ブルーノート

~宝塚南高校ジャズ研究会~
伊勢祐里
伊勢祐里

二幕7話「エゴと優しさ」

公開日時: 2021年1月16日(土) 19:10
更新日時: 2021年3月12日(金) 12:16
文字数:6,306

「お疲れさまです」


 部員たちのまばらな声が飛んだのは、夜の七時半過ぎ。大会が近いこともあり、部活の時間は三十分だけ延長できることになっていた。とはいえ、用事のある者を引き止めることは出来ないので、練習は個人練習に限られ、この時間まで残っている部員は半分ほどだった。


 一年生は誰か残っていないものかと、みなこは片付けを始めながら周りを見渡す。黙々と練習していたので、周りの状況は把握できていなかった。ドアの方を見遣れば、ちょうど佳奈と奏が部室のドアから出ていくタイミングだった。


「二人とも、いま帰り?」


 そう声をかけると、申し訳無さそうに佳奈が頬を掻いた。


「ごめん、みなこ。今日は音楽教室あって急いでて。ギリギリまで練習してたから」


「ううん。大丈夫」


「私は待ってようか?」


「奏ちゃんも先に帰っててええよ。こっちはもう少し片付けに時間かかると思うから」


 元々、みなこと奏は帰る方向が違う。一緒にいられるのは雲雀丘花屋敷の駅までだ。それに佳奈が音楽教室に向かうということは、宝塚に向かうはずだから、奏と同じ電車に乗るはずだ。まだ帰り支度が整っていない自分のせいで、その二人を引き裂くわけにはいかない。


 申し訳無さそうに二人に手を振られて、みなこは「おつかれー」と笑顔で手を振り返す。なるだけ寂しくないフリをして。奏も佳奈も気を使ってくれるタイプだ。周りに気を使うのは、こんな思考をしている自分もだろうか。だとすれば、もう一人該当者を知っている。


 すでに周りには、ほとんど部員は残っていなかった。「おつかれー」と里帆が部室をあとにして大スタジオに残っているのはみなこだけになった。七海もすでに帰ってしまっているから、今日は一人で帰ることになりそうだ。まだ、小スタジオの方に上級生が残っているかもしれないが、この様子だと可能性は薄そうだ。最後だと鍵もみなこが閉めなければならない。


 片付けを終え、ギターケースを背負ったタイミングで、ちょうど小スタジオから三年生の祥子が出てきた。パチっと小スタジオの電気が落ちる。どうやら向こうのスタジオは彼女が最後らしい。


「こっちは清瀬さんが最後?」


「多分そうみたいです」


 壁に掛けられた鍵を祥子が手に取る。電気のスイッチに手をかけて「消すよー」と退出を急かされた。


 まさか、都合よく彼女が最後に残っているとは。これも何かの運命かもしれない。どのタイミングで話しかけようかと思っていたが、二人きりになれた今がチャンスだ。


 スタジオの電気が消えて、ぱっと足元の影が形を変える。廊下の少し薄暗い電灯が、真っ暗な闇の中へ濃い影を伸ばした。鍵を差した祥子は、「忘れ物はない?」とこちらを見遣る。


「大丈夫です」


「よし!」


 ニッコリと柔らかい笑みを浮かべて、祥子が鍵を回す。静かな校舎にガチャッと低い音が響いた。


 真っ直ぐ長い祥子の髪は、薄暗い中でも分かるくらい茶色っぽく染まっている。校則で髪染め禁止とあるはずだが、それほど煩く言われないのは自由な校風のせいらしい。


「祥子先輩って染められてますか?」とみなこが訊ねると、「まっきんきんにせん限り怒られへんから」と彼女は鍵に付いた輪っかを指先で回しながら答えた。


「さすがに金色にしたら怒られるんですね」


「見逃して貰える程度の色味にしとかんとなぁ」


 試されてるのは常識の範疇や、と祥子は目尻に皺を作る。褐色の肌は、生まれつきのものだろう。ジャズ研に所属していて焼けるということはないはずだから。細くスラットした体躯が、彼女にスポーティーな印象を与えていた。少しだけ短く折られたスカートから覗く足は、筋肉質でかっこいいものだった。


「清瀬さん、ギターはマイ楽器?」


「そうです」


「それじゃ、準備室には寄らへんか」


「いえ、付き合います」


「別にええのに」


「いえ、せっかく一緒になったので」


 航平の言う通りだ。何度か会話のラリーをしただけで、彼女の接しやすさが伝わってくる。包容力というか、寛大さというか、そういうものを彼女はしっかりと持っている。みちるとはまた違う優しさの持ち主と言えるだろう。みちるの優しさは、すぐに溶けてしまう綿菓子に包まれているような感覚になる。


 そんな祥子に、あの日の会議の内容を聞くために近づく。それは動機としてはなんとも不純で後輩としては不本意だが、これは仕方のないことなのだ、と自分に言い聞かせた。


 準備室の方へ向かう祥子にみなこは着いていく。会話が途切れるのが嫌だったので、他愛もない話題を続けた。


「久住先輩はマイ楽器じゃないですね」


「うーん。買おうか悩んだこともあったけど、高校の部活から始めたから続ける自信なかったんよな」


「そうだったんですね」


「大学に入ってからサークルとかで続けるなら、バイトして買うかもしれんけど。まだ分かんないから」


 すぐ隣の準備室に着いて、祥子がトランペットケースを棚に仕舞う。彼女の手からトランペットが放された。それが少しだけ寂しく感じるのは、こうして過去に多くの生徒が楽器から距離を置く姿を想像してしまったせいだ。


「みんながみんな楽器を続けるわけじゃないですもんね」


「社会人になって楽器を続けてる人ってそう多くないからな。音大にでも行かん限り、こんなに一生懸命楽器を演奏するのは高校時代だけやろうし」


「祥子先輩は音大とかは考えなかったんですか?」


「まさか。うちの実力じゃ無理無理。うちらの代なら知子くらいかな。その下で言うと笠原さんとか? 本人に目指す希望があればやろうけど」


 顔の前で手を振って、彼女は自分の実力を否定した。コンボに選ばれているのだから、彼女には十分な力がある。割れるような豪快なトランペットのうねりから繊細な音の表現まで、祥子の実力は誰が聞いても明らかだ。


 それでも、無理だと話すのは決して謙遜しているわけじゃない。祥子に実力があるというこの評価は、あくまで高校生の部活レベルの話。知子や桃菜には遠く及ばない。そのことを彼女はしっかりと自覚している。


「それでも、続ける続けないは人それぞれやから。せっかくある程度、吹けるようになったし、みんなと音を合わせるのも楽しいからね。清瀬さんは続けるつもりなん?」


「どうなんでしょうか。まだまだ先のことなので。でも、他の楽器に比べて、ギターはより気軽に続けられる気もしますけど」


「音の出せる環境とか必要な楽器もあるからなー」


 準備室を出ると「さ、帰ろうか」と祥子は階段の方へと歩き出した。この辺りに残っている生徒もいないので、廊下の電気も消していく。迫ってくる闇から逃げるように、みなこは背中に揺れるスクールバッグを追いかける。


 踊り場に差し掛かった所で、祥子が急に振り返った。しかし足は止めないまま。真っ白な蛍光灯に照らされた微笑が影と光の中を何度も行き来する。


「うちになんか話があるんじゃなかったん?」


「え?」


「準備室にだって、気を使って着いてきたわけちゃうやろ?」


「そ、そうなんですけど」


「清瀬さん、正直やな」


「すみません」


「別に責めてへんからな。受験勉強もあって中々一年生と話す機会もないから、こうやって後輩と二人きりになれて嬉しいで」


 鍵を返すために、祥子が職員室の中へ入っていく。鍵だけをキーラックに掛けると、すぐに彼女は出てきた。


「清瀬さん家は?」


「鶯の森です」


「ほんなら同じ方向やな。うちは絹延橋きぬのべばしや」


 絹延橋は、みなこの最寄り駅である能勢電鉄の鶯の森駅の二つ隣だ。電車で見かけることはなかったが、同じ時間の電車に乗っていたこともあったかもしれない。


 正門を出て、雲雀丘の坂を下っていく。閑静な住宅街には、暖かい家庭の灯りが立派な家々の窓から漏れ出ていた。


「どうして私が話あるって分かったんですか?」


「まず、そこから気になるんや?」


 ふふ、と祥子は笑いを溢した。男勝りで姉御肌なイメージの彼女だが、仕草には上品さがある。「詮索は相手に失礼やで」と付け加えて、真面目な面持ちに表情を戻した。


 祥子の言う相手とは、誰のことを指しているのだろう。彼女自身のことか、それとも……。言葉の真意が分からず、首を傾げたみなこに、「優しい彼氏さん?」と祥子がおどけた口調で口元をほころばせた。


「彼氏じゃないですから」


「そうなん? 下の名前で読んでたから、てっきり」


「幼馴染なんですよ!」


「へぇ。幼馴染で付き合うのも悪くなさそうやけど」


 どうやら航平が気を利かせてくれていたらしい。全く下地がない状態で話すよりは、幾分か気持ちは楽になった。余計な誤解を与える言い方をしたことはムカついたけど。一つ深呼吸を挟んで、みなこは本題を話し始める。


「久住先輩に質問したかったのは……。あ、別に、わざわざ質問したいから無理して残ってたわけじゃないですよ。練習してたらたまたま一人になってて、偶然、久住先輩も残ってて」


「そんなこと気にしてないから。仮にうちと二人になるためにやったとしても、練習を残ってたこともうちに話かけてくれたこと、どっちも嬉しいから」


 ほら本題を続ける、と促すように長い手を彼女は差し出す。


「聞きたいのはめぐ……、ピアノの伊藤めぐのことです」


「うん。やっぱりそうやんな」


 予想通りと言いたげに、彼女は一つ頷いた。短い髪をかきあげて、もしかして、と続ける。 


「彼女を外したこと怒ってる?」


「どうでしょうか。自分の気持ちなのにおかしいかもしれませんが、よく分からないんです。でも怒りって感情ではないと思います。ただモヤモヤしていて」


「納得してない?」


「そうなんだと思います」


 下校時間をすっかり過ぎているので坂道には誰もいない。静寂と夜闇に染まった街で、コツコツと二人分のローファーの音と遠い電車の音が混じり合う。みなこは、坂道に急かされるその足を緩めた。


「あの日の会議で何が話されたんですか? めぐちゃんがどうしてビッグバンドを外されたのか、その理由が知りたいんです」


「理由を知ってどうするつもりなん?」


「怒りが込み上げてくるかどうかは、その理由次第だと思うので。どうするつもりかは、その理由次第です」


 エンジン音の静かな高級車が二人の横を登っていく。祥子に袖を引かれて、車道側を歩いていたみなこは一歩だけ彼女の方へ近づいた。


「感情的になっている割に、清瀬さんは冷静やな」


「そうでしょうか。ちょっとだけドキドキしてます」


 みなこは自分の胸を抑える。バクバクと心臓が鳴っているのは、先輩と対峙しているからだけじゃないはずだ。けど、祥子はモテるタイプだろう。特に女子に。


「心配しなくても悪いようにはせんよ。清瀬さんが嗅ぎ回ってるって言いふらしたりせんし、その辺りは安心して。高橋くんに頼まれたからね」


「ありがとうございます」


「それに、清瀬さんがやってるのは友達を思っての行動やろ?」


「どうでしょうか。めぐちゃんのためだなんていうのはおこがましいと言うか、身勝手と言うか。本人が納得してると言っている以上、嗅ぎ回るのはよくないことだとは思うんです」


「なるほどな。エゴと誰かのためがぐちゃぐちゃになっちゃってるってわけやな」


「……はい」


 再び、歩き始めた祥子をみなこは追いかける。今度は祥子が車道側に立っていた。


「……本当は話すべきだと私も思う。それは知子も同じように思ってるはず。けど、そうもいかない事情があるのは分かってくれる?」


「はい」


 結論だけでなく過程も話すべきで、何事も無ければ、知子はそうする人間だとみなこも思う。彼女がそうしないのには理由がある。それは明白だった。


 そして、みなこが本当に知りたいのはそこなのだ。みんなの中で漠然とした不満に変わっているのは、いつもらしくない知子の判断そのもの。みんな彼女の判断に従いたいと思っているのに、らしくない判断の前で素直に「はい」と返事が出来ないでいるのだ。


 駅の近くになって、電車や踏切の音で街が少しだけ賑わい出す。コンビニの明かりに包まれたコンクリートのブロックの上で、黒猫が眠たそうに欠伸を溢していた。


「けど、勇気を出して話に来てくれたんやもんな」


 スマートフォンを改札にかざして、祥子は駅舎の中へと入っていく。みなこもカバンから定期を取り出す。


「会議に向かったうちらがまず説明されたんは、大会で結果を残すために伊藤さんを外すっていうこと。それに伊藤さんは納得している。だから、他の三年生にも承諾して欲しいって」


 その決断を独断ではなく三年生全員の判断に任せたのは、そもそも知子にピアノのメンバーを決める権限がないからだろう。公平を期すために所属しているセクションの審査はしない決まりになっている。


「伊藤さんより知子の方が上手い。それは清瀬さんも同意出来ることやろ」


「それはそう思います」


 残念ながら、めぐが知子に勝てる見込みはない。みんなで楽しく演奏をする。この部活の方針が無い限り、ビッグバンドのピアニストも知子が務めるべきだろう。


「けど」


 祥子は、みなこの顔の前に手を突き出して静止する。


「それは部の方針に背いている、やろ? その通りやと思う。会議でもそこが重大な論点になった。少なくともあとから呼ばれた私や中村は、その理由で伊藤さんを外すことに反対していた」


「なら、どうしてですか?」


 祥子の表情と言葉は、その会議で反対側に立っていたのが、彼女だけではなかったことを示しているようだった。


 電車が接近するアナウンスと祥子の声が混じり合う。


「……知子の本音を知ったから」


「本音ですか?」


「この問題には、誰もが想像しうる最悪のシナリオと最善のシナリオが入り交ざっている」


「どういうことですか?」


「伊藤さんがビッグバンドを外されたのは、知子のエゴでもあり、誰かを思う優しさのせいでもあったってこと。一つの単純な気持ちで下されたものじゃない」


 それを知ったから、めぐはビッグバンドから外されることを容認したのだろう。けど、みなこが知りたいのは、もっと根本的な話だ。知子が何を考えてめぐを外そうと思ったのか。けれど、恐らく。

 

「清瀬さんが本当に知りたがっていることは、うちの口からは言えない。きっと、伊藤さんからも……そして知子からも」


 激しい電車のヘッドライトが、人のまばらなホームの上を照らし付けた。闇の中から現れたマルーン色の車体は、甲高いブレーキ音を上げながら、ゆっくりとみなこたちの目に停車する。ちょうど二人の立っていた目の前で扉が開いた。


 降りてきた人に道を譲り、車内に乗り込む。座席は空いていたけど、座らずにその場で立ったまま会話を続ける。


「けど、めぐを外したのは、織辺先輩なんですよね?」


 知子からも言えないというのが釈然としなかった。知子の内情のはずなのに。他に誰がその説明をしてくれると言うのだろう。


「そうやな。伊藤さんを外したんは知子のエゴや」


 強調された『エゴ』には、嫌味や悪意は込められていなかった。むしろ、擁護のニュアンスが強い。それに言葉をわざわざ強めたのは、「誰かを思う優しさ」の部分が大切だとこちらに気づいて欲しかったからだと思った。


 そして、他の三年生がめぐをビッグバンドから外すことを納得したのも、その優しさを知ったからなのだろう。まるで、みなこがめぐのためを思って動いているように、知子も誰かのために動いているらしい。


「うちの口から言えるのはここまでかな。それがどういうことなのか、考えるのは清瀬さんの仕事」


 仕事というのは、書記としての役割だろうか。それともめぐの友人としてだろうか。きっと、その二つが曖昧なバランスで混ざり合っているに違いない。


 動き出した電車の窓に映った自分の双眸は、めぐのビッグバンドを外すことを伝えた時の知子と似た色をしていた。


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