「暑いっー」
額から垂れる汗を、七海が細い指で拭う。出来るだけ日陰を歩こうとしているのか、彼女は家の塀のギリギリを進んでいた。
「あんまり暑い暑い言うな。余計暑くなるやろ」
「暑いもんはしゃーないやんか」
叱りを入れためぐに、どういうわけか七海は引っ付こうと近寄った。「暑いやろ」とめぐがツインテールを揺らし、その身体を押し返す。
「暑いって言ったらあかんのちゃうん!」と七海は頬を膨れさせた。
真上から少しだけ傾いた太陽は、まだまだ元気いっぱいに長い雲雀丘の坂道を照らしつけている。遮るものが何一つない真っ青な空を見上げて、みなこは眩しく目を細めた。白く霞む空が、やけに遠い。限りなく見えるこの空が、自分たちの未来のようだと言えば、笑われてしまうだろうか。
「合宿楽しみだね」
穏やかな奏の声が、みなこの意識を連れ戻した。薄い彼女の唇が楽しそうに緩む。奏が標準語なのは、転校が多く東京での生活が長かったからだ。そのせいか、人に気を使ってしまう性格なのだが、それが妙にいじらしく彼女の可愛さを引き立てている。
「奏ちゃんは本当に楽しそうやな」
「みんなで行けるイベントだから。修学旅行とか遠足も転校してすぐだったりして、中々馴染めなかったんだ」
蒸し暑さを連れた風が、坂の上から下ってきた。その風が奏の柔い髪をなびかせる。今度はふわりとした甘い奏の香りを連れて、風は遠い空の彼方まで足早に消え去った。
「確かに! みんなで旅行するみたいで、ちょっとワクワクするかも」
「みなこは、遠足の前の日に寝られんタイプやもんな」
悪戯に細めた目を、七海がこちらに向けた。それは事実だけど。その目はどういうつもりだ。そんな七海の横でめぐが同じような目をする。
「へぇ、なんか意外やな」
かわいいとこあるんやな、と口元に手を当てるめぐに、「もー。そういうのってあるやんか」とみなこは唇を尖らせる。奏ほどじゃないかもしれないが、みんなとどこかへ行くというのはそれなりに楽しみなのだ。
「うちはぐっすり眠れるけど?」
「七海は普段から、本番の時みたいに少しは緊張して」
ふん、と鼻を鳴らしたみなこを見て、めぐがケラケラと愉快に笑った。夏前までは、七海のことをからかっていたはずだが、最近は七海とめぐがみなこをからかうようになった気がする。嫌な気持ちはしない。むしろ、楽しいくらいなのだけど。わざと怒ったフリをして不機嫌っぽく振る舞ってみる。
顔をそらした先では佳奈がずっと隣を歩いていた。怒った顔をまじまじと見られ、少し気恥ずかしくなる。
少しだけ口端を緩めて、彼女の視線はみなこの向こう側へと移った。
「谷川さんたち三人は同じ部屋やっけ?」
「そう三人部屋だよ。佳奈ちゃんは、みなこちゃんと同じ部屋だったよね?」
「うん。三人部屋も楽しそうでいいね」
五月のイベント後に七海と衝突のあった彼女だが、今ではすっかり一緒に帰るようになった。きつく縛られたポニーテールが爽やかに揺れる。上手くなりたくないと語った彼女は、自分の夢と向き合って、プロのミュージシャンになることを決めたのだ。
でもさ、とめぐがアーモンドの形をした目を細くする。
「私たち三人部屋の誰かを三年生との二人部屋にすれば、人数的に二人ずつになるはずやけど、気を使ってくれたんやろうな」
そう言われて、みなこはプリントに書かれてあった部屋割の表を思い出してみた。
「あー、確かに。三年生の女子も三人部屋やもんな」
部員は十五人。部の伝統だという男子の少なさのため、三人しかいない彼らは自然と同部屋だ。残りの女子は、一年と三年が奇数人。そこで一年三年のコンビを一組作れば、他が二人ずつとなり上手く分けられる。
一年が自分たちと同部屋になれば、必ず気を使わせてしまう。そういう判断が働いたのだろう。思えば、大部屋ではなくビジネスホテルなのもそういう理由かもしれない。
それじゃ誰がこんな風に気を使ってくれたのか。もちろん例年そうだという可能性はあるが。「でも、こういうのって、みちる先輩は気にしなさそう」とみなこは独りごちる。
「そうやな。こういうとこに気を回してくれるんは、みちる先輩じゃなくて織辺先輩やろうな」めぐの頭が同意するようにコクリと揺れた。
「みちる先輩はむしろ、みんな同じ部屋で泊まりたいって思ってそうや」
みちるは優しくおっとりとしていて、後輩が同部屋でも気にしないタイプの先輩。知子はその反対で、後輩に上手く接っすることが出来ないことを自覚してか、こういうことに気を利かせてくれる。正反対の二人は、互いの足りないところを上手く補完し合える良いコンビなのだ。
阪急の駅が見え始めたところで、奏が不思議そうに佳奈の方を覗き込んだ。
「そういえば、今日は佳奈ちゃんこっちなの?」
「うん。今日はサックスの教室があるから」
「それじゃ、宝塚まで一緒だね」
奏が嬉しそうに手を合わせた。佳奈の家は学校から近く、阪急雲雀丘花屋敷駅へと続く道から一つ路地を外れたところにある。そのせいで普段は学校から出てしばらくすると、佳奈とは別れるのだけど、今日は阪急宝塚の方にある音楽教室に練習に行くらしい。
ちなみに、この辺りは所謂高級住宅街であり、佳奈の育ちの良さはその端麗な見た目だけじゃないのだ。そんな育ちの良い彼女とは、まるで正反対の七海の元気な声が静かな住宅街に響く。
「よーし! 合宿終わったらみんなで、どっか遊びに行こうや」
「行きたい! 佳奈ちゃんも一緒に行くよね?」
「うん。行きたい」
奏に短い返事をした佳奈の表情は、ツンとしていた春先とあまり変わっていないように見える。だけど、ほんの少しだけ緩んだ口元をみなこは見逃さなかった。みなこの視線に気づいたのか、佳奈の頬が少しだけ赤くなる。
「なに?」
「べつにー」
みなこは思わずクスリと笑みが溢れる。佳奈のこういう表情が見れるのも、あの時、勇気を出して話をした成果だ。私のおかげ? なんてちょっぴり誇らしく思えた。
「お盆は休みのはずやから、その辺りで予定合わせてとこか」
めぐが何やらスマートフォンを操作し始めた。予定を合わせるために、アプリを立ち上げているらしい。七海が発案して、めぐがみんなの意見をまとめスケジュールを立てる。ちょっとどこかへ遊びに行く時でも、この役割はいつも同じだ。彼女は、こういう役割が向いている。ふと、みなこの脳内に夏頃に任命される学年リーダーと書紀のことが浮かんだ。
宝塚南のジャズ研では、将来的にこの役職が部長、副部長に昇格することが一般的になっている。一年の中で一番頼りになるのは、めぐなんじゃないかとみなこは密かに思っているのだ。
駅に近づくと、銀色の遮光板を光らせた電車がゆっくりとホームへと滑り込んで来ていた。宝塚方面に向かう電車だが、三人に慌てる気配はない。ギラギラと照りつける太陽を見やり、ホームでの立ち話は暑くなりそうだ、とみなこは目を細めた。
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