「……ギ、ヒツギさん!」
意識が覚醒する、急いで起き上がると、緋亞の顔をのぞき込んでいた林がそれを避けようと後ろに仰け反りそのまま尻もちをついた。
「……よ、よかった、目が覚めた」
「日辻は!」
周りを見渡したら、裏庭に続く北館の廊下であることがわかる。しかし、周りに日辻の姿はない。時計を確認すると、倒れてから数分しか経っていなかった。
「ヒツジさん、一緒、だったんですか?」
「ああくそ……最悪だ……僕は最初からここに倒れていたのか」
「ううん、裏庭。ヒツギさん倒れてた。僕ここまで運んだよ。ヒツジさんはいなかった……」
「……成程。こう言う時にあの犬がいればすぐにわかるんだが……」
恐らく裏庭の靄が原因だろう。身長の低い日辻が先に倒れ、緋亞が屈んだ瞬間に目眩がした。ラムに電話したら症状から特定できるかもしれない。ここの住人に日辻のことを言うべきか迷っていたら、林が切羽詰まったように泣きそうな表情で訴える。
「あの、ヒツギ探偵……!その、廉獄様も……いないです!」
次から次へと。焦る気持ちだけが募る。林が言うには昼食を持っていったら「一人にしてくれ」と言われたらしく、それを自室にいた希紗に伝え、次に林が呼びに行ったときはもういなかったらしい。時間経過から考えると、昼食を持った林と礼拝堂で会ったすぐ後廉獄は自室に籠り、その十数分後、緋亞達が裏庭に行き倒れる。数分して緋亞が目を覚ました時には日辻も廉獄もいなくなっていたということか。
「成程、自分から一人になったか…。他に今いない人物はいないな?」
「うん。僕、廉様に言われて、裏庭探しに来た」
「ふむ……とりあえず、あの靄の原因を知り合いに尋ね、あとは森を探すか……」
「僕も、探す!あと、皆さんにヒツジさん、探すように、言ってきます!」
「ああ手伝ってくれ。……それが得策かはわからないが」
林が走って北館へ戻ったのを確認し、ラムに電話をかける。
「おう、どうした?」
「油断した。日辻がいなくなった。それと、この家の主人もいなくなった」
電話越しに椅子から立つ音が聞こえる。軽く起きたことについてと、原因の靄での症状を話す。
「その主人……廉獄って人か。その人と日辻先生の共通点は?」
共通項、小説を読むことくらいしか思い当たらない。一瞬脳裏に「鏡で怪我をした」が浮かぶが振り払う。ラムが言うには靄は催眠額の類に似ているとのことだった。尚のこと人為的だ。
「まずは屋敷を探せよ、もう日辻先生に会えないとか俺は嫌だからな!」
「……僕もごめんだ」
「見つけたら必ず連絡しろよ」
「わかった」
言い切らない内に電話を切り、足早に北館へ戻る。気を失ったのは数分、屋敷内にいるのは確実なんだ。再開したときに、頬を膨らませたアイツに怒られる準備でもしておこう。
屋敷から見える外はすっかり日が落ち、所々にある外灯の明かりがついている。相も変わらず日辻はおろか廉獄も見つからない。屋敷内は一通り巡った。自分たちの客間も見たが、荷物はそのまま、日辻がいつも持ち歩いている電子タブレットも財布もそのままだった。焦燥する気持ちは段々と高まっていく。
もう一度、もう何度も見に行った客間へと足を進めようとしたところで、周りを見渡している廉と会う。こちらに気づくと急いで駆けてきた。
「ああ!彼女いなくなったんだろ?大丈夫かよ!」
大丈夫ではないし、彼女でもない。一つ咳払いをして話を変える。廉獄がいなくなった時から廉も屋敷内をくまなく探しているらしい。ここに来て一日も経っていない自分はともかく、何年も住んでいる廉が探しても見つからないのは異常だ。
「そういえば今は燕さんとはご一緒じゃないんですか?」
「ああ、流石に手分けした方がいいと俺が言った」
「ふむ…では今はみなさんバラバラに行動なさっていると。」
「ああ、とにかくお前も探すんだろ。ついでに俺の親父も一緒に探してくれ!……クソ、鏡で手を切ったと聞いたときから嫌な予感はしていたんだ!」
言い伝えだ。鏡で怪我をした後に鏡を見る。廉獄は鏡になんか近づかないだろうし、日辻は目をつぶっていた。そんなわけはない。
裏庭の、緋亞達ではない足跡を思い出す。鏡の前で途切れた足跡。廉獄は60代で小柄だ。緋亞より足は小さいだろう。いや、この推理はおかしい。そんなわけはないのだ。
客間から南東に行けば玄関がある。ここまで探していないのなら、あとは外か森しかない。ポケットのペンライトを取り出し、玄関に向かう、その途中で蓮が目の前を通った。緋亞に気づいた少女は黙ったまま、大きな紫の瞳を緋亞に向けていた。目線を合わせるために屈んで、どうしたと声をかける。舌足らずの幼い声は流暢に中国語を発し始めた。
「……鏡を介してあちら側とこちら側を繋ぐ。よかったね、ヒツジセンセイは戻ってこれて」
「彼方側は本当に存在するのか?…いや、それよりも、日辻がどこにいるか知っているのか」
「あるよ。こちら側とあちら側。鏡写しの世界。ヒツジセンセイは、鏡から戻ってきたよ。裏庭じゃない、もうひとつの鏡」
「……それはどこの鏡だ?この屋敷に鏡なんて……。まさか、池か?」
「……水鏡、早くしないと溺れちゃうよ」
「わかった、謝謝、蓮」
蓮の頭を撫で、玄関から外へ出る。蓮はまたどこかへ駆けて行ってしまったようだ。
玄関からすぐ見える池にペンライトを当てると、見慣れた白髪が水に濡れ光るのが見えた。急いで引き上げて、呼吸あるか確認する。ぐったりしているが呼吸は正常だ。水を飲んでいるわけでもない。
「日辻」
声をかける、抱きかかえた細い体は冷え切っていた。池から出て上着をかける。頬を少し叩くと体がピクリと微かに動いた。
「おい、起きろ。目ぐらい開けろ」
「…………ひつ、ぎ……?」
「……そうだ。バカ助手」
うっすらと目を開いた日辻が空色の瞳を見せ、探偵の名前を呟いた。視線が交差して、認識したようだ。ゆらりと、緋亞の頬に濡れた手が触れられた。心底安堵するように息を吐く。それが緋亞自身から発していたことに、緋亞自身も驚いた。急いだ足音が聞こえ、廉や燕も駆けつける。
「……どうだ、いい加減目が覚めたか。」
「……よかっ、た。緋亞だ…………よかった…………」
「……悪かった、日辻……すみません、彼女を休ませたいのですが、水か何かあとでいただいても?」
日辻はまだ少し上の空のようだ。聞こえるか聞こえないくらいの声で呟く。少し、抱きかかえた力を強めた。が、日辻は目を見開き、するりと抱えた探偵の腕から抜け出して屋敷内へ駆けだす。
「ま、待ってください!そんなことしてる場合じゃないんです!
廉獄さんが礼拝堂で、死んでるんです!」
廉が礼拝堂の扉を勢いよく開ける。そこに、廉獄の死体はどこにも無かった。何度も探したときに見た掃除のされた礼拝堂の部屋だ。
「嘘……な、なんで?」
「おい!死んだなんて嘘か!?」
「い、いえ……違います!ここの床一面真っ赤な血で……触れて確かに冷たくて……血の臭いも……」
「つ、疲れて夢でも見たんじゃ……っ!?」
「……こちら側にはいないよ。廉獄は"ボボ"に、あちら側に連れていかれたんだよ。」
蓮がいつの間にか礼拝堂のドアの前に立ち呟く。勢いよく振り向いた廉は蓮を睨みつけているが、蓮の顔色は変わらない。
「ふ、ふざけんな!そんな、あっちとかこっちとか、あるわけ無いだろうバカが!俺はまだ探すぞ!」
廉は叫び、礼拝堂を出ていく。希紗も、続いて廉獄を探しに行く。礼拝堂に残ったのは緋亞と日辻、林と燕と蓮だ。
「ふむ……実証出来ない以上仮説になるが……確かに廉獄氏は死んだんだろう。あちらの世界が存在するのであれば、だが。鏡合わせの、こちらそっくりな世界が向こうにあったのなら、ありえるだろう……非現実的で信じたくはないがな」
「じゃあ……私が今までいたのがやっぱり……」
日辻が青ざめる。やはり、と言っているということは、ただ気絶していたわけではないのだろう。緋亞は蓮の元へ歩き、もう一度目線を合わせる。あちら側については、この少女が一番手掛かりに近いところにいるだろう。
「……蓮、話を聞かせてくれないか。少しこいつが見たものとのすり合わせがしたい。」
「……おはなし、する?」
「その前に、ミキさんは一度お風呂に入った方がよろしいかと……林くん、用意お願いできるかしら」
燕が濡れた日辻に寄り、肩に手を置く。林はわかりました、と足早に洗面所へと向かった。何があったかは知らないが、精神的に衰弱しているのは確かである。戸惑いながら緋亞を見る目線に「別にいい」と返す。だが、浮かない顔は継続だ。
「その……」
「ああ、着替えは私が用意しておきますわ。ご心配なさらず……」
「違うんです……その、一人になるのが……」
燕も気づいたようだ。一人で風呂に入るのが怖かったらしい。緋亞は呆れながら日辻を見る。
「……風呂くらい一人ではいったらどうだ」
「……でも」
「それなら、私が一緒に入りますわ。私も、たくさん駆け回って汗もかいてしまったし……それなら安心でしょう?」
「え……いいん、ですか?」
笑顔を見せる燕。怪しいのには変わりないのだが、このまま風呂に入らないなどと言い出されても困る。それに、この状況で日辻が危険にさらされたら、真っ先に疑われるのは燕だ。ここで何かするのは得策ではないだろう。そのまま日辻を頼み、緋亞は礼拝堂の椅子に座って蓮を呼ぶ。初めは首をかしげていたが、小さな歩幅で隣へと座った。
「いきなり変なことを聞くが……君、ボボに会ったことは?」
「あるよ」
まるで、猫を見たことがあるかのように、まるで、転んだことがあるように。何気ない会話の切れ端のような言葉で、蓮は答えた。
「そうか。……今日も会ったのか」
「ううん」
「ならどうして日辻だけ帰ってきたことがわかったんだ?池に浮かんでいたからか?」
「戻ってきたから、戻ってきたよって言った」
「ん~……そうか……なら、君はあちら側にいったことあるのか」
「うん」
「どこからあちら側に行ったんだ」
「鏡」
「鏡の、中か?」
「うん。鏡の中入る」
「……それは僕でも入れるか?」
「入れるよ」
「ふむ……成程、その鏡は裏庭の鏡か?」
「うん」
「裏庭に行って、君は意識を失わなかったのか?」
「息をちょっと止めればすぐだよ」
「ふ、それは確かにそうだ……ちなみにボボは、何才くらいの女の人だ?」
「ん~?いつのボボ?」
今までのすり合わせは概ね予想通りだったが、想定外の答えが返ってきた。
「……まさか、ボボは毎回姿が違うのか?」
蓮は目をパチクリと数回瞬きした後。初めて笑って見せた。
「……ふふふ、そんなわけないじゃん」
「……へぇ、笑えるんだな。少し安心したよ……それじゃあ、つい最近あったボボは何才くらいだったんだ」
「う~ん?…………最近じゃない。最後でいい?」
「……最後?」
「最後なら、ん~……四十才くらい」
「……その最後っていつのことだ?」
「……覚えてない、ずっと前」
蓮の年齢から察するに、ずっと前といっても一桁だろう。すると、四十代か。何か、鏡宮家に関係のある人だと思っていたが、廉獄は六十代で、廉は二十五だ。廉獄が二回り下の妻を取るとは考えられない。希紗は六十代だった。だからと言って、廉の年齢を見ると息子娘という歳でもないだろう。
「私も質問いいー?」
長く考えていたら、蓮から声をかけられた。初めのころに感じていた不気味さのようなものはほとんどない。普通の少女だ。「どうぞ」と返答する。
「貴方はだあれ?」
「………は?……緋亞、だが」
「ヒツギ…………ふーん」
一瞬質問の意味が分からず、名前を答えた。それを反芻した蓮は足をふらふらと動かし、もうこちらには興味を示していない。飽きたようだ。何か言いかけようとしたところで、中国語で蓮を呼ぶ声がする。林だ。
「あ、いたいた。あれ?ヒツギさんもいる……お話ししてたんだ」
「うん」
「もう寝る時間だよ、蓮」
「はぁい」
パタパタと駆ける蓮を見送り、林は緋亞に一礼する。風呂の準備をしていたからだろうか、腕まくりをしている。その左腕に、だいぶ前の物だろうか、大きな傷がついていた。
「……君、その腕のキズはどうしたんだ。」
「あ、これ?子供の頃、怪我したやつ。一生傷」
「かなり酷い傷だな。……まあ、深くは触れないが。それで?本は読めたか」
「あ、うん!読めたよ!」
顔が明るくなる。協力できるのが嬉しいらしい。
「口頭で聞いてもいいか?それとも書く必要があるなら手帳を出すが」
「えっと……中国語なら話せる、でも、キチンと伝える、難しい……少し待って、まとめてくる……!」
「そうか……ならゆっくり待とう。僕も考えをまとめなければならない」
「今、ヒツジさんお風呂。後で、部屋にお茶持っていく。そのときでいい?」
「ああ、助かるよ。」
林が礼拝堂を出ていくのを待ち、緋亞は礼拝堂をもう一度見渡す。“あちら側”のここで、廉獄が殺された。恐らくボボに。さて、助手も被害にあったことだし、早急に事件解決したいところだ。立ち上がり、推理をまとめるために客間へ戻る。
「すみません、燕さん。ありがとうございました。」
「うふふ、またいつでも仰ってください」
燕が日辻を連れて客間へと戻ってきた。日辻もありがとうございましたと頭を下げている。緋亞は少し燕を観察したが、特に嫌悪などの感情は見えない。というか、日辻への距離が近くないか?日辻の腰に手を回し、いつもより表情が柔らかいような気がする。しかし、年の離れた妹がいる日辻は特に気にしていないようだ。そのまま燕は部屋へ戻り日辻は畳に座る。目が合った。安心したような顔を見せるが、気づかない素振りを見せた。
「日辻、意識を失ったあとの話を聞かせてくれ」
「ああ、はい……ええと。裏庭で緋亞と話してるとき、なんだか目眩がして、倒れて……その後目を覚ましたら、裏庭だったけど、緋亞がいなかったので周りを探してたんです。でも、何処にもいなくて……しかも、林くんも廉さんも皆もいなくて…………」
涙をためて俯く。ボボの存在に、あちら側に連れ込まれたとなれば、日辻には酷だろう。震える手は緋亞の手に重ねられる。振り払うほど、非道な性格などしていない。
「……大丈夫だ、ここなら意識は失わない。それで?」
「……それで、西館も東館も探してもいなくて、私たちの荷物も無くなってて……もう一度、北館にもどって、その時礼拝堂を開いたんです……そうしたら、そこで廉獄さんが床に血を広げて倒れていて。慌てて駆け寄ってしまって、脈も確認したんですけど冷たくて、死んでいました……そこからは、あまり覚えていなくて……でも、夢中で緋亞を探して、ここまでいないなら外かと思って、玄関から外に出た……ような気がします。最後はまた目眩がして倒れたような……」
「それは本当に外だったか?……目眩がした時、裏庭のように靄がかかっていなかったか」
「霞……ああ、白っぽくて、外がよく見えなかったような気がします……」
「あとは…そうだな、外に出た時、池は見たのか」
「池?見たような……見てないような……」
「ふむ……まあいい。大方わかった。お前は向こうで四十代ほどの女性は見なかったんだな」
サッと日辻の顔が青ざめる。慌てて手を前に振る。
「……えっ、そ、それ……ま、待ってください!見てません!絶対見てないです!」
「…恐らく、ボボは生きている女性だろう。歳を重ねている。蓮いわく、最後に見たのは四十代だったらしいが…」
「い、生きている……?どこで、ですか?」
「勿論、鏡のあちら側、だ。」
「ひ、緋亞まで、そんな……これは小説じゃないんですよ!」
「……僕はフィクションを話しているんではない。ノンフィクションの話だ。鏡の世界なんてあるわけないだろう」
「言ってるじゃないですか!こことそっくりな、鏡のあちら側なんて……!」
「いいや?物理的に可能だと思ってな。池の部分はわからんが……この島の地図はお前も見ただろう?」
緋亞は手帳を取り出し、サラサラと鏡島の地図を描く。横に広い楕円形の島の形の右側に今いる屋敷、そして北館の奥に続く裏庭からさらに北側、おおよそ島の半分が森で囲まれている。その半分、森の方に緋亞はもう一つ屋敷を描いた。裏庭の鏡の壁を境にして、今いるこちら側の屋敷と、森に書かれたあちら側の屋敷。
「…………鏡写しになってる」
「恐らく鏡島の名前の由来でもあるんだろう……つまり、廉獄氏の死体も全て現実だ。そしてそれは鏡合わせに対になった建物の方の礼拝堂で死んでいる。と、考えればすべて辻褄が合うんだ」
「ということは、私が今までいて、倒れたのがこちら側で、目を覚ましたのが、あちら側……この鏡写しの建物、ってことですか」
「そういうことになるだろう」
「でも、それじゃあ私は始め、裏庭で倒れて、廉獄さんを探している屋敷を通ってあちら側に行ったんですか?それはさすがに無理があるんじゃあ……」
「裏庭で気を失って、あちらの裏庭で目を覚ましたのは、目の前に通行口があるだろう。」
「え?目の前?裏庭は行き止まりですよ?」
「鏡があるだろう。」
何が何だかわからない、と眉を顰める日辻だが、緋亞は事実しか言っていない。まあ、明日“実践”すれば済む話しだ。
「失礼しま…………」
扉を開けた先には、お茶を持った林が立っている。目を大きく開いて、口を開けたままだ。改めてこちらの現状を確認する。怖がって手を繋ぐ日辻と、そのままにしている緋亞。あと少しで肩が触れるくらいの距離だ。やってしまったと、顔を赤くして扉に隠れる。
「……コイツが怖がっていただけだ、何も無いぞ。入ってこい。」
「…………ほ、ほんとですか……?」
「本当だ。子供をあやしていたとでも思えばいい」
事態を把握した日辻が慌てて手を放す。
「緋亞!林くんが来るなら言ってくださいよ!あと子供ってなんですか!!」
「忘れていたんだ。そもそもお前が掴んだんだろうが」
「そ、その、ヒツジさん、大丈夫ですか?」
「え?あぁ、大丈夫です!心配かけちゃってごめんなさい」
「よかった!ヒツギさんも、よかったですね!」
「……別に。それで、お前は話をしに来たんだろう」
話を逸らす、まとめてきたと自信満々に胸を張る林がお茶の用意をしている時に、緋亞のスマホに着信が鳴る。相手はラムだ、林に断って電話を取る。耳を劈くようなラムの声が響いた。
「おい!ムク!まだ先生見つからないのかよ!!!」
「えっ?」
「……さっき見つかった。その後バタついていて連絡を疎かにした……落ち着け」
「あ、あの、ラムくん!私無事なので、安心してください!」
「せ、先生~!無事でよかったぜ。スゲー心配してたんだからな!大丈夫?」
「……ふふ、はい。心配かけてごめんなさい」
日辻にも声が聞こえていたようだ。近づいてラムに日辻も話しかける。素直に心配していた、と、無事でよかったと言うラムに、日辻も嬉しそうだ。
改めて電話した理由を聞くと、頼んでいた鏡宮燕の素性はまだ掴めていないらしい。
「でも、鏡宮廉獄の大学時代とその後についての話でちょっと兄貴が警察のファイルを調べたんだよ……てちょっ、兄貴!お前が言わなくてもいいだろ!おい!
……もしも~し。ミキちゃんは無事なようだな。へっぽこナイト」
「……五月蝿いぞタラシ警部」
軽薄な声、反射的にため息が出る。電話の相手がラムの兄に変わった。ラムの兄であり、警視庁捜査一課の警部“八木マト”だ。ラムより五つ上の三十二歳だ。若くして警部となり、優秀で仕事もそつなくこなす。欠点は女関係、所謂女たらしだ。何度も日辻に言い寄ってはそつなくかわされていた。それも昔のことだが。今ではどうしてか、日辻に軽率に近づいていないように思える。
「ラムに言われてお兄さんも片手間に調べてみたぜ。鏡宮廉獄。大学時代は鏡の研究をして、それで会社作った成功者だけど。その時に一緒にいた、恐らく男女の中だったある女性が今失踪しているな」
「やはりそうか……その女性は現在生きていれば何才だ?」
「二人が出会ったのは四十年前。廉獄が歳、彼女が二十歳。そして、二十七年前。廉獄が鏡宮会社を作った年に、彼女は失踪。現在彼女が生きていれば、六十歳。いい淑女になってるんじゃねえか?……名前は胡何美(フーファ・メイ)。中国人だ。胡何家は元より女性を尊重し、聡明な女性が産まれる家系なんだとよ」
「まるでこことは真逆だな。………。いや、そうか、逆か……」
「まあそんなところだな。会社を立ち上げた年に丁度失踪。男尊の家と女尊の家。色々と考えられることは多いだろうが、推理はお前の仕事だ、探偵。ミキちゃんのこともあるし、明日には俺達もそっちに行けるから。それまで頼んだぞ」
「お前達二人して来るのか?」
「どうにかして理由つけた。ミキちゃんも被害にあってるし、これから起こりそうな事件を防ぐのも俺らの仕事なんでね」
「……わかった。お前たちの身分は明かす予定か?」
「俺達がつくまでに事件が解決してたらな。つってもつくのは夕方だ。警察に嘘つかせるなよ、ムク」
「はぁ……わかった。解決しておこう。」
「解決してたらお兄さんが松葉ガニでも岩牡蛎でもご馳走してやるぜ、頑張れよ」
「あまり期待はしないでおくさ。」
電話が切れる。姿勢を直して、林の方を向く。律儀に正座して待っていたようだ。淹れてくれたお茶を少し飲み。目線を合わせて頷く。それが合図かのように、林は丁寧に話すことをまとめてきたのであろう、しっかりとした日本語で、一生懸命に話し始めた。
「ええと、この本に書いてあったのは、ある中国の一族の話です。胡何家、聡明な女性が産まれる家元で、多くの成功者を出しています。仏教徒であり、多くの土地も持っていて、その地に必ず礼拝堂を建てて祈りを捧げる風習があります。あとは、その家に産まれる人は、特に女性が若く見られることが多いです。そして、その胡何家に代々仕える李家という一族もいるそうです。」
「仏教徒で女尊の胡何家と、それに仕える李家ですか……」
「廉獄氏と関係があり、会社が立ち上げられたタイミングで行方不明になった女性がいる。胡何美という名前だそうだ。実年齢より若く見られることが多いそうだから、四十代といった蓮の発言は食い違わないだろう……恐らく彼女がボボだ」
「それと、李家は鳥の刺青を背中に彫る風習があるって書いてます。従者として主人の元へ何処にでも飛んでいくと言った意味らしいですよ」
日辻が小さく「え」と呟いた。
「……日辻、その刺青をついさっき見たのか?」
「……燕さんの背中、ツバメの小さな刺青がありました。緋亞が言うように、燕さんが中国人だとしたら、李家である可能性が高いです」
「よし、概ね想定通りだ。成程……従者の一家か……親戚では出てこない訳だ。」
「この本、どうしてこの家に……?ここ、鏡宮様の屋敷……」
「……たぶん、ここの家が元々鏡宮家のものでは無いんだと思います。使われていない礼拝堂や、日本人の鏡宮家と中国様式の屋敷。ここが胡何家の物だとしたら全て辻褄が合うんです」
「そうだろうな。…鏡宮なんて名前も滅多にいない。探し当てるのは容易だろう」
林がまさか、といった顔をしていた。無理もない、今まで働いてきた家族の住んでいる家が、全く別の家族の家だったのだ。そして、行方不明の胡何美の存在、奪われた研究。この家に鏡宮家が住んでいるのはきっと正規の理由ではないのだろう。
「……緋亞、これからどうするんですか?」
「……鏡の向こうに行くか。少なくとも、廉獄氏の死体か血の跡くらいなら確認出来るだろう。明日の夕方迄にはカタをつけなければアイツらに小言を言われる。」
決行は明日の朝、皆が寝ている早朝。林も早く起きて朝食を作ると協力してくれるらしい。そして、タイムリミットは明日の夕方。マトとラムが来るなら最後を警察に任せてもいいかもしれないが、助手のお礼参りくらいはしておきたい。
日辻が時系列を簡単にまとめていく。林が最後、廉獄を見たのは昼頃。そしてそこから廉獄は姿を消し、緋亞の推理通りなら、あちら側の屋敷の礼拝堂で発見した。
そして、同じく昼頃、緋亞と日辻が裏庭で倒れる。数分後目を覚ました緋亞は日辻がいないことに気づいて、夜まで日辻を探した。
日辻はあちら側で目を覚まし、礼拝堂で殺された廉獄を見つけた後、あちら側の池で気絶した。気が付いた時にはこちら側の池にいて、緋亞に発見されている。
「もし、私を抱えてこの島を半周して移動するとなると、緋亞が廉さんに会った夕方から、私を見つける夜までかかると思うんですよ」
「それはそうだな。お前もその間意識を失ったままだったんだろう?」
そうなると、日辻を運ぶ時間を考慮して、廉獄が殺されたのは昼から夕方の間になる。廉獄が殺されていた状況を思い出すが、血が意図的に広げてあり、殺してからあそこまでするにはかなりの時間を要するだろう。それに、緋亞も言った通り長い時間運ばれているなら気づくはずだ。緋亞が数分で起きたことや、池から引き揚げた日辻を緋亞が簡単に起こせたのを見ると。長い時間運ぶのは得策ではない。実行犯と、運ぶ人間の二人が存在し、共犯の可能性も十分にある。
「……あとは、いまだに謎が一つ」
「謎?」
「私がこの島に呼ばれた理由です。丁寧に、鏡の言い伝えであちらへ向かっても違和感のない細工をしてまで……」
「……自分では、どうすることも出来なかったんじゃないか。……いや、わからん。こればかりは憶測ばかりで思いつかん。それに恨み云々なら、連れていかれた時にろくな目に合わないだろう」
恨まれるようなことはしてきたつもりはないと言うと、恨み云々なら連れていかれたときにろくな目に合ってないだろうと緋亞が言う。確かに、眠らされてあちら側に連れていかれてはいるが、特に外傷などは無い。明日、向こうの屋敷、ここでは裏の屋敷と言おうか。そこに行くときに、何かされる可能性もあるが、次は緋亞も一緒だ。
「今度こそ絶対に緋亞にぴったりくっついてますから!」
本心だが、からかうように言ってみる。何か考え事をしていたのか、椅子に座って窓の外を見ている緋亞がこちらを見る。日辻を見つめ、少しだけ眉を顰めてから「そうしてくれ」と呟いた。
「……す、素直ですね……てっきり暑苦しいやめろとでも言うかと……」
「五月蝿いな。目の前で人が居なくなって心地のいいやつがいるか」
顔を逸らして、また窓の外を眺め始めた。心配したのか、手間をかけさせるな、の意なのか。どちらにせよ気分のいいものでは無かっただろう。すいませんと謝ったら、今度は目線を合わせずに「さっさと寝ろ」と言った。
「一緒に寝てくれないんですか……?」
「……必要か?」
「……だ、だめ、ですか……?」
「もう幽霊や妖怪の類じゃないと分かったのに何故お前と寝なければならない」
正直、もうしばらく一人で寝られそうにない。こういう時はいつも自分の想像力が嫌になる。顔を伏せて、懇願したが、この探偵には人の心が無いのか。
「……バカ…………もういいです。昨日は椅子で寝たんですから、今日は私がそっちで寝ますからっ!」
「身体的ダメージならお前の方が深いんだから布団で寝ろ」
「引っぺがさないでください!そんなの関係ないです!私が椅子で寝たいんからいいじゃないですか!」
「お前の明日の動きに支障が出ては困る」
「そんなの私だって緋亞が明日体バキバキじゃ困るんですけど!」
コンコンと扉をノックする音。心臓がはねる。思わず緋亞に抱きつくが、うっとおしそうにそれを押しのけ、緋亞が扉の向こうに声をかけた。扉の先には、パジャマ姿の蓮が一人で立っている。声をかけると、大粒の涙を流し、日辻の胸へ飛び込んできた。
「……どうした。嫌なことでもあったか。」
「……怖いゆめ、見たの……」
「林くんは?」
「………………明日、早いから、寝てる。起こしたくない……」
抱きしめながら、ハラハラとこぼれる涙を拭きとる。怖い感情も、兄を気遣う感情もある普通の子なのか。
「……蓮、日辻と寝たらどうだ。」
「うん、蓮ちゃん、一緒に寝ようか。私となら安心できる?」
コクリと頷き、日辻を抱きしめ返す。緋亞に頼んで布団を敷いてもらっている間に、泣き疲れたのかウトウトと腕の中で船をこぎ始めた。緋亞がひょいと布団に寝かせる。その隣に座り布団をかけると、閉じかけの眼で緋亞を見つめた。
「……ヒツギも一緒に寝て……?」
「何故僕まで……」
「……だめ?」
「……はぁ、わかった」
渋々と布団へ入り込む。三人で寝ても布団は少し余るくらいだ。蓮が小さいというのもあるが、中々に大きな布団なのだろう。
「ありがとう……」
「いいのいいの、子供は甘えるのが仕事なんだよ」
「……子供じゃないもん……」
頬を膨らませるが、そのまま日辻に抱きついてくる。説得力が全くなくて少し笑ってしまった。
「いつもは林くんと寝てるの?」
「……ううん」
「じゃあ、いつも怖い夢見たら一人?」
「お母さんの写真、見てる……でも、あっち側で、無くしちゃったの……」
「じゃあ、私が探してきてあげるよ。だから大丈夫」
「……ありがとう、ヒツジ……」
「……母親も白髪なのか?写真を探す宛にしたい」
「うん。ヒツジと同じ」
成程、もしかすると母親に重ねているのかもしれない、林の年齢を考えると若すぎるかもしれないが。緋亞もちゃんと探してくるよと頭を撫でると、少し微笑んだ後、寝息を立て始めた。
数分、蓮もしっかりと寝始めたくらいに、緋亞を見ると、まだ別の考え事があるのか眠っていなかった。じいっと見つめると、視線に気づいたようだ。小声でなんだと問う。
「……私は断るくせに、蓮ちゃんとは一緒に寝てあげるんですね」
「……部屋に誰もいない、一人じゃ怖い思いもどうにも出来ないなら、寝るくらいする。お前は同じ部屋に僕がいれば、それでいいかと思ったんだ。それ以上もなにもない」
「……私だって、誰もいない屋敷で怖い思いたくさんしてきたんですけど」
蓮が来たことで怖さはほとんど緩和されたのだが、ここまでくれば半ば意地だった。それなのに、緋亞は「だから布団で寝ろと言っただろ」と的外れなことを言い出す。そういうことではないのだ。
「……僕はどこにも行かない」
呟いて、日辻を見つめる。別に、そんなことを言ってほしいわけでもなかったのに、ここから何か言い返したら、一緒に寝たかったとか、傍にいたかったという他ないではないか。本意ではあるが、言いたくはない。俯いて黙っていると、緋亞の伸ばされた腕が日辻の頭に置かれ、そのままぶっきらぼうに撫でられた。呆気にとられていると、すぐに後ろを向いてしまった。少し乱れた髪が妙に嬉しくなり、自分でもここまで安心したことに驚いてしまった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!