知子がやってきたのは、それから十五分程してからだった。扉の鈴が鳴って知子の姿を確認すると、すぐに「お疲れ様です」と二人は立ち上がる。
「おつかれ」
薄めのストールをほどきながら近づいてくると、知子はこちらを見遣って静止した。どちらに座ればいいのか迷っているのだと気づき、みなこは慌てて里帆の隣へと席を移す。
「わざわざ、すみません」
「ううん。ちょうど帰る準備してたところやから」
胸元に垂れた長い髪を手で背中へと流す知子の視線は、メニュー表を見つめていた。
「でも受験で忙しんじゃないですか?」と里帆が訊ねると、「私、予備校とか行ってへんから」と知子はメニュー表を元あった場所へと戻した。
「模試でいっつも負けてるって、みちる先輩が悔しがってましたよ」
「確かに勉強は私の方が得意かも。でも、私に無いものをみちるは持ってるよ」
注文を取りに来たマスターにホットのカフェラテを頼み、「さすがに引退したら、予備校にも行かなあかんかなって思うけど。ギリギリやろうけどさ……。今は部活に専念したいねん」と続ける。
「織辺先輩は、やっぱり音大とか受けるんですか?」
みなこの問いかけに、知子は穏やかに頭を振った。
「それもいいかなって思った時もあったけど、今は別の志望校があるから」
「そうなんですか」
「なんか残念そうやな。私は音大受けると思った?」
「織辺先輩のピアノはやっぱり上手ですし。久住先輩も自分たちの代で可能性があるなら織辺先輩だって」
「ありがと。でも、音大に行くだけが音楽を続ける方法じゃないしね。今はまだプロになりたいとか思ってないけど、もし心変わりしたとしても、ステージにはいつだって立てるから。その方法はいくらでもある」
将来のビジョンがしっかり見えていることがすごく大人に思えた。自分はまだ来年のこの時期にどんな副部長になりたいのかすら分かっていない。
注文したカフェラテが届き、知子が砂糖を溶かした。スプーンで混ぜ合わせると、柔らかい泡がスプーンの縁にへばりつく。
「それで?」
ソーサーの上にスプーンが置かれて、カチャンと音を立てた。穏やかなだった空気が、つんと緊張感で満たされる。みなこが口を開けないでいると、里帆は恐れのない様子で話し始めた。
「オーディションのことで話があります」
知子がコーヒーカップを口につけた。意図的な仕草だったのか、たまたまだったのか。そのせいで口元が隠れてしまう。彼女は、どういう反応をしていたのだろうか。カップがソーサーに戻された時、すでにいつも通りの表情に戻ってしまっていた。
「やっぱりそのことか」
「はい。発表の時にも言いましたが、私は結果に納得していません」
「別にこの決定は私が一方的に下したものじゃない。三年生みんなで出した結論。それに伊藤さんだって理解してくれた」
「それはつまり、その会議の内容を知る権利は、私達にはないと考えているんですか?」
里帆にそう詰められて、知子は口ごもる。壁にかかった振り子時計の音が、チクチクといやに耳についた。
返答のない知子を見かねて、里帆は言葉を続ける。
「私は知る権利があると思います。どうして伊藤さんがビッグバンドを外されたのか、その理由を教えて下さい」
先輩二人のやり取りを前に、みなこは何も口出しを出来ない。自分の前に置かれたコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
「結果発表の時にも言ったけど、この判断は大会のため。私が弾いた方が良い結果が出せると思った」
「それはそうかもしれません。でも、それならその判断はピアノだけの話に留まりませんよね?」
あえて名言はしなかったが、里帆が言った「ピアノだけじゃない」という話には、ギターも含まれていることだろう。コンボでは選ばれているのに、ビッグバンドでは席を譲っている楽器すべてに当てはまらなくてはいけない。
反論の言葉がすぐに浮かばないのか、知子は視線を落とす。横にいる里帆をみなこが見遣れば、その双眸は真っ直ぐに知子だけを見つめていた。事情聴取をしている刑事みたいというよりかは、嘘を認めない真面目な子どもような表情に思えた。
「他の部員の演奏には満足している。けど、ピアノに関しては私のセクションだから意見を言わさせてもらった」
その言い分が意味のなさないものだと分かりながら、知子は言葉を紡いでいるように思えた。段々と弱くなっていく語気と自信のなさ気な表情に、古めかしい照明が影を落とす。
「その権利は織辺先輩に無いはずです。部長、副部長、顧問で選ぶ中で、当事者がいるセクションは当該する生徒抜きで選ぶのが通例だったはずですよね。みちる先輩か川上先生が、その提案をしたなら理解できますけど」
「私は本当に大会で結果を出したい、最優秀賞を取りたいだけ。伊藤さんも納得してる。それなら不満なんて無いはずでしょう? 会議の内容を聞かれても、これ以上は私からは答えられない」
「それはどっちの意味で答えられないんですか?」
ジリジリと燃える白熱灯が、知子を見つめる里帆の瞳を焦がしている。
知子は大会で勝ちたいのが本心だと告げた。それがあの会議の議題の全てだったと。だけど、里帆もみなこも知子が嘘をついているのだと思っている。話せないのは、もっと他の理由があるからだと。
「どうしてですか! 織辺先輩が部長ですよね? それにこれは織辺先輩からの提案だったんじゃないですか?」
「だからこれ以上、言えることはなにもないねん!」
知子の語気が強くなった。ブレザーのボタンが重厚な木製のテーブルに当たり、鈍い音を立てる。
明らかに、里帆の言っていることが正しい。他の部員が知子に気を使い会議の話を渋るのは理解できるが、知子にはぐらかす権利はないはずだ。少なくともこの状況で、里帆からの訴えを退けることは、他に理由があるのだと自供しているのと同じことになるはず。
「じゃあ、どうしてみんなの前でちゃんと説明をしなかったんですか? それは織辺先輩の……」
――優しさなんじゃないですか? 告げなかった言葉の続きはきっとそれだ。
「大会と普段のビッグバンドは別ものだと言ったはず。……これ以上は、どれだけ話しても平行線やと思う。遅くなるとあかんから、今日はこれで。お代は置いておくから」
知子が財布から千円札を抜き出し机の上に置いた。半分も減っていないコーヒーカップは、まだ僅かに湯気立っている。隣の席にかけていたストールを手に取ると、知子は逃げるように出口の方へ向かった。
「私はやっぱり納得出来ません。それにこのままじゃ、大会で去年よりも上の結果を残すことなんて……」
去りゆく知子に里帆がそう告げた。扉に手をかけて、知子は一瞬立ち止まる。
「……二人もあんまり遅くならんようにしいや」
寂しい表情が夜の帳の中へと消えていく。虚しさで型を取った鐘が静かな空間に響いた。
その残響を聞きながら、どれだけ二人して黙っていただろう。振り子時計が刻む一秒がやけに長く感じた。恐らく一分だとか二分くらいだったはずだ。はじめに沈黙を破ったのはみなこだった。目の前から知子がいなくなった安堵感のせいか、思いの外軽くなった喉が声を紡ぐ。
「織辺先輩は嘘をついているんだと思います」
「私も同じ意見や」
視線を里帆の方に向ければ、彼女は真面目な面持ちではっきりと頷いた。長いまつげに縁取られた澄んだ双眸を見つめながら、みなこは訊ねる。
「誰をかばってるんだと思いますか?」
祥子が言っていた、――誰かを思う優しさ。知子が思っているのは誰なのか。「大会で勝ちたい」というのが彼女のエゴだとすれば、「理由を話せない」というのは誰かをかばっているからだ。
可愛らしい里帆の唇がゆっくりと開く。
「これは私の勘なんやけど……」
「私も一人だけ思い浮かんでます」
みなこの反応に、里帆がこちらを向いた。隣に並んで二人で顔を見つめ合う。合図するわけでもなく、同じタイミングで同じ形に唇は動いた。
――みちる先輩。
声は綺麗に重なった。視線を落として、考え込むように里帆が口元に人差し指を少し折って付ける。
「あの場に最初っからおったんは、織辺先輩、伊藤ちゃん、みちる先輩の三人。もし、祥子先輩が言う『誰かを思う優しさ』が伊藤ちゃんに向けてのものだとすれば、伊藤ちゃんが清瀬ちゃんたちに事情を説明出来ないわけがないと思う」
「私もそう思います。それに、あとから会議に参加した三年生でもないと思いますし、……少なくとも当事者にそのことを告げずに決定を下すようなことはしないと思うんです。だから、他の一、二年生じゃないはずです」
もちろん、あの会議に出席していた他の三年生の可能性もある。だけど、祥子の口ぶりからすると、彼女自身は候補から外れるはず。そうなると、残るのは健太だが……。あの時、祥子は健太にも言及していた。それは暗に、みなこに対してヒントをくれたんじゃないだろうか。
「ただ一つだけ分からんのは、どうして伊藤ちゃんをビッグバンドから外すのが、みちる先輩を思う優しさになるのかってことや」
「それは同じ意見です。その点だけ考えると、めぐのためっていうのが妥当な気もしますけど。……里帆先輩が言うように、めぐなら私達に言ってくれると思うんです。演奏がうまくいかないくらいに心配させてしまっていることは自覚しているはずなので。それでも言えないのは、めぐも他の誰かをかばっているとしか」
めぐと知子が別の誰かをかばっているなら、その対象者は一人しかいない。どういうわけか、めぐがビッグバンドを降りることがみちるのためになるらしい。そう仮定付けるしかなかった。
里帆は、すっかり薄くなったオレンジジュースを口の中に含んだ。ズルズルと音を立てたストローは、里帆の唇から離れると、氷の中へとその身を沈めた。
「みちる先輩に聞いても答えてくれんかったしなー」
「みんなが自分のためになって動いてくれているなら動けなくなる。みちる先輩はそういう優しい人だと思います」
「そうやな」
だからこそ、知子が見せる優しさは、本当の優しさなのだろうか、と疑いたくなった。事情は何も分からない。でも、あのオーディションの日からのみちるの表情を思い出すと、晴れやかな時はなかった気がする。相手を思ってかける優しさが、逆に相手を傷つけ苦しめる。それは日常で頻繁に起こりうるものだ。良かれと思っての行動は、大概の場合、相手を傷つけてしまう。
「万事休すかな」
里帆は悲しげに肩を落とした。知子から話を聞き出せると期待していたのだろう。それに後輩の前で強がっていただけで、最上級生に対して思いをぶつけるのは、彼女にとっても勇気のいるものだったのかもしれない。
酸味のあるコーヒーの香りが鼻を刺激する。落ち着いた店内の雰囲気が、いつも間にか鼓動を早めていた心臓を落ち着かせてくれた。
本当に、もう出来ることは何もないのだろうか? 最後の望みだった知子も答えてくれなかった。けど、分かったことが一つだけある。知子が、みちるのために行動しているかもしれないということだ。
そうと分かったのだから、みちる本人から聞き出せれば一番いいのだけど、みちる本人が望んでいるかどうか分からない事情を追求するのは心苦しい上に気が引ける。それに答えてくれる望みは薄そうに思えた。
みなこは、残っていたコーヒーを一気に飲み干す。すっかり冷えた苦い液体が、喉の奥を少しだけ強く撫でた。若干の甘さが、鼻から抜けていく。みなこは隣でじっとテーブルの木目を見つめる里帆の手を取った。
「週末、部活休んでもいいですか?」
「週末? 部活?」
いきなり提出された休みの申請に里帆が戸惑う。「どれだけかかるか分からないので、丸一日お休みが欲しんですけど」とみなこが続けた。
「お休みは、個人の自由やから止めはせんけど……」
「大会が近いので迷惑がかかるかと」
「まぁスケジュールの変更が出てきてしまうかな。……けど、これは理由を聞いても問題ないやつやろ?」
里帆は、こちらの目を見て何かを察したらしい。普段、部活を休むのに理由なんて聞かれない。参加や不参加は自由なこの部活の方針を、里帆は破ってみせた。それはきっと知子への可愛らしいあてつけだろう。
みなこは、握った里帆の手に力を込めて返した。
「みちる先輩のことで思い当たる人がいるんです」
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