二幕「不和の火種」
春から夏へと、世界を取り巻く空気が衣替えの準備を始めている。けど、季節は気分屋だから、暑くなったと思えば、また寒さをぶり返し、また暑くなってを繰り返していた。長袖を捲くりながら、みなこがギラギラと輝く太陽を見上げると、ビルの隙間から見える狭い青空に、小さなちぎれ雲がいくつか浮かんでいた。
「七海先輩、目的地はあっちっすよ?」
「ふふふ、実は三番街の裏手に美味しいパフェ屋さんがあるのだ」
「マジっすか!」
「私は何でも知ってるのだよ!」
「七海先輩さすがっす! 尊敬します!」
女子高生らしい単語につぐみが目を輝かせて、七海のあとに着いていく。彼女の着ているパステルカラーのシャツは、派手過ぎず夏らしい爽やかな印象を受けた。けど、少しだけ子どもっぽいのは愛嬌だろう。
ちなみに三番街とは梅田にある阪急の駅ビルの愛称だ。
「横断歩道を走らない!」
すみれの叱咤に、つぐみと七海がしょんぼりと肩を落とす。先輩の威厳はどこへやら。落ち込んだ様子で、二人は点滅し始めた横断歩道をトボトボと歩き戻ってきた。
「まずは今日の目的を果たさないといけないでしょ」
デニム生地のマキシスカートと黒のタイトなシャツで、大人っぽくコーディネートされたすみれは、見た目だけじゃなく中身もしっかりとしている。つぐみから聴いた話だが、中学生時代は学級員長も努めていたらしい。みなこの記憶が正しければ、めぐも中学の時にやっていたはずだ。七海は学級員長に弱いのだな、とみなこは流れの止まった人波を見つめる。
「うぅ……ごめんなさい」
「パフェは洋服屋さんを巡ったあとでいいですよね?」
こちらを向いて、眼鏡のフレームを指先で持ち上げたすみれに、みなこはコクリと頷いた。ちゃっかりパフェは食べるのだな、と喉元で詰まった言葉を呑み込んで、目的地であるJRの高架下にある商業施設を目指し歩き出す。
ゴールデンウィークの中頃、参加が自由のジャズ研にしては珍しく、明確な休みが設けられた。川上に外せない用事があったらしい。生徒の自主性を重んじて、おおよそ部活に姿を見せない川上だが、もしもの時に備えて、部活のある日には学校に出勤してくれている。面目上でも顧問の役割を果たせなければ、部活を行うわけにはいかず、やむを得ず休みにしたらしい。
もちろん、川上が来られない日もあって、そんな時は別の部活の先生にお願いしているそうなのだが、ゴールデンウィークとだけあって、休みを取っている先生や校外の試合などでほとんどの先生が出払ってしまい、都合がつけられなかったらしい。川上は自分の予定を取りやめると言ってくれたそうだが、里帆が断りを入れたのだとか。
「みんなごめんね、付き合って貰っちゃって」
「いえいえ、私たちこそ誘って貰ってありがとうございます」
申し訳無さそうに奏がはにかめば、横に並んでいた佳乃が首を振った。佳乃の薄い紫色のストライプスカートの裾からは、コンバースのスニーカーが覗いている。
「でも、せっかく休みだったのに」
「いえ、本当に、」
「先輩たちと買い物に来られて嬉しいっす!」
すみれからの叱咤などすっかり忘れたように、つぐみが今日の空模様のような明るい声を出す。佳乃もそれに同意するように、言葉の途中で横に振っていた頭を縦にした。
「でも、本当に誘って貰って良かったんですか?」
茶色いフレーム越しに、すみれの双眸がこちらを見遣った。みなこは、「みんなと来られて嬉しいよ」と先輩スマイルを振り撒く。
「それにめぐちゃんと佳奈には、用事があるみたいで断られちゃったから。人数多い方が楽しいし。どこか行きたいところがあったら気兼ねなく言ってな」
せっかくの休みということで、「服を買い物に行きたい」と言い出したのは奏だった。けれど、すぐにめぐと佳奈の予定がつかないことが判明。少し落ち込んだ奏のために、みなこは一年生組を誘うことを提案した。
ちょうど一年生との距離を詰めることも出来るし、里帆から一年生に不和はないかを探って欲しいと頼まれていたので、偵察の意味合いもあった。去年もこうして、部活内に亀裂が走る要因となり得るものはないか、と先輩たちは気を使ってくれていたらしい。
去年の上級生たちの気苦労を想像して、みなこはつい深い吐息が漏れた。
「めぐ先輩が来られないのは少し残念です」
「そうやんなー。すみれちゃんはピアノセクションやし、やっぱりめぐちゃんが一番気兼ねなく話せる?」
「そうですね。いや、だけど、もちろんみなこ先輩も尊敬してますよ」
「いやいや、私はええから。すみれちゃんは真面目そうやし、めぐちゃんも良い後輩が出来たって思ってるはずやで」
「そうですかね」
すみれは照れを隠すように眼鏡のフレームを持ち上げた。背の高いすみれの顔を覗き込むように見つめれば、彼女はみなこからさっと目をそらす。夏を思わせる強い日差しがレンズを反射して可愛らしい瞳を隠してしまう。
「それで言うと、灰野さんも来られたら良かったんですけどねー」
「愛華ちゃんは用事だったの?」
みなこたちの前を行く奏と佳乃がそんな言葉を交わしていた。人がごった返すJRの高架下の横断歩道で立ち止まる。人熱れが充満した冷ややかさのない影がみなこたちを包み込む。
奏の問いかけに答えたのは、佳乃ではなく、背後にいたつぐみだった。
「うーん。そういうわけじゃないみたいなんっすけどね」
「一応は誘ったんやろ?」
「はい、誘いましたよ。けど、素っ気無い感じで断られたっす」
ふーん、と鼻を鳴らしながら、七海は頭の後ろで手を組む。その視線は阪急百貨店のコンコース側にあるラーメン屋の方を向いていた。話を真面目に聞いているのか怪しい。
「愛華ちゃんは馴染めてない感じなん?」
みなこがそう問いかけたのと同時に信号が青へと切り替わった。轟々と響いていた車の音が遠ざかり、横断可能を知らせつメロディが流れた。やがて一斉に動き始めた人混みに習ってみなこたちも動き出す。
横断歩道を渡り切ったすぐのところに、目的地である商業施設の入り口があって、正面のガラス製の押しドアを開けて奏と七海が中へと入って行った。中から漏れ出た冷たい空気が、みなこの足元を伝いアスファルトへと流れていく。
「馴染めてないと言いますか、」
くせのある髪をかき分けて、佳乃は指先で首筋を掻いた。気を使ったのか、扉を押さえてき売れている。「ありがと」とみなこがお礼を言えば、ニッコリと佳乃は頬を緩めた。
「灰野さんは距離を取ってる感じです」
室内に入ったことを考慮してか、声量を僅かに落とした。
「クラスでもそんな感じなんかな?」
「どうなんでしょう? クラスが違うのでなんとも」
他クラスのこととなれば、普通はそんなものだろうと思う。詳しいのは、よっぽどの情報通か噂好きか。去年の今の時期に佳奈のことを聴かれれば、みなこも佳乃と同じ返答をしていたはずだ。
お目当ての店を見つけ、奏が店内へと入って行くのが遠目に見えた。お洒落好きの奏の最近の流行りはトラッド系らしい。自分には似合わないだろうなぁ、と思いつつ、みなこは奏のあとに続く七海とつぐみの背中を視線で追いかける。
「佳乃ちゃんは、愛華ちゃんとも仲良くしたいん?」
「もちろんです。せっかく同じ部活になったんですから」
以前のつぐみと佳乃は同じことを言った。当然のことと言えばそうなのだけど。二人の言葉には嘘や社交辞令のようなものはないと感じて、ほんの少し安心した。仕切りのない店内では、七海が思い思いの服を自分の身体に当てて首を傾げている。
「私は、あーいうのはあまり良いとは思えません」
奏たちがいる店の二つ隣を横目に見遣りながら、すみれが語気を強めた。落ち着いた店の雰囲気からすみれの好みの店なのだろうと思った。
「あーいうのって言うのは愛華ちゃん?」
「はい。佳乃やつぐみが何度か話しかけたりしてるんですけど、そのたびに冷たい態度を取られていて」
「それぞれの距離感ってあると思うから」
「でも、協調性がないのはいけないことですよね? 全員で部活をしているわけですし。それに音楽を奏でるのだって、コミュニケーションが無いと成立しません」
「確かにそうかもしれない」
すみれは真面目な性格で、愛華のように人と群れないタイプの人間が苦手なのだろうと思った。こうした嫌悪感を表に出すのは、正直なところなのか、子どもっぽいところなのか。どちらにしても、これまでのすみれの印象からは少しだけ外れる。
「けど、愛華ちゃんはサボったりしているわけちゃうよね」
「そうですね。練習はちゃんと来ていますし。それじゃ、みなこ先輩的には、私が間違ってると思うんですか?」
「そういうわけじゃないけど」
どちらかというとすみれの意見に賛同する。けど、何かが引っかかるのはどうしてだろうか。煮え切らない考えが、もやもやと思考をかすれさせていく。それはきっと、以前につぐみの考えを聞いてしまっているからだ。
「無理強いは良くないかなって」
「それを言われるとそうなんですけど」
「すみれちゃんは、愛華ちゃんと仲良くしたいん?」
「私だって佳乃やつぐみと同じ意見です。同じ学年同士で距離感があるのはやっぱり気持ち悪いと言うか」
「それは分かるよ」
「でも、向こうにその気がないならどうしようもないですし」
「まぁ、それもそうか……」
店の中では、つぐみが七海に対してアドバイスを送っている。どうも七海には似合いそうにない服なのだけど、選んでる本人は至って真面目だ。
「私は普通の態度を求めているだけなんです」
眼鏡越しの眦が強張ったのを見て、「まぁまぁ、」と佳乃がすみれをなだめた。
「灰野さんも緊張しているだけかもしれないし」
「佳乃とつぐみは優し過ぎる」
「そうかな?」
「誘って、あの態度なら普通は怒るよ」
「怒っちゃったら、もっと距離が離れちゃうやん」
「そうかもしれんけど」
これが不和の火種となるのか。見定めるような目をしたみなこに、二人は逃げるように視線を下げた。もしかすると、怒られると思ったのかもしれない。
里帆から一年生の様子を見て欲しい、と頼まれはしたものの、今日、彼女たちを誘った目的は、仲を深めるための意味合いが強かった。元気をなくしかけた二人の袖を引き、「あっちの店見てみる?」とみなこは明るい声を出す。
「あ、私、気になってたんです」
すみれの声と表情が明るくなって、みなこは、やっぱりか、と胸をなでおろした。
「私はあんまりファッションに自信ないからすみれちゃん見てくれる?」
「任せてください」
決定的な不和があるわけではない。だから今のところは、みなこの胸のうちに留めておいて、機会があれば里帆に報告をしよう。そんなことを考えながら、店の中にいる奏に一声掛けて、すみれの気になるという店へと向かった。
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