翌日、台風はすっかり過ぎ去り、まばらなちぎれ雲の隙間から綺麗な青空がひろがっていた。蝉しぐれの降り注ぐ長い雲雀丘の坂を登りながら、みなこはあくびを噛み殺す。時間はまだ六時過ぎ。いつも七海と鶯の森駅で待ち合わせをする時間よりも早い。
昨日、部活が早く終わったため、色んなことが前倒しに片付いた。合宿の疲れもあってか、思いの外早く眠ってしまい、目覚めたのは目覚ましが鳴るよりもずっと前だったのだ。まだ暗い中から準備を始め、暇を持て余したためにこうして登校してきた。
知子が練習の有無は連絡してくれると言っていたが、警報はすべて夜中の内に解除されていたからあるはずだ。なかったとしても学校の規則に従って自主練をするのは悪いことではないはず。
今日はお盆休み前、最後の練習だ。ここから五日ほど部活は休みになる。家でも練習は出来るのだけど、まだまだ夏休みの宿題も残っているし、それなりに遊びにだって行きたい。誘惑とやらなければいけないことを並べると、五日間という休みはあまりにも短く感じられた。
さすがに自分が一番乗りだろう、と職員室に鍵を取りに行くが、すでに鍵は持ち出されていた。「まさか、」とみなこは驚き、時計に目をやる。自分が時間を間違えていただけだろうか。しかし、時間は六時過ぎだ。確か、合宿前にもこんなことがあった気がする。あの時は七時過ぎだったけど。
一体誰が来ているのだろうか、と思いながら、みなこは部室に向かった。階段を登りきったところで、音楽準備室の方から綺麗なトロンボーンの音色が聴こえてきた。金管楽器の保管場所は、吹奏楽部と兼用で音楽準備室を使っている。まだ音楽室は施錠されている様子だったので、吹いているのはジャズ研の部員だろうか。
一応、スタジオの中に誰もいないことを確認して、みなこは準備室を覗き込んだ。
「杏奈先輩」
開いた窓から台風が残していった強い風が吹きつけ、カーテンを大げさに揺らしていた。キラキラした朝の陽射しが、金色のトロンボーンを煌めかせている。杏奈はこちらに気づくと、マウスピースから口元を離してニッコリと口端を緩めた。
「あ、清瀬ちゃんおはよう」
「おはようございます」
みなこはペコリと頭を下げて、準備室の中へと足を踏み入れた。
「清瀬ちゃん早いなぁ」
「いやいや、杏奈先輩の方が早いじゃないですか」
「確かにそうかもなー」
杏奈の手が物悲しくトロンボーンのボディを撫でる。杏奈のセクションはベースだが、奏がビッグバンドに合格してからはトロンボーンも担当している。もちろん、ベースの実力は杏奈の方が上なので、コンボのオーディションは杏奈が勝ち取った。
「なんでこんなに早いんですか」
「昨日、早くに終わったやん? ちゃっちゃと寝たら、めっちゃ早く目覚めてもうてん」
「あ、私も同じです」
「清瀬ちゃんも一緒かー」
明るい声を出し、杏奈は肩にかかった髪を指で弾いた。
「でも、なんで準備室で吹いてたんですか?」
「スタジオのエアコンが効くまでちょっと涼んでてん」
確かに窓のないスタジオと比べて、ここはまだ涼しい。山から吹き降りてくるひんやりとした心地のよい風が窓から入ってくるのだ。
杏奈はマウスピースに口を添えた。細い体躯から吐き出される息が、管を流れベルを鳴らす。彼女が奏でた優しい音色は、ジャズではなく吹奏楽の楽曲だった。
合宿の前も今日みたいに杏奈とスタジオで一緒になった。その時に聴いたのは、彼女が中学時代、吹奏楽部だったということだ。こうして彼女がトロンボーンで吹奏楽の曲を演奏するのは、トロンボーンをやっていたからだろう。だとすれば、杏奈はどうして高校に入ってベースに移ったのか。
ベースがやりたかったから? 彼女のトロンボーンは、彼女が今浮かべている笑顔とは裏腹に切ない音色を奏でていた。それと相まって、ホテルでの里帆との会話もよぎる。どうしても、やりたくてベースをしているようには思えなかった。
杏奈の唇がマウスピースから離れ、準備室に響いていた曲が鳴り止む。それと入れ替わりに蝉しぐれが部屋の中に響き渡った。
「清瀬ちゃんはジャズ研好き?」
彼女の質問の意図を、みなこは寝起きの頭で必死に考える。だけど、曖昧な彼女の笑顔が、真意を上手く包み込んでいた。これは深い意味なんてないシンプルな質問だよ。百貨店の包装のように綺麗にラッピングされた問いにはそう書かれてあった。それが嘘だと分かっているのに、その厚紙を破くことが出来ない。
「好きですよ……」
「そっか。こんな朝早くに来て練習してるんやもんなぁ」
それは杏奈先輩もですか? そんな言葉が喉の奥に引っかかる。飲み込むことも吐き出すことも出来ずに、みなこの息を詰まらせた。
目の前の先輩は作り笑顔を浮かべている。その笑顔は後輩と円滑に接するための営業スマイルだろうか。それとも自分の真意を相手から隠すためにつけている仮面なのだろうか。どちらであっても、みなこはその仮面を半分だけ剥いだ素顔を知っている。あの夜、里帆と話していたあの時の彼女だ。
冷たい朝の空気が鋭さを持ってカーテンを揺らした。半袖のブラウスの袖口から入り込んで心を鋭く突き刺してくる。杏奈は表情を変わらないまま、目線だけをそらし唇から息をもらした。
「清瀬ちゃん、」
「なんですか」
「もしかしてやけど、あの時の里帆との話、聞いてた?」
蝉の声は鳴り止まない。それなのに、どうしてかその音は遠ざかっていく。僅かな杏奈の息遣いと自分の心臓の音が煩いはずの蝉の声をかき消している。ひんやりとした汗が、手のひらにじんわりと滲み出した。嘘をつくのは簡単だった。だけど、脳裏に奏の顔が浮んでしまう。嘘をつけば永遠に杏奈から本音を聞き出せないような気がした。
「……はい」
杏奈の心に踏み込む勇気はない。だけど、ドアは閉めていないつもりだ。上がりたければどうぞ、だなんて、上からな思考だろうか。そんな自分が嫌になる。
「そっか。ごめんな変な気を使わせちゃって」
「いいえ、そんなこと」
「そんなことあるやろ?」
杏奈の眉に僅かに皺が寄る。でも笑顔は崩さない。それは牽制だろうか。私の心に踏み込む勇気があればどうぞ。そう言われている気がする。
互いに開いた扉の前に立ち、どちらかが歩み寄るのを待っているのだ。
「今だって、気まずさでなんて声をかけたらいいか分からんって顔してるで」
「いえ、そんなこと……はい」
一瞬、言葉を詰まらせてみなこは頷いた。杏奈が辞めると言った理由が奏ならば、自分にしてやれることはあるのだろうか。積極的には関わるべきじゃないと言い訳を並べていたはずなのに。そんな中途半端な決意を動かしたのは「奏の為」という偽善だ。
「どうして辞めるなんて」
「それは……私が凡人やからかな」
精一杯やったつもりだ、なんて見苦しい言い訳だろう。杏奈の心に踏み込むなんて恐ろしくて出来なかった。ただ、届けばいいなんて淡い期待を込めて手を伸ばしたつもりだ。だけど、杏奈は曖昧な答えでその手をスッと交わした。
「ほら、スタジオの空調も効いてきたんちゃうかな。朝早くから練習しに来たんやろ?」
そう言って、杏奈はトロンボーンからマウスピースを外した。部屋には蝉しぐれだけが煩く響いていた。
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