ブルーノート

~宝塚南高校ジャズ研究会~
伊勢祐里
伊勢祐里

二幕5話「ホットケーキ」

公開日時: 2021年9月10日(金) 19:09
文字数:3,409

 花と音楽のフェスティバルを十日後に控えたこの日、校内は中間試験のテスト期間に入った。大会というわけでもないので、特例は認められず、テストが終わるまでの一週間、部活は休みとなる。


 そんなテスト期間の初日、里帆から招集が掛かった。呼ばれたのは、各学年リーダーと書記。一年生には相当する役職の部員はいないので、声が掛かったのは、みなこ、めぐ、大樹ということになる。話は部活に関してのことだったようだが、テスト期間ということもあり部室は使えず、非公式な活動ということで、場所は雲雀丘花屋敷駅近くの喫茶店が指定された。ちょうど去年の大会前、知子を呼び出した趣のある喫茶店だ。


 数学を教えて欲しい、と七海から泣きつかれていたのだけど、部長命令だから仕方ない。「明日、教えてあげるから」と断りを入れれば、恨めしそうな目を向けられてしまった。数学以外にも勉強しなくてはいけない教科はあるだろうに。数学が特段にひどいということもあるが、七海はどの教科も赤点ギリギリをいつも低空飛行している。


 夏のような日差しが降り注ぐ雲雀丘花屋敷の駅で、七海や奏と別れて、みなこは指定された喫茶店へ向かった。めぐは訪れたことがなかったらしいので、みなこが案内してあげた形だ。駅からそれほど距離もなく、案内するにはあまりに近い距離だったが。


 純喫茶というのは入るのにそれなりの勇気を必要とするが、ここに来るのは二度目なので思ったよりもスムーズに扉を開くことが出来た。ちらほらといる客席を見渡すと、左奥に里帆と大樹が向かい合って座っているのが見えた。


 恋人同士を思わせる雰囲気があったが、そのことを言えば、二人にしばらく怖い顔を向けられそうなので、心の内にとどめておく。


「お疲れさまです」 


 近づいて声を掛ければ、「あーお疲れ」と二人が揃って顔を上げた。同時に、大樹が立ち上がり、里帆の隣へと移動する。テーブルにはメニュー表だけが置かれていた。どうやら、注文はまだのようで、ちょうど何を飲むかを決めかねていたところだったらしい。


 みなことめぐが座席に座ると、里帆がメニュー表をこちら側に九十度回転させた。「ありがとうございます」とめぐが軽く頭を下げて、メニューをじっと見つめる。


「ホットケーキが美味しそう」


「この苺がたまらんのよなぁ、ほんのりとした甘さで最高やで」


「うぅ……」


 めぐを悩ませているのは、カロリーに他ならないのだろうと思った。春頃は軌道に乗っていたダイエットの成果は、近頃停滞気味らしい。


「みなこも半分食べる?」


「別にいいけど」


 去年から気になっていたことは内緒にして、みなこはめぐの提案を承諾した。晩御飯まではまだ時間があるし、今日からテストに向けて追い込みを掛けなくちゃいけないのだから、多少の糖分は必要経費のはずだ、と言い訳を心の中で呟く。


 飲み物も決めてマスターに注文を告げる。里帆と大樹がオレンジジュースを頼み、みなことめぐはカフェラテを注文した。


 マスターがカウンターの方へ戻るのを見届けて、里帆が「さて、」と話題を切り出した。今日は小さな木苺の赤いピン留めで前髪が留められている。


「話があるんやろ?」


 思わぬ話し出しにみなこの頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。「どういうことです?」と訊ねようとしたところで、隣に座るめぐが「はい」と頷いた。


「え、この集会ってもしかしてめぐちゃん発信?」


「ごめん、言うタイミングなくて」


 めぐと会ったのはついさっきだったから、話すタイミングが無かったというのは仕方ない。招集メールの文面からして、おそらくこうして幹部を集めたのは里帆の発案だろうと思った。めぐは、単純に里帆に相談したかっただけのはず。


「それはええけど。何の話なんですか?」


 みなこの言葉は、前半はめぐに、後半はここに集まる一同に向けての言葉だった。


 里帆はめぐから伝えたいことの概要を聞いているはず。テスト期間にも関わらず、招集を掛けるくらいだから、内容は緊急を要するものだろう、と思った。聞いた上で、幹部を招集するべきだと判断したに違いない。


「話については伊藤ちゃんから」


 里帆が手のひらをめぐに向け話を促したタイミングで、マスターが飲み物を運んで来てくれた。湯気立つコーヒーカップと氷の音が鳴るオレンジ色の液体が机に並べられる。ホットケーキは、もうしばらく掛かると伝えられた。


 気を取り直すようにめぐは一つ空咳を飛ばす。


「一年生のことについてなんですけど、すみれちゃんからある相談を受けていて」


「相談?」


 どうやら大樹も事前には聞かされていなかったらしく、不思議そうに首を傾げた。「水を差さない」と里帆が大樹の脇腹を肘で小突いた。


「一年生同士であまりうまくやれていないっぽくて。すみれちゃんがストレスを感じてしまっているみたいなんです」


 めぐの話を聞いて、愛華とのことだろうとみなこは思った。みなこに相談するくらいなのだから、ピアノセクションで直属の先輩であるめぐに相談しているのは当たり前のことだった。


「やっぱり人間関係ねぇ」


 嘆息を漏らして、大樹はオレンジジュースを飲み込む。オレンジ色の液体が減ったグラスには、透明な氷がごろごろと氷山のようにむき出しになった。グラスの縁にはオレンジの果実が刺さっている。


 こういうセンシティブな問題は、毎年のように浮上して、歴代の幹部たちが上手く処理してきたのだろう。大樹の口ぶりから、「今年もか」というニュアンスが伝わる。みなこの脳裏に過ぎったのは、もちろん佳奈と七海だった。


「雨宮のストレスの原因は聞いてるん?」


「向上心を感じられない子がいると、練習に身が入らない。そういう子がいるせいで、部の一体感を損なうって」


「なるほどなぁ」


 大樹の納得の嘆息に目を細めながら、里帆が背筋をしゃんと伸ばした。


「それで伊藤ちゃんは、すみれちゃんになんて返したん?」


「もちろん頑張るのは当たり前やけど、ジャズ研は自主性を重んじているからって返しました。部の空気の問題に関しては、私自身はそこまで感じていなかったので、あまりにひどくなれば、注意することもあるって」


「俺は妥当で模範な返事やと思うで」


「私も同意やな。深く追求すればええってもんでもないし。今のところ様子見って感じかな?」


「そうやろな。下手に割って入ってかき乱すのは良くないわな」


「そういうもんなんですか?」


 意外な結論に、みなこは思わず声が出てしまった。それは、問題を先回しにして、他人の問題に介入すべきではないという考えを持っている自分らしくはない意見だ。もしかすると、せっかく集まったのに、という思いがあったからかもしれない。


 はっとして両手で口元を押さえたみなこを、大樹が微笑ましく見つめる。


「これが、あの代のバランスかもしれないからな。それに、雨宮が伊藤にちゃんと相談してるってことは、信頼されてるってことやろうし。今後も何かあれば話してくれるんちゃうかな?」


「それはそうだと思います」


「なら、とりあえずは保留やな。大きな揉め事があった時に初めて動き出すくらい。もちろん、問題が起きそうにないか、敏感にアンテナを張ってなあかんけど」


「分かりました。注視しておきます」


 判断が様子見であるならば、これまでと変わらず、すみれたちと接しておくべきだろうと思った。仲の良い先輩後輩の程よい関係を築けているという自負があったから。


 話も一段落したところで、ようやくお目当てのホットケーキが運ばれてきた。


 こっちです、と手を上げたみなことめぐの間にピンク色のクリームの乗った豪華なホットケーキが置かれる。「なかなかのもんやなぁ」と感嘆する大樹の隣で、里帆が神妙な面持ちになっているのをみなこはふいに見てしまった。


 新入生にいざこざが起きていないか、というのは重要な問題であったはずだが、テスト期間中の異例の呼び出しを行うほどだったか、と聞かれると悩ましい。もしかすると、他に別の要件があったのはないだろうか。


「里帆先輩、他に何かあるんですか?」


「いや……、そうや。イベントあとの予定を組んだから、それを報告しとくな」


「気が早いですね」


「何言ってんの、夏休みなんてあっという間! それが明けたら文化祭してすぐに大会なんやから」


 明らかな誤魔化しがあったことを、みなこは気づいていた。けど、「ほら、ホットケーキ食べないと生クリーム溶けちゃうで」と、声を一段と明るくする里帆に、それ以上の追求は出来なかった。


 


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