「みなこー、ここはどうするん?」
「少しは自分で考えてみいや」
「考えても分からんから、こうやってみなこに教えに来て貰ってるんやろ!」
スウェットの腰元に手を据えて、七海は鼻息を荒くした。教えてもらう側とは思えない態度に、みなこは少々腹立たしさを覚える。けれど、今の自分の姿勢が他人の家で披露するものとは思えないものであることを自嘲して怒りを飲み込んだ。
三日間の期末試験の最終日前日、七海にどうしてもと頼まれて、また彼女の家まで数学を教えにやって来ていた。
「それもそうやけど、」
七海のベッドに寝そべっていた身体を持ち上げて、みなこは七海のノートを覗き込む。手に持っていた世界史のノートが、身体を起こした拍子に七海の枕を潰した。書かれていたのは、二次方程式の虚数解を求める問題。文系クラスである七海たちのクラスもいつの間にか、数学Ⅱの範囲まで授業が進んでいるらしい。
「その問題は、教科書に書いてあるこの公式を使わんと」
「おぉ、なるほど。その為の公式か!」
「むしろ使わずにどいうやって解こうとしてたのか」
「こう、暗算でぱぱっと!」
「天才数学者でもさすがに無理やわ」
よく分からない指をグニャグニャと曲げる七海の仕草に、みなこは笑いを溢す。解き方が分かったのが嬉しいのか、七海はすぐに問題を解き始めた。
「その公式で、どうして解けるか理解してる?」
「さぁ?」
「さぁって、それじゃ意味ないやん」
「そうなん?」
みなこの溜め息をよそに七海はペンを走らせながら破顔する。
「理解できないものを無理して理解する必要はなくない?」
「昔の人が大変な思いをしてせっかく導いてくれたものやで」
「それは分かってる。やからありがたく受け入れてるやん。拒否しているわけじゃない」
「……受け入れるか」
七海の枕を圧縮している世界史のノートを開き、みなこは再び七海のベッドに身体を倒した。明日のために覚えなくちゃいけない用語は、なかなか頭に入ってこなかった。
*
チャイムと同時に、テストが終わった安堵と夏休みが始まる高揚感に支配された溜め息とざわめきが教室を包み込む。後ろから回って来る解答用紙の答えが目に入らないように、視線をそらしながら、みなこは前列の奏に用紙を手渡した。
「みなこちゃん、すぐに部室いく?」
「あー、提出してないプリントがあるから、それ出してからいくー。奏ちゃん先に行ってて」
「分かったー」
呪縛から開放されたように生徒たちは教室を飛び出していく。とはいえ、あと数日テスト返却のための短縮授業が残っているのだけど。それに文化祭の練習などで、夏休みの間も度々訪れなくてはいけない。
提出しなければいけないプリントを持って、みなこが数学準備室に出向くと、廊下の隅で里帆と杏奈が話し込んでいるのが見えた。挨拶しようと近づけば、里帆の口から「桃菜」という単語が聞こえて、いつかの合宿の時と同じじゃないかと思いつつ、みなこは咄嗟に円柱の柱に身を隠してしまう。
「美帆はなんて言ってるん?」
「合宿にはちゃんと連れて行くからって」
「まるで親やな」
「あの子はそのつもりなんかもね」
蒸し暑い廊下に溶けていく里帆と杏奈のやり取りが、じっとりとみなこの鼓膜に張り付いて離れない。手にかいた汗が、握ったプリントを少しずつ湿らせていく。
「本人も自分の音が狂っていることを理解はしてるみたい。元に戻せないもどかしさは、痛いくらいに分かる。杏奈だってそうやろ?」
「まぁ、楽器やってる人はみんな一度は経験することかもね。スランプ。そんな一言の言葉で片付けれられたら苦労なんてせんけど。どれだけ分かってあげていても助け舟は出せないか」
「私じゃ桃菜は救えない。あの子の心に入って行けるのは美帆だけやから」
「難儀な子やな」
「杏奈に言われたらお終いやな」
「違いないかも」
自嘲気味の乾いた笑いを杏奈がこぼす。「頼りにしてるで部長」と杏奈が掛けた言葉に、「こういう時、部長って何が出来るんやろか」と里帆が弱々しい言葉を返した。
「私に聞かれても」
「杏奈は経験者やんか」
「いかにも。でも、私と里帆じゃやり方が違う。それにあの頃の私はみんなを全国大会へ導けなかった」
杏奈は中学時代に吹奏楽部の部長を努めていたらしい。全国大会を目指して日夜練習に励んでいたけれど、その目標を達成することは出来なかった。杏奈の明るさや後輩にも分け隔てなく接する態度は、部長の度量にふさわしいものであったとみなこは思う。
「私は杏奈が部長になっても良かったと思ってる」
「ありがと。でも、先輩たちの判断は違う。入学して早々、どちらがふさわしいかを先輩たちは見抜いていた。私自身も気づいてなかった自分の弱さや綻びを先輩たちは見抜いていた。今になって思うことは、この代の部長は里帆以外、考えられない」
「ほんとにそうなんかな。このままじゃ大会はおろか、次のイベントも失敗しちゃうんじゃって」
「それは里帆だけの責任じゃないやろ。今の里帆は責任から逃れたくて私を評価しているだけに思える。それはとても失礼なことやで」
「ごめん」
聞き慣れない弱気な里帆の言葉を聞き、みなこは柱の向こうの里帆の表情を想像してしまった。曇ってしまった可愛らしい顔が、困り顔の杏奈を見つめている。薄暗い廊下を照りつける細い夏の日差しが、二人の間を割っていた。居心地が悪いのは、丸みを帯びた柱に背を預けてしまっているからだろうか。
会話は突如として終わりを告げ、みなこの方へ足音が迫って来た。逃げなくてはいけない、という罪悪感とプリントを提出しなくてはいけない責任感に押しつぶされて、身体が固まってしまう。
「おわぁ!」
柱の向こうから現れた杏奈は、影に潜むみなこを見つけて目を見開いた。里帆は部室に向かったらしく、彼女の隣には誰もいない。
「清瀬ちゃん?」
「あははは……、お疲れ様です」
「清瀬ちゃんは、盗み聞きのスペシャリストかな?」
「そんなつもりじゃないですよ」
「じゃ、どういうつもりかな?」
「このプリントを出しに来たら、たまたま聞いちゃったんですよ。笠原先輩の話をしていたから出ていくわけにもいかなくて……」
拗ねたみなこの物言いに、杏奈はケラケラと笑いをこぼした。胸元のリボンが愉快に揺れる。
「こんなところで話してた私らも私らやけど、居合わせる清瀬ちゃんも清瀬ちゃんやな」
「すみません」
「ええよ。けど、里帆の弱気な発言は聞かなかったことにしてあげてな」
「それはもちろん分かってます」
自分たちには見せることのない顔は、部長ではない素の彼女だ。部を運営し統率するために作り上げられた仮面をボロボロと崩すつもりなど、みなこには毛頭なく、聞かなかったことにするのは容易かった。
代わりに桃菜に対する杏奈の感情を知りたい欲求が湧いてくる。
「杏奈先輩は、笠原先輩の今の状況をどう思ってるんですか?」
「喜んでいて欲しい?」
「いいえ」
「そっか。けど、素直に喜べば純粋なヒールで入れるのにな」
「そういうのは杏奈先輩には似合いませんよ」
「そうかな? あの子のことを妬み恨んでいれた方が幸せだったとは思うけど、」
杏奈の眉の根本がピクリと跳ねた。廊下の影が作り出すひんやりとした空気が彼女の頬を涙のように伝う。
「でも、打算的で冷静な思考がどうもそれを許してくれない。桃菜がいないと大会には勝てないことは分かってるから。それに、仮に桃菜のスランプがずっと続いていても私に勝ち目はない。あの子がどれだけ調子を落とそうが私とはレベルが違う。むしろ腹立たしさが勝ってるわ。私を負かしておいて、最後の年にスランプやなんて……。それは強者にはずっと強者でいて欲しい弱者の甘えなんかもな」
苛立ちは彼女の優しさから来ているものだろう。彼女の胸の中に渦巻く感情を心配だと認められないのは、本人が言うように弱さなのかもしれない。
私も数学のノートを提出しに来たんやった、と杏奈は手に持っていたノートをこちらにひけらかした。「一緒に行こうか」とみなこに掛けられた言葉は、優しく安心感のある上級生の声色だった。
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