ブルーノート

~宝塚南高校ジャズ研究会~
伊勢祐里
伊勢祐里

四幕3話「Tシャツ」

公開日時: 2021年2月19日(金) 19:10
文字数:3,498

 本番の日の空気はどこかいつもと違う。透明で穏やかなものが世界に満ちあふれていて、ふわふわとした充実感が昨日まで重たかった身体を包み込んでくれているような不思議な感覚がする。山から吹き降りてくる冷たい空気を頬に受けながら、みなこは隣を歩く七海の方へ視線を向けた。


「緊張している?」


「うん。けど、大丈夫。今日まで頑張って練習してきたから」


「そうやんな」


 ぐっと握った拳を七海は遠く山の上に見える学校に重ねた。うるうると潤んだ瞳には綺麗な朝日が希望のように煌めいている。


「みなこは?」


「私も大丈夫。少しだけドキドキしてるけど、楽しみが勝ってる」


 冷たく淀みのない風は、不思議と心を落ち着かせてくれた。まだまだ白くはならない程度だけど。息をホッと吐いたタイミングで、「おはよう」と佳奈に声をかけられた。みなこは路地の方を振り返る。


 アイボリーのストールを首元に押さえつけながら、寒そうに彼女は頬を赤らめていた。赤らんだ頬は、なんとなく泣き顔のように見えて愛らしい。抱きしめたい衝動に駆られたが、みなこはぐっと堪えた。


「そんなに寒くないやろ?」とみなこが口端を緩めれば、「寒いのは苦手やねん」と佳奈が目を細める。長い睫毛が震えているのは寒さのせいのはずだ。


「大げさやなぁ」


「もう十分、冬の寒さやって」


「まだ気温も二桁あるから! ほら息も白くならんやん」


 佳奈は随分寒そうにしているけれど、首元を必死に守りたくなるほどの寒さじゃない。巻かれているストールは、さすがに真冬用のものでは無いだろうけど。


「佳奈は大人っぽいから寒いのがあかんのかも?」と七海が顎に指先を据えながらとぼけた声を出した。


「なんで?」


「子どもは風の子って言うし!」


「それじゃ七海は風の子ってことや」


「そういうことになっちゃうなー」


 どういうわけか嬉しそうに七海は坂道をかけていく。楽しげなアドリブを弾ませるようにつま先でアスファルトを蹴り蹴り上げて、ボタンを止めていないブレザーを風になびかせる。ブレザーの下にはセーターやカーディガンなんて着ていない。白いシャツが顕になる。まるでミュージカル映画のワンシーンのようだと思った。七海は主演の子役だ。


「元気やなー」


「緊張してなさそうでよかった」


「誤魔化してるだけかも?」


「そうなん?」


「知らんけどさ」


 二人の間に妙な空気が流れて、次の瞬間にはクスっと笑いがこみ上げてきた。「何笑ってんの!」と少し高いところから七海の声が飛んでくる。腰に手を当てて、鼻息も少々荒い。


「佳奈は緊張してる?」


「ちょっとだけ。けど、みんなと大きなステージで演奏できるのが楽しみ」


「私も」


 佳奈と全国大会の舞台に立てるのはたった三度だけだ。きっと一生の思い出に残る。その確信があるから、緊張しているのはもったいないという気持ちになる。


 みなこはいつか、ステージの上で演奏する彼女を、客席から観る立場に変わるはずだから。燦然と輝く舞台の上で、堂々と演奏する彼女の姿を想像すると、寂しい気持ちになるのはどうしてだろうか。名前の分からない感情と向き合うと、まるですりガラス越しに鏡を見ているみたいに自分がぼやけてしまう。けど、確かなことは、数少ないこの時を大切にしたい思いがあるということだけだ。


「頑張ろうな」


 佳奈にそう言われて、みなこは「うん」と囁くように頷く。その鈍めの反応が不服だったのか、佳奈は再度、「頑張ろうな!」と語気を強めた。


「もちろん! 絶対、最優秀賞!」


 意気揚々と声を出したみなこに、遠くから七海の「おー」という声が返ってきた。



 * 



 揺れるチューナーの電子の針は、脈打つ心臓の鼓動を映す心電図みたいだ。昨日の夜に張り替えたばかりで、まだ緩いギターの弦を、みなこは丁寧にチューニングしていく。弦を伸ばす作業を怠れば、本番中にチューニングが狂ってしまう。楽器は準備が大切なのである。ちなみに、移動の準備は昨日のうちに整っているので、出発まで最後に一度だけ合わせる時間があった。勘違いしていないところはないか、今日のそれぞれのコンディションを確認し合う。


 最後の練習を終えて一息着いたタイミングで、ダンボールを抱えたみちるが部室に入ってきた。


「Tシャツ配るから取りに来てー。一年生はジャケットも! まずは、Sサイズ注文した人からー」


 衣装を合わせるのが大会の習わしらしい。制服でも問題ないのだけど。どこの高校もそれぞれ独自のユニフォームのような衣装を準備していて、そのデザインもバンドの個性を出す一つの演出になっていた。宝塚南は、濃い目の紺色のジャケットと毎年デザインされるTシャツを合わせるのが恒例だ。


「可愛いですね!」


 七海が嬉しそうにみちるから受け取ったTシャツを広げる。真っ白な生地の胸元には、宝塚南の校章が刺繍され、全体には今年の選曲に合わせてか、百合の花をイメージした水色のラインが引かれていた。


「今年は知子がデザインしてくれたんやで」と祥子が恥ずかしそうにする知子のことを肘で突く。


「男子でも女子でもちゃんと似合うように意識したつもり」


「確かに男子が着れば格好良くなるデザインだと思います!」


「あ、ありがとう」


「知ちゃん、照れない照れない」


「別に照れてへんから」


 そらされた知子の視線を、みちるは身体を前かがみにして覗き込む。むずがゆそうに知子の鼻先がひくひくと動いていた。それを見て、みちるは満足そうにしている。 


 確かに可愛いらしく素敵なデザインだが、知子はこういうことを率先してするタイプには見えない。選曲だってみちるに任せていたし、Tシャツのデザインなんて敬遠しそうなものだが。


「織辺先輩がデザインするって珍しいですね」とみなこが何気なく訊ねれば、みちるが唇の先をツンと尖らせた。


「本当は、私がデザインしようと思ってたんやけど、祥子ちゃんが、知ちゃんの方がイイって言うから任せたんよ」


「だって、みちるには任せられないからねー」


「なんでよ」


「自覚なし?」


「なんの?」


 あんぐりとわざとらしく祥子は口を開けて驚いた顔をしてみせた。みちるがムッと眉間に皺を寄せるのを見て、ケタケタと笑い出す。


 どうやらみちるは、自分が特徴的な絵を描くことを分かっていないらしい。祥子がそれをはっきりと指摘しないのは悪戯心だろう。口端を上げて笑う様子を観るに、遠慮しているわけではないことは分かる。「私だって作りたいやつあったんだからね!」とみちるは珍しく頬を膨れさせた。  


「でも、背中にみんなの名前が入っているのがいいですよね!」


 背中には、アルファベットで部員の名前が書かれていた。もちろん、そこにはめぐの名前も書かれている。


「そうそう。これは私がどうしてもって知ちゃんに頼んだんよー」


「そうだったんですか」


「そうだ、めぐちゃんの分もちゃんとあるからねー」


「いいんですか? 私の分まで」


「だって、めぐちゃんだってメンバーなんやから! 一緒に戦ってくれるんやろ……?」


「はい。心はステージの上です!」 


 受け取ったTシャツとジャケットをめぐはぐっと抱きしめた。今年、そのジャケットにめぐが袖を通すことはない。けど、確かに彼女は一緒にステージの上に立ってくれているはずだ。誰かがめぐの思いをすべて背負うことは出来ない。でも、それぞれが少しずつ、めぐの気持ちを連れていけばいい。


 シャツを配り終えると、知子が手を打った。


「会場で着替えるタイミングはないので、先にTシャツは制服の下に着ておいてください。出発まで小スタジオは女子の更衣室にします」


 制服の下にシャツを着込み、出発の時がやって来た。会場となる神戸国際会館までは、電車で移動になる。県外から来る学校は、泊まりになっているはずなので、ちょっぴり羨ましい。もちろん、大会前に普段と違う環境に置かれることはコンディション面で不利に働くことになるかもしれないけど。合宿の時の賑わいを思い出しながら、みなこは遠征も悪くないかもしれないと心の中で呟いた。


「それでは会場に向かいたいと思います! みんなは正門で待機しておいて、私と知ちゃんは川上先生呼んでくるから。それと忘れ物もしないように!」


「はい!」


 みちるの言葉に一斉に返事をする。ぞろぞろと部室をあとにする部員たちを眺めながら、みなこは忘れ物がないかもう一度部室を振り返った。


「ちょっと、七海! スマホと財布がドラムの椅子に置きっぱなし!」


「ほんまや! ハハハ……スティックさえあれば演奏は出来るから、オッケー……?」


「オッケーじゃない!」


 締まらない出発に全員から笑いが漏れる。頼りないところが心配だが、いつもの調子で助かる側面もある。部員たちの緊張感は自然となくなっていった。

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