラスチックの台へと戻しながら、里帆がこちらに視線を向けた。天井から吊るされたペンダントライトが、彼女の瞳に小さな点を落としている。
「あー、それは……。たぶん、里帆先輩と同じ話やと思います」
「ってことは、オーディションのことやんな?」
「はい、そうです」
はっきりと返事をしたみなこに、里帆は少し驚いているようだった。一瞬まん丸くなった目が、じわじわと細くなっていく。笑いに変わる一歩手前で、「清瀬ちゃんが乗り気なのは珍しいな」と息を漏らす。
「そうかもしれないですね」
「自覚症状あり?」
「ありです」
ケラケラと里帆が笑いながら目尻を指で拭う。どうして自信満々なのだ、と言いたげだ。
「そんなにおかしいですか」
「そりゃ、清瀬ちゃんらしくなさすぎて。でも良かった。また下手な説得をすることになるかもしれないって思ってたから」
「杏奈先輩の時のことですよね?」
「あの時は清瀬ちゃんが頼りやったから。半ば無理やりみたいな感じになってもうた」
「結局、私は何も出来てませんけど」
「そんなことないって。谷川ちゃんにも、清瀬ちゃんにも感謝してる。それに関係のない二年生の問題やのに、迷惑かけてもうたって後悔も」
飲み物が運ばれて来て、二人の前に並べられた。湯気立つコーヒーと氷の沈むオレンジジュース。まるで、いま里帆が口にした感謝と後悔みたいだ。
「でも、どうして今回も私なんですか?」
「だって伊藤ちゃんのことやし。むしろ私が勝手に動くと迷惑になる可能性もあるやろ?」
「それって私の邪魔はしたくないって意味ですか?」
「現に、やる気になってたんじゃないん?」
「そうですけど」
みなこは、コーヒーにフレッシュと砂糖を入れて混ぜ合わせる。じんわりとコーヒースプーンを通してその熱が指先に伝わった。
「清瀬ちゃんが乗り気じゃないなら、勝手に動く許可くらいは貰っておきたかった」
一年生のことに首を突っ込むのだからという里帆の優しさだろう。学年リーダーが当事者のため、その許可取りはみなこに降りてきている。この辺りは、大樹とやり方が一貫していた。
「里帆先輩はどうするつもりなんですか?」
「うーん。むしろ、清瀬ちゃんはどうするつもりなん?」
「聞き返してくるってことは、特に策はない感じなんですか?」
「ないこともないんやけど」
「あるなら教えてくださいよ」
ブレザーのポケットに手を入れて、里帆は背もたれに背中をつけた。身体を伸ばしながら顔をすぼめて「うぅ」とうめき声を出したかと思えば、すぐに反動をつけて身体を起こす。ふいに気の抜けた姿をさらしてしまったのだろう。ぱっと切り替わったその表情は、おどけたようにも恥ずかしがっているようにも見えた。
「とりあえず、清瀬ちゃんはこの問題についてどう思ってるん?」
「納得していません。大樹先輩とも話したんですが、めぐちゃんが外されるのは、この部活の方針に則っていないと思うんです。それにいつもの織辺先輩らしくないというか」
「私も同意見。あの会議で何が話されてたのか、みちる先輩に直接聞いたんやけど、はぐらかされて何も教えてくれへんかってんな。織辺先輩が何を考えているのか、さっぱり」
みなこの脳内に昼休みに見た光景が浮かぶ。里帆がみちるに話を聞いたのは恐らくその時だ。
「それなら、私は久住先輩に聞きました」
「久住先輩はなんて言ってたん?」
「詳しくは教えてくれませんでした。けど、始めは久住先輩も反対していたらしいです。けど、織辺先輩の気持ちを聞いて意見が変わったって」
「その気持ちは……当たり前やけど、教えてくれへんわな」
「はい。でも、あの判断には、織辺先輩のエゴと誰かを思う優しさがあるって」
「誰かを思う優しさ?」
「それが何かは分からないんですけど……」
すりガラスの窓の向こうをぼんやりとした明かりが通り過ぎていく。ガタンゴトン、と地面を揺らす電車の振動が椅子を介してお尻に伝わった。
「みちる先輩もさ。『知ちゃんが決めたことやから』の一点張りなんよな」
少しだけ穏やかな口調になったのは、みちるの真似だろうか。その時の様子を思い出したのか、里帆は頬杖を付きながらため息をこぼした。双眸は悲しげに細くなり、頬は可愛らしく手のひらに押しつぶされる。もう片方の手の指先でオレンジジュースのストローを掴んでぐるぐると氷を崩しながら続けた。
「それでさ。私の策っていうのは、いっそう思い切って本人に聞いてみるっていう。どう?」
「本人って、織辺先輩にですか?」
「そうそう」
傾いていた身体を起こしながら、里帆は背筋をしゃきっと伸ばした。「そんなに驚くこと?」と真っ白なおしぼりに手を添える。
「いえ、解決するには織辺先輩に聞かなくちゃいけないと思います。でも、声がかけづらいなって」
「一年生からしたらそうなんかな。織辺先輩は別に怖い人ちゃうで?」
「それは分かってますけど。やっぱり三年生ですし」
「なんなら、今から呼び出してもええけど」
里帆がブレザーのポケットからスマートフォンを取り出した。透明なケースの中には、愛犬なのか犬の写真が収められている。
「先輩を呼び出すって」
「ごめん、ごめん。言い方が悪かったけど。まぁ、事情聴取みたいなことやし。事実呼び出しなわけで。任意同行? 織辺先輩もまだ練習で残ってるはずやろ?」
「そうだと思いますけど」
みなこが頷けば、里帆がスマートフォンを操作し始めた。「本当に、いまここに呼ぶんですか?」と慌てたみなこの声は少しだけ裏返る。
「今日はもう時間なかった?」
「そういうわけじゃないです。ただ覚悟が」
「覚悟って、明日になったらつくん?」
「それは……そう言い切れる自信はないですけど」
「やったら逃げ場がないうちにやっとこうや」
里帆は、苦手な食べ物は先に食べるタイプなんだろう、と思った。知子を食べる物に例えるのは申し訳ないけど。ニンジンの格好をした知子の姿が脳裏に浮かびそうになり、みなこは慌ててそのイメージをかき消す。
「ちょっと、電話するで」
そう言って、里帆がスマートフォンを耳に当てる。静かな喫茶店に小さな着信音が響いた。二度、三度、プルルル、とコールが繰り返されて、四度目が鳴ろうというタイミングで、その音が知子の声に変わった。
「もしもし、お疲れ様です」
里帆が話し始めて、また電車が真っ黒な窓の向こうの街の中を通り過ぎていく。まばゆい光が、落ち着いた店内に騒がしさを放り投げて過ぎていった。「それじゃ、しばらく待ってます」そう言って、通話をきった里帆が「覚悟を決めな」と口端を釣り上げた。
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