「一年生は、今日はここまでやでー」
パチパチと手を打ちながら、里帆が小スタジオに入ってきた。テスト前となり、本来ならば部活は休みなのだが、演奏会の練習という名目で一年生には一時間だけ与えられている。
「もう一時間か! 早い!」
まだ叩き足りないと言いたげに、七海がバスドラムをドドンと鳴らした。まるでおもちゃ屋の前で駄々をこねる子どもみたいだ。
里帆の後ろから杏奈がひょっこりと顔を出して、ニヤついた口元を隠すように上品な素振りで手を当てる。
「大西ちゃんは、数学苦手なんやろー。帰ってちゃんと勉強せなあかんでぇ」
「今回のテスト範囲、今世紀最大に分からないところなんですー」
七海の反応に、ケラケラと杏奈は笑った。煽っている杏奈を叱咤するように、「杏奈も数学は苦手やろ」と里帆が肩をすくませる。
「大西ちゃんみたいに、赤点ギリギリってことはないから」
「杏奈先輩、裏切りですか!」
「数学苦手同盟なんて、結んだ覚えはない!」
七海と杏奈のやり取りを見ながら、思わずといった具合に里帆は笑い出す。いつも通り明るく振る舞っているように見える先輩二人だが、みなこの目にはその表情は僅かに曇っているように映った。
その要因は明確だ。テスト週間のため現れなくなった知子。そして何より、大会のメンバーから外されてしまっためぐを心配してのことだろう。
「まぁテストも大切やからしっかり勉強して欲しいけど、時間がない中で演奏会は上手くいきそう?」
優しい口調で問いかけた里帆に、めぐがいつも通りのトーンで答える。
「子どもにウケそうな曲も決まりましたし、しっかりやってみせます」
「そっか。分からんこととか、困ったことあったらなんでも言ってな」
里帆のその言葉には、どこまでのニュアンスが込められているのだろう。恐らく演奏会のことだけを指しているわけじゃない。――困ったことがあったなら。里帆が本当に言いたかったのは、その箇所なんじゃないか、とみなこは思った。
*
放課後の部活が一時間で終わるというのは、なんともあっさりしている。やった気になれず、ごねる七海の気持ちは分からなくもない。けど、学生の本分は勉強だ。しっかりと、テストはクリアしなくちゃいけない。赤点なんてもってのほかだ。みなこは今回、世界史が少しだけ心配だった。
「お疲れ様です」
ギターのシールドを片付けに大教室へ戻ると、大樹が背もたれの椅子に浅く腰掛けて休憩をしていた。みんな外の空気を吸いに出たのだろう、他に部員はいない。普段は見せないだらしない格好は油断していたのか、みなこが声をかけると慌てた様子で彼はその場に居直した。
「おつかれー。あー、もう終わりか」
「そうなんです。テスト週間なので、一時間の特別練習です」
「去年は俺らもそうやったな。練習は順調?」
「順調と言えば、順調ですけど。意見交換の時間も加味して、二十分のセットリストの通し練習を二回しか出来ないんです」
ため息をこぼしながら、みなこはラックにぶら下がったS字フックに丸めたシールドを掛ける。毎回ちゃんと片付けて、部室は綺麗にしておくこと。それはジャズ研の暗黙のルールだ。
「今回の演奏会は、小さい子どもたちに音楽の楽しさを伝えることが趣旨やねんから、そこまで力入れんでもええんちゃう? 気楽に、気楽に。ミスしても笑顔で楽しく演奏していれば、子どもたちは喜んでくれると思うで」
「それでもクオリティーは求めちゃいますよ」
どんな練習でも真剣に取り組むこと。それが上手くなるための唯一の道だとみなこは思っている。それに、別の道があるとしても出来るだけ遠回りはしたくない。
引退までの二年という時間は、まだまだ遥か先にあるように思えるが、一瞬で過ぎ去ってしまうものだと思う。それは想像でしか無いけど。大人たちはみんな口を揃えてそう言うものだ。長く永遠に続くようにも思える高校生活は、儚く一瞬で終わるもの。まるで線香花火だ。
「清瀬は真面目やな」
「杏奈先輩みたいなこと言わないでください」
悪い悪い、と大樹は目元に皺を寄せた。
「でも、音楽は楽しく演奏するべきだと私も思います」
ビッグバンドに参加することが決まれば、大樹のポジションを奪ってしまう。春先に悩んでいたみなこを勇気づけてくれたのは他でもなく大樹の言葉だった。
「大樹先輩もそう思いますよね?」
みなこの問いかけに、彼は少しだけ俯いた。手の中にあったピックを爪で弾いて、表情を曇らせる。
「俺もそう思ってる」
「じゃあ、どうしてそんな顔するんですか?」
「きっと、今の状況が俺の思ってた部の総意と違うからやと思う」
それは、みなこも感じていたことだった。だからこそ、大樹に対して問いかけてしまったのだ。このジャズ研は「楽しく音楽を演奏すること」を追求していたはずだ。勝ちにはもちろんこだわるけれど、楽しさを捨てることはない。音楽を構成するその一文字を失ってしまえば、自分たちが奏でるものは忽ち音楽ではなくなってしまうのだ。
「大樹先輩が言っているのはめぐちゃんのことですよね」
「うん。多分、二年生の多くは納得してないんちゃうかな」
「特に、里帆先輩はそういう雰囲気でした」
「織辺先輩に食って掛かってたからな」
おっかないと言いたげに、大樹は眉尻を下げる。それでも、「あいつのあーいうところが、部長になれる器であるところを証明してくれてるんやけど」と、部室の隅でスタンドに立てかかっているサックスを見つめた。
「信頼してるんですね」
「まぁ、もうすぐ俺が副部長やからな。支えてかなあかん立場やし」
少しだけ照れながら、大樹は頬を掻いた。その肌を赤らめさせている感情は、本当に彼女を褒めてしまった照れだけなのだろうか。
「テスト週間に入って、織辺先輩とコンタクトも取りづらくなってもうたから、今は出来る練習をこなしておくしかないかもしれんな」
「そうですよね……。めぐちゃんのことを心配し過ぎない方がいんでしょうか」
「うーん。あの会議には伊藤も参加してたみたいやし、本人が異論の声を上げない以上、……少なくとも俺が動くことは出来んよな。出来るとしたら、やっぱり里帆か――」
大樹の目がまっすぐにみなこを見つめる。里帆は時期部長だから、その責任がある。そして、その次に責任があるのは、大樹ではなく同級生のみなこだと言いたいらしい。その責任を生んでいるのは、書記というポジションというよりかも、めぐとの間柄だろう。
だけど、大樹はあえてそれを明言しなかった。代わりに、「けど、気持ちのサポートはしてあげてな」と表情を緩める。
「はい。今日は変わらない様子でしたけど、出来るだけ細かいところにも気付けるように注意しときます」
「このあと、里帆がどう動くか分からんけど、俺はやっぱりみんなで楽しく演奏するのが音楽やと思ってるから。もし、あいつが部長とぶつかるなら味方をするつもりや」
――ぶつかる。物騒な言葉が大樹から飛び出して、みなこは思わず口ごもる。自分たちの作りたいジャズ研。それが里帆と大樹との間でしっかりと共有されているから、おかしいと思うものに挑んでいく覚悟があるのだろう。そして、自分だってその立場にあるのだ。めぐはどういう部活を作りたいと思っているのだろうか。
「また一年生の中でも話をしてみます」
「そうやな。たった三度しかない大会やから。後悔のないようにせな」
――おせっかい。いつもなら邪魔をしてくるそいつは、珍しく鳴りを潜めていた。この問題が部全体に影響し始めることを、ひしひしと感じているからだ。知らないフリはできない。
そして、それは友人の問題に関心のない冷たい人間だ、と思われたくない保身のせいなのかもしれない。
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