佳奈はもう部活に来ないかも知れない。翌日の授業中、そんなことばかりが頭を巡り、気がつけば放課後を迎えた。あの場でなにか出来ることはなかったのか。自問自答を繰り返しても一向に答えは出てこない。すっかり落ち込んでいる七海を無理やり連れて、部室へと向かう。理由を知らない奏は随分心配していたが、詳しい事情を説明する時間はなかった。
七海を説得していたせいか、部室に着く時間がいつもより随分遅れてしまった。定例セッションがあるわけではないので、遅れること自体に問題はないのだけど。もし、佳奈が退部でもしていたなら、これから降り掛かってくる問題がみなこの中にずっしりとのしかかって来ていた。
「おはようございます」
重々しく部室の扉を開く。部屋の中はやけに、しんとしていた。綺麗に並べられた椅子に部員たちが座り、前に立つ知子の方を向いている。ドキッ、と胸が痛んだ。何の話し合いをしているのだろうか。もしかして、佳奈のことについてなのか。みなこの後ろにいた七海が、みなこのシャツを掴んだ。
「あ、良かった来た来た。遅いからてっきりみんな揃ってお休みかと思った」
明るい声を出しながら、みちるがこちらを手招きする。想像とは違う明るい雰囲気。それにみなこをさらに驚かせたのは、にっこりと破顔するみちるの奥で、なんともない顔つきで佳奈が座っていたことだった。てっきり彼女は現れないと思っていたみなこの脳内にクエスチョンマークが踊る。
「どしたん清瀬さん? 早く座って。ミーティング始めるから」
「は、はい」
知子に促され、みなこたちは席に着く。佳奈の方をじっと見つめるが、彼女は澄まし顔のまま、話をする部長の方を見つめていた。
「みなさん、昨日はお疲れ様でした。繰り返しになりますが、とてもいいパフォーマンスだったと思います。その一方、川上先生からの厳しいお言葉もありました。しかし、私たちに実力がまだまだ足りないのもまた事実です。今日からまた秋の大会に向けて、練習に取り組んでいきましょう」
部員たちが一斉に返事を返す。それに満足するように、知子は相槌を打った。
「それから急遽ミーティングを開いたのは、次のイベントのお知らせが出来たからです」
知子のその言葉に、部員たちから喜びの声が上がった。ミーティングは事前に知らされることがほとんどなのだが、こうして急遽開かれる場合もある。知子が手を打てば歓声はピタッと止んだ。
「ソリオ宝塚で行われる七夕のイベントで演奏することになりました。施設内一階にあるメインプラザでの演奏です。今回は単独出演なので、三十分ほどステージ時間があります」
「三十分もですか! やった!」
喜んだのは美帆だ。今日は紺色のゴムでポニーテールをしている。「はしゃぎすぎ」と隣で同じようなポニーテールが揺れた。里帆は緑色のゴムで髪を縛っている。
ソリオ宝塚は、阪急宝塚駅に隣接する商業施設だ。確か、一階の広場は三階まで吹き抜けになっていて、中央にある階段の踊り場にちょっとした舞台のような箇所があったはずだ。ちょうど昨日、佳奈と七海が一悶着したあの場所に近い。
知子が詳細を話す前に大樹が手を上げて質問をした。
「曲は何曲くらいやる予定ですか?」
「移動やMCのことも考えて、五曲は演奏したいと思っています。そのうち二曲はコンボでの演奏です」
「ってことはオーディションですね」
オーディションという言葉に、部員の顔がすっと引き締まった。コンボのオーディションは全員参加。ビッグバンドの選考とは違い、完全に実力主義で選ぶ方針らしい。そして、このオーディションでは、みなこのビッグバンド参加へのチャンスも懸かっている。
「オーディションの件も含めて、夏休み前までのスケジュールを配ります」
そう言って、知子がプリントを配り始めた。佳奈から回ってきた紙を、みなこは無言で受け取る。
「オーディションは、二週間後の六月中旬です。今回はコンボも含めたオーディションになるので、土曜日を丸一日使って行います。公平を期すため、ピアノは先生とみちるが、サックスセクションは、先生と私で審査をします。オーディションについて質問はありますか?」
「ビッグバンドに選ばれる基準は、三曲とも弾けるレベルにある必要がありますか?」
質問者は航平だ。恐らく、彼はすでに楽譜を配られている曲のうちどれかを練習しているのだろう。もし次のイベントで同じ曲が選ばれていれば、合格する自信があるのかもしれない。
「いいえ。花と音楽のフェスティバル同様、一年生には配慮して一曲のみの参加なども考えています。もちろん、全曲参加出来ると判断すれば、全曲弾くチャンスはあります。前回、合格した人は、コンボのオーディションでそういった部分も判断するので、頭に入れておいてください。では、演奏曲についてはみちるから」
知子に促されて、みちるが立ち上がった。小さな身体に楽譜の束を抱えている。
「今回も曲は私と川上先生で選ばせてもらいました。一年生も出来るだけ参加出来るように、昨日のイベントで演奏した曲も選曲しています。ちなみに文化祭では、ちゃんとみんなの意見も聞いて選曲しようと思ってるからね」
そう言って、みちるは楽譜を配り始めた。
「演奏するのは、『A列車で行こう』『Little Brown Jug』『Rain Lilly~秋雨に濡れるゼフィランサス~』『モーニン』『tea for two』の五曲です。ビッグバンドの選曲は、一年生がなるだけ参加できるように選曲しました。ただ、『Rain Lilly』に関してはまだ難しいかもね……。秋の大会もあるし、そこに練習時間割けるよう『tea for two』はピアノのソロにする予定です」
ピアノがソロということは実質的に知子のリサイタルになるということ。めぐにだってチャンスはあるだろうけど、知子の実力は本物だ。みちると先生は、彼女の力を加味して曲を選んだはずだ。
「それじゃ、選曲に関する質問はある?」
全体に問いかけたみちるの視線は、明らかに七海に向いていた。きっとこっちから質問が飛んでくると踏んでいるのだろう。だけど、七海はみなこの隣ですっかり静かになっていた。みちるが心配そうに眦を下げる。
「あれ、七海ちゃん今日も元気ない?」
「あ、いえ。質問ですね……。『モーニン』と『tea for two』はどんな曲なんですか?」
少し無理をして、七海が明るい声を出した。こちらの事情を知らないみちるが、微笑ましそうに赤いリボンを揺らす。
「オーディションは二週間後やからまだ緊張せんでもええんよ」
「そうでしたね」と七海が笑いごまかした。
曲の話を七海が問いかけたということは。みなこの想像通り、「それなら!」と里帆と美帆がくるりとこちらを振り向いた。
「『tea for two』も『モーニン』も、どっちもめっちゃ有名な曲やで」
と里帆が言えば、
「『tea for two』はジャズのスタンダードナンバー! 『モーニン』はジャズがテーマの映画とかアニメでも使われてるから聞いたことあるんちゃうかな」
と美帆。
こちらに微笑ましい笑みを向けて説明し終えると、二人の目元はぐっと細くなって互いに睨み合った。苦笑いを浮かべるみなこに、二人は互いに負けじと説明を続ける。
「『モーニン』は冒頭のピアノのフレーズが印象的なボビー・ティモンズの曲で、誰もがイメージするジャズっぽい響きが特徴。ファンキージャズの代表的な曲やな」
「それに、ブルーノートの四千番台の中でも有名な曲やで」
「そ、そうなんですね」
「あー早く織辺先輩の『モーニン』早く聴きたいわー」
「里帆より私の方が織辺先輩の『モーニン』楽しみにしてるけど?」
「私の方が五倍は楽しみにしてますぅ」
「私はその十倍ですぅ」
同じように揺れるポニーテールを目で追いかけながら、みなこは首を傾けた。話が段々、曲の説明から遠ざかっていっている。
「あの、四千番台ってなんですか?」
それは、と言って里帆が美帆の前に身体を入れた。
「ブルーノートっていうレコード会社があって、そこが出してるアルバムの番号。千五百番台と四千番台と言えば、名盤が多いことで有名やねん。清瀬ちゃんが知ってる曲も多いと思うで」
邪魔だと言いたげに、美帆が里帆の脇を小突く。それがこそばゆかったのか、クスクスと里帆は笑いを堪えていた。
「今度、聴いておきます」
こちらの会話が一区切りしたのを見計らって、知子が空咳を飛ばしながら手を打った。
「おしゃべりはそこまで。それじゃ、今から個人練習に入ります。前回、ビッグバンドに受からなかった一年は、なるだけ『Little Brown Jug』を中心に練習してください。きっと、みなさんなら参加出来るはずです」
知子からの激励に一年組は、しっかり返事をした。みなこは配られた楽譜をファイルに仕舞い、ため息交じりで以前配られていた『Little Brown Jug』の楽譜を取り出した。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!