特別ミーティングは解散となり、学年ごとに分かれての打ち合わせが始まった。二年生が大スタジオ、一年生は小スタジオで。二年生の方が人数は少ないからと言って、里帆は大スタジオを譲ろうとしていたが、めぐがそれを断った。先輩を立てる律儀な性格は、めぐの凛とした美しい性根の現れだ。
「とりあえず曲から決めていこうか」
四つ並べられた椅子に、航平、七海、奏、佳奈の順で座っていて、その前に司会であるめぐが立っている。みなこは書記なので、ホワイトボードに皆の意見を板書役だ。めぐの発言を聞いて、マジックペンのキャップを外し、少し汚れの目立つボードに『曲決め』と記した。
「みんなは何やりたいん?」
「Time Check」「あわてんぼうのサンタクロース」「Here’s Why Tears Dry」「イパネマの娘」
めぐの質問に、座っている四人が一斉に答えた。見事にバラバラだ。みなこは出た意見をホワイトボードにまとめていく。佳奈が『イパネマの娘』で、奏が『Here’s Why Tears Dry』、七海は……、
「あわてんぼうのサンタクロース?」
「だって、クリスマスやろ?」
「クリスマスやけどさぁ」
少々子どもっぽくないか。口には出さなかったが、呆れが態度に出ていたらしく、七海はぷくっと頬を膨れさせた。こだわりのある髪の毛のハネのせいで、まるでハリセンボンみたいだ。航平がなだめるように七海とみなこを交互に見遣った。
「俺は悪くはないと思うで。クリスマスソングなのは間違いないし、来る人も知ってる曲あった方がええと思うし。それに保育園の演奏の時に思ったけど、知ってる曲をジャズアレンジするのも楽しい」
「それはそうかもしれんけど。クリスマスソングは他にもあるのに」
「うちは『あわてんぼうのサンタクロース』が好きやの!」
七海の口調が乱暴なものになる。やりたい曲とはつまり好きな曲でもあるし、ライブのテーマから大きく逸脱しているわけでもないから、それ以上の文句は言えず、みなこが諦めたようにホワイトボードに七海のリクエストを書き加えれば、彼女は満足そうに機嫌を取り戻した。
「それで航平が、『Time Check』……って朝日高校の演奏見た?」
「バレた?」
「でも、あれを見たら弾きたくなるのは分かる」
みなこはホワイトボードに『Time Check』も書き加えた。かなり早い曲で難易度のある選曲にも関わらず、誰もそれを苦にしないのは、大会で『Rain Lilly~秋雨に濡れるゼフィランサス~』をしっかりと演奏出来た自信のおかげだ。
みちるの母である漆崎日菜子が作曲したあの曲は、『Time Check』ほどとは言わないがかなりのスピード、それからより高度なテクニックを求められる楽曲だった。いまにして思うと、幼いみちるに人生の厳しさ、深さ、それを超える楽しさを伝えたかったのかもしれない。あのステージの演奏は天国の彼女に届いたのだろうか。
「みなこと伊藤は希望曲ないん?」
「え、私?」
「人数少ないんやから一人一曲は希望入れられるやろ?」
航平の言葉にはっと気づく。里帆が学年で公演を分けたのは、より多くの部員の意見を取り入れる為だったのではないか、と。みちるの意思を引き継いだ彼女なら、そういう選択をしてもおかしくない。なら、遠慮と言う言葉は引っ込めておくべきだ。
「うーん、でもいざ選ぶとなると難しいな。めぐちゃんは?」
「私は、本音を言うと『ケルン・コンサート』やけど……」
「あ、織部先輩が文化祭のオープニングでやってたやつや」
「そうそう、けど実力的にも時間的にも無謀やから、ベタに『モーニン』で」
「映画やアニメでも使われてて、お客さんも知ってるはずやからすごくええと思う。文化祭でも反応良かったし! めぐちゃんは『モーニン』っと。私は……、」
本音を言うと、昨日見た『Time Check』を希望としてあげようと思っていた。けど、航平と被ってしまったことが癪で別の候補を考える。結局、昨日は佳奈と電話をしてしまったせいで、あの曲しか聞いておらず、咄嗟に別の案は浮かんでこない。
ホワイトボードにマジックペンの先を立てて思案していると、七海から思わぬ声が飛んできた。
「もしかしてみなこも『Time check』やった?」
「な、なんで?」
「なんとなく?」
「そうなん?」
航平がこちらを見て不思議そうに小首を傾げる。みなこは鋭い睨みを七海に向けたが、どうも本人は気づいていない。どうして七海は、こうも無駄な野生の勘が働くのか。下手に誤魔化すのも余計におかしな気がして、「私も昨日、You Tubeで朝日高校の演奏聴いてたから」と素直に自供した。
慌てた様子が可笑しかったのか、航平と思考が被っていたことが愉快だったからなのか分からないが、ニタニタと佳奈が表情を緩めていた。きつく縛られたポニーテルが機嫌よく揺れている。
「なんか言いたいことあるん?」とみなこが言葉尻を尖らせれば、
「ほら、『Time Check』は、私もやりたかったから」と佳奈は平静を装った。
そりゃそれは本音だろうけど。おそらく佳奈は、あの動画がアップロードされた直後に見ているはずだから。自分からサックスの個人賞を奪っていった一年生、松本陽葵の演奏に対抗心を燃やしているはずだ。めらめらと音を立てる炎は、見ているこちらをも飲み込んでしまいそう。いや、飲み込まれてもいいのかもしれない。音楽に対する情熱は、どれだけ熱くてもいいはずだから。……けど、先程までの佳奈の目には間違いなく冷やかしのニュアンスが込められていた。みなこの目は誤魔化されない。
「全員の意見を募って、取り敢えず五曲か。MC含めてこれで三十分くらいかな?」
曲名が羅列されたホワイトボードを見つめて、めぐが誰に向けてというわけでもなく呟く。
「アレンジとアドリブ次第で、時間はある程度コントロール出来るけど、大体それくらいやと思う」
答えたのは佳奈だ。アレンジや編曲は、最もジャズに精通している佳奈に任せることになる。彼女もそれを自負しているらしい。もちろん佳奈はみなこたちに意見を募るだろうし、みなこたちもそれに答えるつもりだ。曲全体の構成をイメージするのも、ジャズの練習で大切なことの一つだ。
「もう一曲ずつ全員で候補曲出し合う?」
先程上げた曲を弧で括り三十分と書き記るしながら、みなこは呟く。言葉尻が少し不機嫌っぽくなったのは、分の文字がわずかにかすれてしまったからだ。寿命なのか乾いただけなのか、軽く振って書き足せば、何の問題も無かった、と言いたげに真っ黒なインクがホワイトボードを黒く染め上げた。
「それでもええけど、どうしても自分の楽器が目立つ曲やったり好きな曲になるから、クリスマス、ジャズバーっていうコンセプトから発想した方がええんちゃう?」
「あー確かに、めぐの言う通りかも」
「はい!」と、七海が景気よく手を挙げた。積極的に意見を言うのは正しい姿勢だ。見習うべきところだな、とみなこは自戒する。ただ、もう『あわてんぼうのサンタクロース』系の曲は十分だけど。
「ジャズバーって綺麗な女の人が、ステージで歌を歌ってるイメージがする!」
「そうかな?」
「そうやって!」
「あー俺はなんとなく分かるかも。ほら、なんというかニューヨークのダウンタウンのバーって感じ」
「そうそう!」
共感して貰ったことが嬉しかったらしく、七海はキラキラと目を輝かせた。その目には確かにダウンタウンの薄暗い小洒落たバーが映っている。
「確かに歌があるのは、いいアイデアだと思う」
さらに奏が七海の意見に同調した。どうもみなこの中に、そういうイメージが無かっただけで、ジャズバーで歌というのは一般的な認識だったらしい。奏は発案者である七海ではなく、こちらを見つめる。両手を膝の辺りに添えてきっちりと座り、真っ白なソックスとチェック柄のスカートの間に覗く綺麗な肌が、わずかにくすんだスタジオのライトを眩く反射していた。くりっとした可愛らしい双眸を不思議そうに揺らして彼女は、「でも」と続ける。
「誰が歌うの?」
問題はそこだ。この部にはヴォーカル志願の部員はいない。みなこの脳内に一瞬閃いたのは、軽音楽部の部員を招待してはどうか、というものだった。けど次の瞬間には、そこが無いから自分はジャズ研に入部したんだろ、と冷静な自分がツッコミを入れる。文化祭には有志のバンドが参加したりしていたから、そこにオファーすることは出来るだろうけど。
みなこがそれを提案すれば、めぐが腕を組み、首を捻った。持ち上がったツインテールの片方が彼女の頬を撫でる。
「ゲストは悪くないし、ライブ! って感じがするけど、冬休みに入るまでの間、かなりの練習量を強いることになるんちゃうかな?」
「そっか。みんな他の部活やってるかもしれんし、用事だってあるよな……」
「そうそう。うーん……、この際、奏が歌ったら?」
めぐがあっけらかんとした声でそう告げる。想像だにしなかった提案だったのか、奏は「えっ、」と困惑の表情で一瞬固まり、すぐに「無理っ無理っ無理っ!」と見たこともないほど機敏な動きで首を横に振った。ほのかな甘い髪の香りがスタジオ内に撒き散らされる。
「奏、この間みんなで行ったカラオケでは普通に歌ってたやん」
「それは、カラオケは歌うところだから」
「奏、ライブもまた歌うところなんやで」
観念しろ、と取調室で刑事が詰め寄るみたいに七海が奏の肩に手を掛ける。それでも奏は受け入れがたいらしく、瞳に薄っすらと涙を溜めながら、前かがみになって、必死に訴えかけた。
「でも、カラオケはみんなの前で、ライブはお客さんの前だよ」
奏の言いたいことは最もな反論だ。カラオケとライブではそのハードルの高さは随分違う。クラスの合唱で多勢に紛れるならまだしも、一人で注目を浴びるのを断る気持ちは痛いくらい理解できる。
「でも、奏の歌、めっちゃ上手やったから、お客さんも惚れ惚れすると思う」
「そんなことないよ」
「そんなことある!」
七海が腰に両手を据えて胸を張った。だから、どうして七海が胸を張れるのか。それに「みなこの二億倍くらい!」と余計な一言も添えて。一体なんの指数で計算したのだ! 点数だってそこまで開きはないはず。……奏の方が圧倒的に上手で、みなこが下手くそなのは本当だけど。
「まぁまぁ、嫌がってんのに無理やりやらせるのは良くないちゃう?」
奏の姿が居た堪れなくなったのだろう、航平が一方的に盛り上がるめぐと七海を止めた。めぐは反省した様子で肩を落としたが、七海は諦めきれないようで、航平の静止をなんのその、熱弁を続ける。
「でも、奏が歌上手なんはホンマなんやって!」
「そうなん?」
航平がこちらに視線を向けた。奏が上手なことは本当のなので、みなこはコクリと頷く。それに同意するように、「私も一緒にカラオケで聞いたけど、奏ちゃんは本当に上手やったよ」と、佳奈が目元に掛かる前髪を指先で弾きながら呟いた。
「井垣が言うなら、まぁ本当なんやろうな……。みなこ、どうするん?」
どうしてこちらに判断を仰ぐのだ、と思ったが、司会役のめぐが賛成派の筆頭である以上、自然と中間ポジションに立っているみなこに判断が降りてくるのは仕方のないことだった。
「歌うっていうのはいいアイデアやと思う。インストだけだと、聴き慣れないお客さんは飽きちゃうかもしれんから。私は下手くそやけど、奏ちゃんは本当に上手やったし、歌ってくれたら嬉しい」
みなこの話を聞いて、奏は少し俯いた。みんなの思いをしっかり受け止めてくれているのかもしれない。みなこだって奏には歌って欲しい。お客さんの前で披露出来るだけの実力が奏にはあるはずだから。けど、無理はして欲しくない。そういう目をしていたつもりだ。無理は楽しさを打ち消してしまう。
しばらく逡巡して奏は顔を上げた。
「少し練習してみてからなら。……それでみんながオッケーなら頑張る」
「ホンマに!」
七海が「やったー!」と両手を上げた。腰元から胸にかけて、シャツの皺がぴんと張る。
「ちゃんとお客さんの前で、みせられるクオリティーのものか判断してね。スマホで録音して私も聞くから」
「心配せんでも奏は上手やって」
七海がお気楽な声を出し、労うように奏の肩を揉んだ。
「それは私も保障する。奏ちゃんの歌は、ステージに立てるレベルのものやと思うし、なにより奏ちゃんの歌でサックス吹くのはとても気持ち良さそう」
「佳奈ちゃんが、そこまで言ってくれるなら……」
実力者の意見と言うのは、やはり説得力があるもの。知子のいなくなったジャズ研で、その役を引き継ぐべきは佳奈と桃菜だろう。だけど、桃菜は積極的に人の演奏に意見をするタイプではない。二年生では、部長である里帆がその役割を担うことで滞りない部活運営が行われている。里帆は長年ジャズを愛好していて、耳が肥えているから。
それに真面目さは知子譲りで、余計な忖度を抜きにフラットな基準で人の実力を見定めることが出来る。もちろんサックス奏者としての実力も高校生の中では上位に入るレベル。ソロは佳奈に譲っているが、里帆のことを「下手くそな上級生」なんて目で見る人はいないはず。
一年生ではどうかと言うと、順当に佳奈がその役割を担うべきだという風潮が支配していた。学年リーダーであるめぐは、クラシックピアノの経験があるが、ジャズということになるとみなこたちとキャリアは変わらない。それ故、自然とキャリアも実力も上である佳奈の言葉をみんなが基準としていた。
「谷川が歌ってくれるなら選曲の幅も広がって、さらに盛り上がりそうやな。歌うことは仮決定として、歌う曲に目星はついてるん?」
航平が訊ねれば、めぐが「何歌ってもらおうかなー」と、可愛げたっぷりに顎に指先を乗せて楽しげな声を上げた。釣られるように七海も「うーん」と考え出す。
身勝手に考え込む二人を他所に、佳奈が奏の細い肩を指の先でツンツンと突いた。
「奏ちゃんは、ジャズ歌うの始めて?」
「う、うん。カラオケではJ-POPしか歌わないから」
「それなら無難にスタンダードナンバーとかかな?」
「歌えるかと言われると自信ないけど」
「大丈夫。奏ちゃんは本当に上手やと思うから。でも自信ないなら、最近の曲とかにする?」
奏を見つめる佳奈の双眸は、確かな信頼の色をしていた。実力者だけが、他人に自信を与えることが出来る。佳奈は「奏ちゃんは上手やと思う」と繰り返す。彼女の言葉が、魔法のように奏の気持ちを塗り替えていくのが目で見ていて伝わった。
「それなら、ノラ・ジョーンズは?」
奏の肩越しに佳奈を見つめて、七海が大きな声を上げた。
「ノラ・ジョーンズか。確かに奏の声に合ってるかも」
めぐの言い分に、「あーたしかに」とみなこも同意する。優しくほんの少しハスキーな奏の歌声は、彼女の歌声に似ている気がした。
「みんな奏の歌聞き惚れてまうでー」
「やからなんで七海が誇らしげなん」
「だって奏はうちの友達やし」
ちょっとは理解できるけど。私の友達はすごいのだぞ、と知って欲しいというところだろうか。七海の提案に反対する者はおらず、再度、佳奈が奏に訊ねた。
「ノラ・ジョーンズは歌えそう?」
「彼女の歌なら聞いたことがあるから練習すれば歌えると思う」
奏の許可が出たことで七海が俄然やる気になり、「何歌ってもらおうかなぁ」とスマートフォンで曲の検索を始めた。
「おいおい、ホンマにカラオケでリクエストするみたいなノリやな。忘れてるかもしらんけど、俺らは演奏するんやで」
「そうやった!」
本気で忘れていたらしい。七海の驚いた顔に、笑い声のユニゾンが小スタジオにどっと響いた。それでも簡単に折れないところが七海のすごいところだ。
「でも、奏の歌に負けないようにうちも演奏頑張る」
やる気とスマートフォンをぐっと握りしめて、七海は自身の胸の辺りに拳を作った。どうも、奏へのエールのつもりらしい。
奏は大きな瞬きをして困っていたけど、「ありがとう。私も頑張る!」と七海に釣られるように同じポーズを取った。けど、二人して同じ姿勢になったことが恥ずかしくなったのか、徐々に奏の頬は真っ赤になっていく。
誤魔化すようにその場で居直った奏を見て、七海は少しだけ不服そうに頬を膨れさせる。瞳の奥は嬉しそうな色になっていたけど。
「とりあえず奏ちゃんが歌うことは決定、と」
みなこが奏歌唱の文字を丸で囲めば、航平がやけに真っ直ぐな笑みをこちらによこしてきた。どういう意図のものなのか。みなこの脳内はフリーズしたように固まる。きっと深い意味なんて無い。決まって良かったくらいのものだったはず。それなのに妙な意識が脳内を支配していく。ホワイトボードの文字列のせいか、頭にはクリスマスプレゼントのことだけが浮かび、みなこは曖昧な笑みを返すことしか出来なかった。
『クリスマスライブ ラブストーリー 前編(Pretend not to notice)』了
後編へ続く(5月中旬頃再開予定)
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