ガチャン、と音を立てて黄色い缶が落ちてきた。取り出し口のプラスチックカバーに引っかかる熱々のコーンスープに、みなこは恐る恐る手を伸ばした。
十月も中旬になり、山の上にあるせいか、夕方の校舎はすっかり冷え込む。
「そんな真冬みたいなの飲んで」
はふはふと手の中で暴れるコーンスープと格闘していると、杏奈にそう声をかけられた。片手に握った小銭を投入口に入れながら、彼女はこちらに視線を向けて口端を釣り上げる。杏奈も飲み物を買いに来たらしい。ガチャガチャと小銭を飲み込んで、まるでイルミネーションのように自販機は鮮やかに色めき出した。
「今日は寒いじゃないですか」
「確かになー。今は十一度やって」
スマートフォンで天気予報を確認したらしく、杏奈はその画面をこちらに向けた。画面には向こう六時間の気温と天気が表示されている。場所が西宮と表示されているのは、杏奈の家に地域が設定されているからだろう。同じ県内だが、山の上であるこの場所はもう少し気温が低いかもしれないと、みなこは凍える身体を震わせながらそう思った。
「身体が冷えます」
「熱い思いを込めて演奏してたら身体は冷えへんよ!」
杏奈の冗談を笑えないみなこに、彼女は困った表情を浮かべた。いつもみたいに「清瀬ちゃんは真面目だなー」と返って来ないのは、その冗談があまりに過去の自分を否定していたからだろう。
「今の杏奈先輩は熱い思いがあるんですか?」
徐々に穏やかになっていく缶の温もりは、その熱がみなこの手の中へと吸い込まれていったからだ。「ちゃんと振って飲まな、コーンがもったいないで」と杏奈は、パックのオレンジジュースのボタンを押す。
ボスッ、と低い音が響いて、オレンジ色の紙パックが落ちてきた。張り付いたストローを剥がして、杏奈はそれを銀色のシールへと突き刺す。彼女が吸い込めば、真っ白なストローの管の中をオレンジ色の液体が登ってきた。
「どうなんですか?」
みなこはもう一度訊ねた。自分の言葉は、まるで杏奈を責め立てているように感じたが、彼女はそういう印象を受けなかったらしい。優しく微笑んで、口元を緩めた。
「以前よりかは。でも、全国を本気で目指してた吹部の時のような熱い思いはないかもしれない。いい意味でも、悪い意味でも。あの頃は誰にも負けたくなかった。世界の誰よりも上手くなりたいって思ってた。けど、今は違う。自分よりも上手い人が世の中にはたくさんいて、どれだけ努力しても勝てっこないことを知った」
「それでも杏奈先輩は音楽を続けるんですよね」
「うん。勝ち負けだけに囚われていたけど、それだけじゃないことに気づけたから。どうして演奏したかったのか、どうしてトロンボーンが好きだったのか。他人と比べることでしか目標が達成出来ないのは弱いことなんよな。きっと、それに気づけたのは、谷川ちゃんのおかげ。……もちろん、負けたくはない。負けるのは悔しいけどね」
悔しい気持ちは大切だと思う。それが無ければ努力なんて出来ない。けど、勝てない相手がいるからといって、全てを投げ出す必要なんてないのだ。それだけの理由で、大好きなものを手放す必要なんてない。
「今はオーディションに一生懸命になりたい。トロンボーンじゃなくベースでね。やっぱり桃菜には勝てんから。けど、谷川ちゃんのライバルにはなれる」
「ライバルですか」
「なんか子どもっぽいって馬鹿にした顔してへん?」
「してないですよ!」
「そう? けど、善戦を尽くした上で、谷川ちゃんに勝って欲しいかな」
「どうしてですか?」
校舎の隙間から覗く世界の縁が、オレンジジュースをこぼしたみたいな色に染まっている。影が落ちた杏奈の顔が物悲しく見えた。だけど、去っていく明るさを追うようにやって来る夜が連れてくるのは、寂しさや悲しさじゃないはず。
「私の目標は大会じゃなかったから。あくまで文化祭のあのステージ。でも、勝負で負けたくない気持ちはあるんやで。それ以上に、谷川ちゃんが勝って喜んでる姿がみたいねん。……おかしいかな?」
「おかしくないと思います」
いずれ、夜は明ける。いつだって単純なサイクルの中にいるのに、そのことをつい忘れて、何もかもを投げやりになってしまう。けど、数ある人生の夕暮れを乗り越える方法は、夜の生き方を知ることなのだ。だから、杏奈はもう大丈夫。
「そうや、お土産なにがええ?」
「お土産ですか?」
「修学旅行! 部にも買ってくるけど、清瀬ちゃんと谷川ちゃんには特別なものを用意してあげよう」
「いえいえ、いいですよ」
「もー遠慮しないでー」
チュー、と杏奈はストローを吸い上げる。少しだけ窄んだ唇はぷっくりとしていて、ちょっとだけセクシーだと思った。
「それじゃ……えーっと、どこに行くんでしたっけ?」
「シンガポールやで」
「シンガポールって何が有名なんですか?」
「マーライオン?」
「マーライオンですか……」
七海だったら元気よく「マーライオンを買ってきてください!」なんて言うんだろうなと思い、中庭の池にマーライオンがあることを想像してみる。邪魔な上に必要ない。冗談を飲み込んだみなこの内心などつい知らず、「キーホルダーかなにかにしようかな」と杏奈は真面目な顔で考え込んだ。
「頂けるなら、私は何でも嬉しいですよ」
「清瀬ちゃんは真面目やなー」
杏奈先輩だって、と言いかけてやめる。おどけた先輩をからかうのは、自分らしくない。杏奈はケラケラと喉を鳴らして、紙パックをゴミ箱へと投げ入れた。
「さすがにここで立ち話してたら身体冷えてきそうやわ」
紺色のブレザーから覗く灰色のセーターを手の先まで伸ばして、杏奈は廊下へと駆けていく。ジュースを一気飲みすれば、そりゃ寒くなるはずだ。みなこは、手の中にずっとあったプルタブを開けて、コーンスープを口へと運ぶ。温くなってしまったスープは、ほんのりと甘く口の中をわずかに温めた。
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