『第三楽章 エゴと混乱と大会と』
秋になり、宝塚南高校ジャズ研究会は全国大会である「ジャパンスクールジャズフェスティバル」に向けて活動を進めていた。初の大会にみなこが緊張する中、コンボで出場するメンバーを決めるオーディションが行われるのだが……
宝塚南の一年目に幕が下ろされる第三楽章がついに始まる!!
線香の香りが好きだ。心が落ち着くし、何より懐かしい気持ちになる。みちるにとって、母とはこの甘く穏やかな香りそのものだった。
仏壇の脇に置かれた両親の写真に「おはよう」と挨拶して、にっこりと破顔してみせる。亡き両親に元気な姿を見せるのが、みちるの朝の習慣だった。記憶にある限り、この習慣を忘れたことは一度もない。
「もうすぐ秋の大会やよ。一年生の子らもめっちゃ上手になってきてんねん。今年は去年よりもいい結果が出るかも」
母はみちるがまだ二歳の頃、父は楽しみにしていたみちるのセーラー服姿を見ることなく亡くなった。返って来ることのない返事を想像することすら、今のみちるには難しい。恐ろしい早さで過ぎていく時間の濁流に、二人の声は飲み込まれてしまった。
「みちる、朝ごはん出来たよ」
「はーい」
まん丸い木製のお盆に乗せて、祖母が朝ごはんを運んで来た。焼き鮭とサラダに目玉焼き。祖母は醤油派で、みちるは塩コショウ派だ。サラダにはみちるが大好きなミニトマトが五つも乗っている。
祖母からお盆を受け取って、みちるはこたつ机の上に料理を並べていく。冬は布団をかぶっているこたつも、夏が過ぎたばかりのこの時期はまだ裸のまま。夏でも布団をかけておいてくれれば、ここで昼寝ができるのに。そんなことを考えながら、空になったお盆を祖母に返した。
「今、ご飯とお味噌汁も持ってくるから待っとってね」
「うん。いつもありがとうねぇ」
みちるの関西弁は、みんなと少し違う。引っ込み思案で友達が少なかったみちるは、小さい頃から祖母とばかり遊んでいた。祖母は愛媛県出身で、そのせいでみちるにも伊予弁がうつってしまったのだ。
今みたいに、気軽に人と話せるようになったのはいつからだろう。問いかけた答えは、意外にも簡単に自分の中から返ってきた。人と仲良くなれたのはジャズのお陰だ。みちるは、スマートフォンを操作してアプリを立ち上げる。優しく穏やかなジャズのメロディが流れた。
やっぱり音楽はいい。紡がれるメロディの中に母を感じられるから。きっとこのメロディはみちるの知らない母の姿だ。秋雨に濡れた百合のような柔らかい背中を思い浮かべる。あれだけ暑かった今年の夏もすっかり落ち着き、秋らしい風が和室を吹き抜けてきた。い草の香りが、鼻孔をかすめる。混じっている甘い香りは庭に蕾んでいる百合だろうか。
「少し寒なってきたかな」
お盆を抱えた割烹着姿の祖母が窓の外を見遣る。ふっくらと炊きあがったご飯の湯気をみて、「もうすぐ秋やからね」とみちるは美味しそうな香りを目一杯吸い込んだ。鰹節と煮干しの出汁がきいた味噌汁のいい匂いもした。
「冬服もそろそろ出しとかなあかんかなあ」
「そうやね。来週から移行期間やからお願い」
夏服を着る機会がもうなくなってしまうのは寂しいけど、新しい季節がやって来るためには仕方ない。いつまでも制服に身を包んでいるわけにはいかないのだ。時間が過ぎて大人になることは、少しだけ誇らしくちょっぴり怖いけど、知らない自分と出会えることは楽しみでもある。
箸を手に取ったみちるは「頂きます」と言って手を合わせた。向かいに座った祖母も同じように手を合わせる。
「みちるはもうすぐ大会やんね?」
「そうやよ。全国大会!」
「頑張ってなぁ」
「うん。きっとお母さんも聴いてくれてると思うから」
みちるは前髪につけた赤いリボンをなでた。これは母がみちるのために買ってくれていたものだ。母がみちるに残してくれたものは数少ない。でも、ゼロじゃない。そう思えてから、みちるは寂しくはなくなった。
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